第2話 汽水域の人魚 二.

 ほんのりと薄桃色だった春に、萌える緑の色が染みてきた。

 

 散り終えたさくらには、みずみずしい若葉がしげっている。

 晴れた中でもときおり吹く水っぽい風が、梅雨の訪れを予感させた。


「味はどう?」


 日曜日の、午後一時。


 わたしとナシャルは、堤防に腰かけて、おにぎりを食べていた。


「しょっぱくない? 昆布、入れすぎちゃったかも」


 ナシャルは、口いっぱいにほおばっていたおにぎりを、ごくりと飲み込んだ。

 ひざに乗せている、小さなホワイトボードを取って、ペンを走らせる。


『おいしい、とっても』


 丸っこくて、かわいい字。

 ボードを見せて笑う彼女に、わたしも笑顔を返した。

 

 ボードは、わたしが町のホームセンターで買ってきたものだ。

 ペンを収納できるホルダーと、かわいいネコ型のイレーザーがついている。

 これで、スムーズに彼女と会話ができる。

 我ながら、いいものをあげた。


「よかった、口にあって」


『ゆきのごはんは、ぜんぶおいしいよ』


 彼女と出会って、一ヶ月。


 わたしは放課後だけでなく、休日も汽水域に通うようになっていた。

 ほとんど毎日、彼女に会っている。

 

 男性の仮面をかぶることで胸に張りつめる悪いガスが、彼女に会うと、フウッと抜けていくようだった。

 

 彼女の前では、自分を偽らなくていい。

 彼女に呼ばれる名前のおかげだろうか。

 わたしがわたしとして、そこにいられる。


『ありがとう、ゆき』


「うん。またお弁当つくって来るね」


 少しでも彼女の力になりたくて、わたしは食料や日用品を彼女に差し入れていた。


              ◇


 仲良くなるにつれ、彼女のことをだんだん知っていく。


 彼女は前に、汽水域に住んでいると言った。

 わたしは、きっと海の近くに家があるのだろうと解釈した。

 けれど、それは違う。


 彼女は言葉通り、本当に、汽水域に住んでいたのだ。


『そこにある、あみのベッドで、ねてるよ』


『たまに、ようすをみにきてくれる、なかまがいて』


『そのなかまが、たべものや、ふくを、くれるよ』


 ある日、彼女はそうわたしに伝えて、汽水域付近の漂着ゴミの山から、水の入ったペットボトルや、そこかしこが破れているジャケットを出してみせた。


 そういえば、真珠のつまった貝も、その山から出していた。

 それはゴミではなく、すべて彼女の所有物だったのだ。

 

 いくらなんでも、と思った。


「あの。あなたの、家族は……?」


『いる。とおいところに』


「外国?」


『たぶん』


「たぶん、って……」


『もう、ずいぶんあってないから、わからない』


 なにか、複雑な事情がありそうだった。

 そこで、生駒くんの顔が頭に浮かぶ。


 わたしは、彼から学んでいる。

 相手のことを知りたいからといって、そう簡単に深入りしてはいけない。


「……様子を見にきてくれる仲間って、どんな人?」


『かに』


「カニ?」


『おせっかいな、かに』


 カニ……みたいな人?

 うまくイメージがわかない。


「……どうしてその人は、あなたに、その……ぼろぼろの服ばかり渡すの?」


『そのひとも、ひろってきてるから』


「……。その人は、どんな食べ物をくれるの?」


『かいそう』


 べつだんやつれてもいないし、服装以外はまったく汚らしくないのが不可解だけれど、彼女がろくな生活を送っていないのは明らかだった。


 今や彼女は、わたしの大切なともだちだ。

 そんな彼女が、屋根のない場所で夜を明かしているのだと思うと、いてもたってもいられない。


「よかったら、うちに住まない? 余ってる部屋があるの。おばあちゃん、とってもやさしいから、きっと受け入れてくれるよ」


 わたしは、そう提案した。


 しかし彼女はほほ笑んだまま、首を左右に振って、


『ありがとう。でも、ここにいる』


「どうして?」


『ほねを、さがしてるの』


 骨。


 彼女は所有物の山を漁り、奥深くから、なにか大きなかたまりを、重そうに抱えて出した。


 そのかたまりは、貝。

 二枚の貝がらからなっていて、口がうねうねと波打っている。

 この貝の名前は知っていた。

 シャコ貝だ。

 

 彼女はシャコ貝を置いて、ていねいにその口を開けた。

 中に、数十本の白い流木があった。

 長さや太さはふぞろいだが、そのどれもがきらきらと白い輝きを放っている。

 出会いの日、わたしが彼女にあげた流木とそっくりだ。


「これが、骨?」


 よく見れば、流木には、小さなかけらのようなものや、石のようなものもある。


『わたしの、すきなひとの、ほね』


 はにかむ彼女を見て、少しだけ、背すじがつめたくなる。


『うみの、じこで、もういないひと』


『ふねが、しずんで、かえってこなくて』――


 彼女は、あるとき偶然、この砂浜でその人の骨を見つけた。

 船が沈んだ海域の流れが、この砂浜に通じているらしい。


『みつけたとき、ほんとうに、うれしかった』


『いろんなところを、たびして』


『ずっと、さがしていたから』


 まさか、これらは本当に、人骨なのだろうか。


 確かに、骨といわれればそう見えないこともないが、にわかには信じられない。

 しかし彼女は、嘘をついているようにも、わたしをからかっているようでもなかった。


「……どうしてこれが、その人の骨だってわかるの?」


 仮に本物の人骨だったとしても、それが彼女の大切な人のものだという証拠はない。

 人ではなく、クジラやイルカといった海獣の骨と考えるのがふつうだ。

 

 すると彼女は、考えるふうに上を向いた。


 しばらくそうしてから、答えを見つけたのか、ほんのりと頬を赤らめて、ボードにこう書いた。


『あのひとの、においがするから』


 続けて、


『いつ、あのひとのほねが、ながれてくるか、わからない』


『まえ、ゆきがそうだったように、さきにほかのひとにひろわれたら、たいへん』


『だから、ここにいなきゃ』


 それらが木だったとしても、本物の人骨だったとしてもいい。


 わたしは、彼女になるべく寄り添いたい。

 無性におせっかいを焼きたくなる、小動物のような魅力が彼女にはある。

 

 彼女がうれしいなら、わたしもうれしい。

 

 そうしてわたしたちは、食事やおしゃべりを楽しんだあと、一緒に砂浜で骨を探すのが日課になった。


 おもしろいもので、砂浜には、一日ごとに新しい漂着物がある。

 まるで間違い探しのように、砂浜の光景は、昨日と比べてささやかに違う。

 

 ただ、流木はたくさんあるものの、彼女が首を縦に振るような骨はなかなか見つからない。

 

 すみずみまで見て回ったけれど、残念ながら、今日も、空ぶりに終わってしまった。

 

 骨は、滅多に流れ着かないらしい。


『わたしも、なんねんもかかって、あれだけだから』と、彼女はいった。


 斜陽がふたりの影を伸ばす。午後五時を回っていた。


『あしたは、あるかも』


「そうだね、きっとそう」


『ゆき、ありがとう。またね』


「うん、またね」


 手を振って彼女とわかれた帰路、ふと、思いつく。


 明日会ったら、彼女に、フェルトのマスコットをあげよう。


 手芸は、わたしのひそかな趣味のひとつだった。

 彼女は子供のように純粋な人だから、きっとよろこんでくれるだろう。

 特別なことはないけれど、ともだちに贈り物をするのに、理由はいらない。

 

 わたしは、ホームセンターの近くにある手芸屋さんに寄った。

 そこは、こじんまりとした、かわいいお店だ。


 整然と並んだ棚のいたるところに、羊毛フェルトでつくったねこや、あみぐるみのくまが置いてある。

 棚の中には、色とりどりの毛糸や生地が収められている。

 レジの前に座る店主のお姉さんが、わたしににこりとほほ笑んだ。

 彼女の隣にあるミシンが、ぴかぴかと輝いていた。

 

 目当てのパッケージは、レジの隣の小棚にある。

 自室の机上のマスコットは、全部、このお店で買ったものだ。


「あっ」


 見慣れたはずの品ぞろえの中に、まさに彼女にぴったりのものがあった。


『新商品』と、ポップがつけられている。

 まるでピースをしているように、にこにこと両手のはさみを上げている、かわいらしいカニのマスコットだ。

 

 彼女は言っていた。

 様子を見にきてくれる仲間は、カニのような人だと。

 

 うきうきした。

 このマスコットをあげたら、彼女は笑ってくれるに違いない。


「森下、くん?」


 パッケージを手に取ったとき、ふいに、後ろから声をかけられた。


「わっ」と身をふるわせて、振り向く。

 

 眼鏡をかけた、背の低い女の子が立っていた。


「やっぱり。森下くんだ」


 表情をゆるめるその女の子は、クラスメイトの、筒見つつみさんだ。


「こんにちは。こんなところで会うなんて」


「う、うん。そうだね」


 答えながら、わたしは自分の油断を後悔した。


 このかわいい手芸屋に、がいるところを見られてしまうなんて。


 自分の部屋と、ナシャルの前以外、わたしはいつでも、ぼくでなくてはならないのに。


 もし、ぼくがわたしであると知られたら、きっと、気持ち悪がられてしまうだろう。


 もう、あんな想いはしたくない。


「それ……」


 わたしが怯えていると、筒見さんは、わたしが持っているパッケージに視線を注いだ。


 ハッとし、あわてて、


「あ、これは。えっと、おばあちゃんに、買ってきてって、頼まれて」


「そうなんだ。森下くんのおばあちゃん、かわいいのが好きなんやね」


「うん。家にもたくさんあって、困っちゃうよ」


「そうやと?」


 筒見さんは、目をかがやかせる。


「私も、かわいいマスコット、大好きなの」


「手芸が趣味なの?」


「ええ。マスコットづくりの他にも、手袋とか、セーターを編んだり……」


 筒見さんは、着ている白い薄手のセーターの裾をつまんで、示すようにした。

 両袖と、胸からお腹にかけて、きれいな縄編みが入っている。


「これも、自分で編んだんだよ」


 思わず、


「えっ、すごい!」


「小さいころからやってるから、色々つくれるようになっちゃった」


「かぎ針で編んだの?」


「え? うん、そうだよ」


「すごいなあ。縄編み、むずかしいのに……」


 わたしも編み物をするけれど、彼女みたいに達者にはつくれない。


 いいな。

 教えてもらいたいな。

 

 彼女と、手芸の話がしたいな。


「森下くん、詳しいと?」

 

彼女の質問に、緊張感がもどる。


いけない、つい勢いづいてしまった。


「いや、あの。おばあちゃんがやってるのをとなりで見てたら、いつのまにか詳しくなってた、っていうか」


「そっか。森下くんは、やらないの?」


「ぼくは、やらない」


「楽しいよ。おすすめ」


 彼女はふんわりと笑って、


「あ。私はね、コットンを買いにきたの。手染めをしてみたくて」


 クラスでの彼女は、海の底の貝のように黙っていて、とてもおとなしい。

 だから、ふだんの彼女がこんなにも明るく喋るのが、わたしはとても新鮮だった。

 

 と、そんなわたしの気持ちを察したのか、彼女はふと赤くなり、


「じゃ、じゃあ、またね」


 そそくさとレジで会計を済ませ、お店を出て行った。

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