第2話 汽水域の人魚

第2話 汽水域の人魚 一.

 最初に違和感を覚えたのは、小学四年生のときだった。

 

 ある日、なにも気にせずにつかっていた「ぼく」という一人称が、不自然に感じられるようになった。


 自分を「ぼく」というたびに、魚の小骨がのどに引っかかるような気がする。

 それに、自分が黒いランドセルを背負い、男の子の服を着て過ごし、男の子として周りから扱われていることが、「変」な気がした。


 はじめは、小さな感覚だった。

 けれどその感覚は、日を追うごとに体に根を張って、どんどん大きくなっていった。

 

 そしてとうとう、小学五年生の夏に、その感覚から逃げられなくなる出来事があった。

 

 それは、その年になって初めての、水泳の授業前のこと。

 

 泳ぐのが好きなわたしは、授業がとても楽しみだった。

 

 女子たちが、更衣室へ移動する。

 男子だけになった教室で、みんなはさわがしくしながら、あたり前のように服を脱ぎ、水着に着替えていく。

 

 その中で、わたしは、まるで時間を止められたように動けなくなった。

 

 どうしてしまったのだろう。

 もうすぐ、大好きなプールに入れるというのに。

 

 ……その期待を大きく上回るほど、服を脱ぐのが、恥ずかしくて恥ずかしくて、たまらない。


 どうしてなのか、自分でも、その理由がわからない。


「慎、着がえないの?」


 クラスメイトのかけるくんが、わたしに声をかける。

 彼はすっかり着替えを終えて、水着以外はなにも身につけていない。

 

 幼なじみで、一番の親友で、見慣れたはずの、彼の体。

 

 でも、彼の体から目をそらさずにいられない。

 

 そらした理由も、わからない。

 ただ全身が熱くて、汗がにじむ。


「遅れるよ」


「うん……」


 わたしは歯を食いしばって、半袖のシャツの第一ボタンに指をかけた。

 そしてまた、動けなくなった。


「どうした?」


 翔くんが、怪訝そうに、わたしの顔をのぞきこむ。


「……ごめん。体調が、悪くて」


「え? 大丈夫か?」


「……うん。ぼく、保健室に行くから、先生に伝えてくれないかな」


「わかった。ゆっくり休めよ」


 男子たちが、教室から出ていく。


 わたしは、始業のチャイムが鳴るのを待ってから、前と後ろの扉を閉めた。

 

 誰もいない空間で、ゆっくりとシャツのボタンを開けていく。

 

 平気だ。

 脱げる。

 恥ずかしくない。

 

 そうしてシャツを脱ぎ、上半身があらわになったとき、がらら、と、前の方の扉が開いた。


「ゴーグル、ゴーグル……」


 そうつぶやきながら、翔くんが入ってきた。

 わすれものを取りにきたのだろう。

 

 わたしは反射的に、腕を交差させて、胸をかくした。

 

 そして、自分が無意識にとったその行動に、とてつもないショックを受けた。


「あれ?」


 翔くんが、びっくりしてわたしを見る。


「慎、保健室に行ったんじゃ? 授業、受けんの?」


 その場をどうごまかしたのか、よく覚えていない。


            ◇


 わたしは、病気にかかってしまったのだろうか。


 頭の中が、女の子になってしまう病気に。


 ……違う。

 病気じゃない。


 本当は、どこかで気づいていた。

 わたしは、生まれたときから、そうなのだ。

 

 自分を「ぼく」ということも、自分が黒いランドセルを背負い、男の子の服を着て過ごしていることも、男の子として周りから扱われているのも、はたから見れば、普通のことだ。


「変」なのは、わたしの方だった。


 この時代は、こういう「変」にも理解が深くなったと、テレビで誰かが言っていた。


 それでもわたしは、この「変」を、打ち明けることはできない。

 そうすれば、自分が傷つくのを、知っているから。

 そして、両親も傷つけてしまうから。

 わたしを男性だと思って育ててきたふたりを、裏切ることになる。

 

 特に、父。


 本当のことを話したとき、父がどんな顔をするのか、目に浮かぶ。

 

 それはきっと、あのときの翔くんと、同じ顔。

 

 いや……父は、もっとおそろしい顔をするかもしれない。

 なにを言うかも、想像にやすい。


「この時代」という言葉が通用しない、古い考えを持つ父は、容赦なく、わたしのこころをえぐるだろう。

 それどころか、わたしを見捨てるかもしれない。

 家族が壊れてしまったら、余計に母を悲しませる。

 

 絶対に、告白はできない。

 わたしはこの事実を秘密にして、ずっと抱えて生きていくしかないのだ。

 

 わたしは、男性の仮面をかぶり続けることにした。

「変」に気づくまで、ずっとそうやって生きてきたから、男性の演技は達者だった。


 学校生活もまた、男性として、うまくこなすことができる。

 いうまでもなく、大きな苦痛をともないながら。

 

 ただ、耐えがたい水泳の授業だけは、適当な理由をつけて、ずっと避けた。

 震えるほどの恥ずかしさがこみあげて、こればかりはだめだった。

 

 ……でも、男性の仮面をかぶる限り、逃げ続けることはできない。

 この不真面目について、先生から父に連絡がいくのはまずい。

 

 また、進級のためには、最低限の受講時間が必要になる。

 留年なんてしたら、それこそ父はわたしを見放すだろう。

 

 わたしは歯を食いしばって、補習を受けた。

 補習はクラスメイトのいない休日に行われるけれど、やはり、ちらほらとほかの生徒がいる。


 ずっと、腕組みをしていた。

 不自然にならないよう、できるだけ胸をかくして準備体操をしたら、わたしはすぐに、プールに入る。

 

 水の中なら、からだを見られない。

 それに、濡れてしまえば、泣いているのがばれないから。

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