第3話 もうひとりの人魚

第3話 もうひとりの人魚 一.

 この町に引っ越してくるまで、わたしはいつも、翔くんといた。


 家がとなり同士で、家族ぐるみのつきあいがあった。

 物心がつく前から、わたしたちは兄弟のように育ったのだ。

 

 どこへ行くにも翔くんとだったし、なにをするにも翔くんと。


 幼稚園からはじまり、小学校も、中学校も、わたしたちは同じところに通った。

 社交性がなく、人づきあいが苦手なわたしにとって、彼は、ただひとりの親友だった。


 彼はいつでも、わたしを気にかけ、いたわってくれる。

 わたしが困っていると、すぐに助けてくれる。

 

 同い年なのにおかしいとは思うけれど、ひとりっこのわたしは、それこそ「兄がいたらこんなふうなんだろうな」と、翔くんをみて思っていた。

 彼もまた、わたしを信頼し、こころを開いてくれていただろう。

 

 つらいのは、そんな彼に、嘘をつき続けなくてはいけないことだった。

 

 わたしは、自分が「変」だと気づいてからも、彼に「慎太郎」として接していた。 

 男性の仮面をつけて、本当の自分を……「ゆき」をひた隠しにして、彼と過ごしていた。


 プールを避けるために使う仮病を、彼は本気で心配する。


 トイレで体操服に着替える理由を、彼は本気で詮索する。


「慎。なんかあるんだったら言えよ。おれがなんとかしてやる」


 彼がやさしい笑顔を向けるたび、胸がじくじくと痛んだ。

 その笑顔は、男ともだちにだけ向ける、素朴で屈託のない、こころをゆるした笑顔。


 そんな顔を向けられる資格なんて、わたしにはないのに。

 罪悪感に苦しみながらも、わたしは彼に、秘密を打ち明けられずにいた。


 そして、中学二年生の、春。


 声が、うまく出なくなった。


 どうやっても、くぐもってしまう。

 のどに触れてみると、小さなこぶのようなものができていた。

 

 しばらくすれば治ると思って、そのまま過ごしていた。

 しかし、それから一か月が経って、声はよくなるどころか、悪化した。

 これまでに比べてうんと音が低く、前に出ていかない。

 のどのこぶもいっそうに膨れて、ごつっとするまでになっていた。

 

 まさか、と、血の気が引く。

 

 男性の仮面がそのまま外にあらわれている自分の顔を見るのがつらいから、わたしはふだんから、鏡を避けていた。

 入浴時には、濡らしたタオルを張りつけて、見えないようにする。

 自分の外見が、なにより自分を苦しめるから。

 

 それでもわたしは、ひとすじの希望にすがって、鏡を見ずにいられなかった。

 

 なにかの間違いだ。

 よくないできものが、できているだけだ。

 

 洗面台の前に立って、伏せていた顔を上げる。

 

 病気であったほうが、どれだけよかっただろう。

 

 それは、のどぼとけだった。

 

 わたしは、声変わりをしていた。

 

 くらくらして、涙がこぼれた。

 鏡には、いつの間にか、ひどくがっしりとした体つきになった「慎太郎」が映っている。

 口の周りに、うっすらと、産毛ではない毛が生えている。


 ひげ、と気づいた途端、体の力が抜けた。

 

 へたり込み、腕で涙をぬぐうと、眉間に嫌な触感があった。

 少し前に剃ったばかりの腕の毛が、これまで以上に、太く、黒々と生えていた。

 

 はじけてしまいそうだった。

 

 自分でもわからないくらい、私は大きな声を上げていたらしい。

 

 どれくらい、そうしていただろう。

 そのとき、両親は留守で、家にはわたしひとりだった。

 気づけば、すぐ近くで声がした。


「どうした、おい、慎!」


 翔くんの声だった。


「なにがあった? 大丈夫か?」


 翔くんは、うずくまって泣くわたしの背に、あたたかな手のひらをおいた。

 顔を上げると、ひざをつき、心配そうな表情を浮かべる翔くんが、涙でゆがんで見えた。

 わたしの泣き声を聞き、何事かと、勝手口から様子を見に来てくれたようだった。


「翔くん」


 わたしは、彼にすがりついた。


「いやだ、いやだよお」


「なあ、どうしたんだ、いったい」


「いやだ、いやだ、ああっ」


 それしか言葉がない。


 こころを無視して、からだが勝手に男性になっていく。


 その変化が、恐ろしくて、気持ち悪くて、いやで、いやで、いやだった。


「どうして、どうして」


「慎」


「どうして、こんな目にあうの。どうして、こんなふうに生まれてきてしまったの。

つらい、つらいよ」


 胸のうちから、激情があふれてくる。

 翔くんのふとももに、顔を押しつけた。


「わたし、男じゃないのに。わたし、男じゃないのに!」


「わかった、わかったから、わけを話してくれよ」


 翔くんが腰を下ろし、わたしの背をやさしくなでる。


 血だらけのこころが、逃げ道を探す。

 ひとりでは耐えられない痛みが、あとからあとからつき刺してくる。


 おかしくなりそうだった。

 助けてほしかった。

 

 ――翔くんなら。

 

 翔くんなら、本当のことを言っても、受け入れてくれる。

 助けてくれる。

 

 そうだ。

 彼なら、彼なら、きっと……。

 

 仮面にかかった手が、しずかにそれを外した。


 わたしはへたり込んだまま、彼に、わたしの「変」を、告白した。

 

 どんな言葉で、どんなふうに伝えたのかは、覚えていない。

 

 覚えているのは、話を聞いている翔くんが、ずっと眉根を寄せていたこと。

 

 そして、そのまま、なにも言ってくれなかったこと。

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