第2話 汽水域の人魚 三.
次の日、登校してクラスへ向かうと、なにやら教室がにぎやかだった。
見れば、生駒くんの席に、人だかりができている。
漏れ聞こえてきた話によると、昨日、野球部の大会があったらしい。
その試合で、生駒くんが、大きな活躍をしたという。
わたしは自分の席につき、鞄を置いて、聞き耳を立てた。
「ほんと、生駒がいなかったら、絶対に負けてたわ」
クラスメイトの竹田くんが言う。
彼も野球部だ。
「あの強豪相手に、ほとんど完封。しかも、二打席連続ホームラン。スカウトが来てたら、絶対に声かけられてたわ」
「いや、運がよかっただけだって」生駒くんの声。
「謙遜すんなって。おまえ、絶対プロになれるよ」
「えー、じゃあ今のうちにサインもらっとこうかなあ」
「私も、私も! あ、写真も撮って、一緒に!」
彼の周囲の女子たちが、黄色い声を上げる。
ずき、と胸が痛む。
彼女たちがうらやましい。
彼女たちは、彼への「可能性」を持っている。
つらい。
つらいのに、耳をそばだてずにいられない。
「今年の野球部って、甲子園狙えるくらい強いんやろ? 歴代最高のメンバーが集まったって噂を聞くわ」
「ああ。期待してくれていいよ。なんてったって、ウチには生駒がいるっちゃかい」
「竹田、もうやめてくれよ。恥ずかしいっつーの」
「おいおい、今からそんなで、甲子園のお立ち台でうまく喋れると?」
みんなが笑い声を上げたとき、チャイムが鳴った。
「席につけー」と言いながら、教室に先生が入ってきて、ホームルームが始まる。
わたしはずっと、うつむいていた。
矛盾する気持ちが、胸を締めつける。
彼が褒められるのは、本当にうれしい。
なのに、どうかこれ以上は活躍しないで、とも思ってしまう。
これ以上、人気者にならないで、と願ってしまう。
可能性のない、わたしが。
◇
「うわっ!」
休み時間に、六時間目の授業の準備をしていたときだった。
机上に鞄を置いて、中身の整理をしていると、ガムテープを丸めたボールを投げ合っていた男子のひとりが、体勢をくずして、わたしの机にぶつかってきた。
鞄が落ち、床に教科書やノートが散乱する。
「すまん、森下!」
その男子は、竹田くんだ。
彼はあわてて、鞄の中身を拾い集め、
「ん?」
フェルトのカニのマスコットをつまみあげ、「なんだこれ」と言った。
「あっ!」
それは、昨晩につくった、ナシャルへのプレゼント。
今日、渡そうと思って、持ってきていたのだ。
わたしは彼の手から奪うように、マスコットを取りあげた。
「それ、森下の?」
「えっと……」
「えらいかわいいな。そういうの好きやと?」
他意のない顔で、竹田くんは言う。
「いや、これは……」
わたしは、マスコットを鞄の内ポケットにしまった。
「おばあちゃんが、つくってくれて……」
「へえ! すげえな、手作りね?」
竹田くんは感心したようだった。
「器用やね、森下のばあちゃん」
うなずきながら、わたしは胸をなでおろした。
わたしの仮面には、少しのほころびも許されない。
自分でつくったと知れたら、それが亀裂となって、またかなしい想いをすることになるだろう。
やがて放課後になり、わたしは足早に海へと向かった。
いつものルートで汽水域に着くと、堤防に座って、ナシャルが骨に頬ずりをしていた。
前にも一度、見た光景だ。
足音でわたしに気づいた彼女は、目を開けて、かたわらに置いていたボードを手にとった。
「こんにちは、ナシャル」
彼女は、にこりとほほ笑んだ。
「あのひとのにおいをかいでたの?」
彼女の隣に腰を下ろしながら訊くと、彼女は首を左右に振り、
『ほねを、ほほにあてて、めをとじると』
『あのひとと、いっしょにいたときの、おもいでが、みえる』
「思い出が見える?」
彼女はうなずく。
『ふたりですごしたじかんが』
『えいがの、わんしーんみたいに、まぶたのうらに、よみがえる』
彼女は、ひざに乗せている骨に視線を向ける。
『このほねは、あのひとと、はなびをみにいった、おもいで』
「花火」
『なつに、ふたりで、ゆかたをきて』
『よるのじんじゃでみた、はなびのおもいで』
彼女は、暮れゆく空に目を向ける。
赤い夕陽を受けるその瞳は、本物の花火をうつしているようだった。
『ほねには、ふたりのじかんが、つまってる』
『ほねの、ぶいによって、みえるおもいでが、かわる』
わたしはしずかに、彼女のつむぐ言葉を待つ。
『ほんとうは、あのひとのほねを、ぜんぶあつめたい』
『でも、それはできないって、わかってる』
人間は、二百個以上の骨の組み合わせからなっていると聞いたことがある。
そのすべてが、都合よく、砂浜に流れつくことはない。
彼女はそれを、わかっている。
『それでも。どうしても、もういちどみたい、おもいでがあって』
『わたしは、そのおもいでをみせてくれるほねを、まってる』
「どんな思い出を、待っているの?」
相手のことを知りたいからといって、そう簡単に深入りしてはいけない。
いつも自分に言い聞かせていたことが、このときばかりは頭の中から飛んでいた。
それくらい、このナシャルという謎めいた人には、中をのぞいてみたいと思わせる、魅惑的な深度があった。
彼女は、ボードに目を落とす。
これまでより時間をかけて、文字を書く。
『あのひとに、ぷろぽーずされたときの、おもいで』
そう返答した彼女の表情は、なぜか暗い。
それはきっと、すてきな思い出であるはずなのに。
『わたしはそのとき、あのひとに、いうべきことを、いえなかった』
『そして、そのつぎのひに、あのひとはいなくなった』
『わたしは、あのひとを、ずっとだましていた』
『ほんとのことをいえなくて、うそをついたまま、いっしょにいた』
沖にいるタンカーの、ボーッという汽笛が聞こえる。
『たとえそれが、おもいでのなかだけだったとしても』
『わたしは、あのひとに、あやまりたい』
『ほんとのことを、つたえたい』
『じゃないと、わたし。いつまでも、こうかいしたまま』
『この、きすいいきに、ずっといるまま』
『うみへ、かえれない。みらいへ、むかえない』
「……本当のことって、なに?」
無意識だったとしても、こぼれた言葉を取り消すことはできない。
あっ、と、わたしは手のひらで口をおおった。
彼女をとらえている後悔。
その後悔の原因をたずねるのが、どれだけ残酷か。
少し考えればわかることだ。
もう遅い。
わたしの声は、彼女の耳に、しっかりと届いてしまっていた。
「ご、ごめん。今のは、忘れて……」
あわてるわたしを、彼女は見つめた。
これまでに見たことのない、真剣な顔をして。
でもそれは一瞬で、彼女はすぐに、ふっ、とほほ笑んだ。
そうして彼女は文字を書き、ボードをわたしにみせた。
『わたし、ほんとは、にんぎょなの』
恋人との思い出を見せてくれるの骨を拾うために、自称人魚という人が、汽水域に住んでいる。
正気じゃない。
ばかげている。
変わった人が、おかしなことを言って、おかしなことをしているだけだ。
客観的にみれば、そう思うのがふつうかもしれない。
でも。
でも、わたしには、彼女の伝えてくれることが、わずかな濁りもなく、真実として流れ込んでくる。
それは、わたしに向ける彼女の灰色の瞳が、雪をたくわえた冬雲のように、どこまでもきれいだからだ。
その感覚は、うんと澄んだ水が、すうっとからだに染みこむみたいだった。
猜疑心なんて、ひとかけらもない。
ひたすらまっすぐに、わたしは、彼女を信じていた。
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