第3話 もうひとりの人魚 二.

 翔くんの表情と無言は、もっともだった。

 ずっと男だと思って接してきた、兄弟のような幼なじみから、なんの準備もなく「自分は女性だ」と告白されて、すぐに飲み込めるはずがない。


 わたしはそれから三日間、学校を休んだ。

 仮病ではない。

 ショックがそうさせたのか、高熱が出たのだ。

 

 具合がよくなると、わたしはまた、男性の仮面をつけて学校へ通った。

「変」のことは、翔くんにしか言っていない。

 両親にも秘密のままだった。

 

 朝、教室に入ると、そこにいたクラスメイト全員が、わたしに視線を向けた。


 三日ぶりの登校だからだろうと思ったが、そうではなかった。


「なあ。これからは、森下さんって呼んだほうがいい?」


 男子のひとりが、わたしに声をかけた。


 えっ、と思って、気づく。


 みんながわたしに向けている目。


 それは、まるで珍しいいきものを見るような奇異の目だ。


「病気のこと、聞いたよ。たいへんだな」


 はっとして、翔くんを見る。

 翔くんは、顔を伏せる。

 

 翔くんが、みんなに話したのだ。


「べつに、オカマ、ってわけじゃないんだよな?」


 クラスメイトが、悪気なくたずねる。


「オカマじゃなくて……こころの問題なんだよな?」


「おい!」


 翔くんが、すかさず怒声を上げる。


「おまえ、なに言ってんだよ!」


「えっ?」


「おれがみんなに慎のことを話したのは、みんなで、慎を、わかってあげよう、って……!」


 苦しそうな翔くんの声は、遠くに聞こえた。


「なんか……なんか、俺たちにできることがあったら、言えよな」


 クラスメイトは、ぎこちない笑顔を浮かべた。


 そこから、わたしに対するみんなの態度が、明らかに変わった。


 彼らはわたしを、腫れ物のように扱いだしたのだ。


 それはいわゆる「いじめ」とは違う。

 無視したり、こころない言葉を浴びせたり、ということではない。


 彼らはわたしを、懸命に理解しようとしてくれる。

 

 それは、わかる。

 当事者として、痛いほど感じる。

 でも、十四歳の心はまだ、このむずかしい事実を飲み込めるほど、成熟していない。


 わたしという存在が、異物としてクラスの中にある。

 得体の知れないものに対する好奇心と恐怖感が、教室中に蔓延している。

 彼らは、わたしにどう接していいのか、わからなかったのだ。

 

 こんなことは、望んでいなかった。

 わたしは、特別扱いされたいわけではない。

 ありのままで、ふつうに過ごしたい。

 それだけなのに。

 

 ほどなくして、わたしは学校に行かなくなった。

 翔くんとも、口を利かなくなった。


              ◇


 結局、卒業するまで、わたしは家に引きこもっていた。


 わたしの両親は、この不登校の理由を「いじめ」だと思った。

 しかし、プライドの高い父は、母がその推測を学校に伝えようとすると、激昂した。

 そんな原因が周囲に知られるくらいなら学校に行くな、と、わたしと母に怒鳴った。


 受験の時期がきて、わたしは「他県へ働きに出たい」と両親に話した。

 外に出ない間も勉強は続けていたけれど、高校……特に、東京の学校に進学するのがいやだった。


 入学した先で、もし、わたしの「変」を知っている同級生がいたら。

 街で、出くわしたら。

 そう考えると、苦しくてたまらなかった。

 

 当然ながら、両親は猛反対した。

 特に父は「それなら勘当する」とまで言った。

 

 ならばとわたしは、家を出て、誰とも関わることなく、ひとりで生きていこうと決心した。

 

 母から提案を受けたのは、ひそかに計画していた家出を明日に控えた夜だった。


「ねえ、慎太郎。片辺奈かたべなの高校を受けてみない?」


 宮崎県、片辺奈町。

 わたしの母方の実家があり、今は祖母がひとりで住んでいる町だ。


「おばあちゃんちに住んで、そこから通うの」

 

 父と違い、母はわたしにやさしくしてくれる。


「慎太郎が学校に行きたくないのは知っているわ。東京にいたくない、ってことも、わかってる。……でもね。高校だけは、絶対に出ていた方がいい。これからの、未来のために」


 医者と看護師である両親は、なかなかまとまった休みを取ることができず、親戚で集まるべき年の瀬やお正月は、いつも祖母を東京に招待していた。

 

 だからわたしは、帰省、というものをあまり経験したことがない。

 以前に宮崎に行ったのは、まだ、わたしが六歳のときだったか……。

 

 おぼろげな記憶を探り、片辺奈の町を思い描く。

 なにもない、自然のゆたかな、南風の吹く町……。


「母さん、仕事があるから一緒にはいけないけれど……でも、お休みが取れたら、必ず会いに来るから。慎太郎が呼んでくれたら、飛んでいくから」

 

 母は、目に涙をいっぱいためて、わたしを抱きしめた。

 

 わたしを知る人が、ひとりもいない町。

 父のいない家。

 自然に囲まれた環境。

 それらの魅力に、母の懇願が足し算される。


「……わかった」


 わたしがうなずいたときの、母の救われたような顔は忘れられない。

 そうしてわたしは片辺奈の高校を受験し、合格した。


「まあ、慎くんと一緒に住めるとね」


 迷惑をかけるのをおっくうに思っていたけれど、祖母は快くわたしを受け入れてくれた。


「おじいちゃんがなくなってから、ずっとひとりだったから。ああ、うれしいわあ」


 不安がなかったと言ったら、嘘になる。

 でも、東京の街を去るときは、固い扉のように閉じていた胸骨が開いて、そこに、さわやかな風が吹き抜けるようだった。

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