第1話 春の海 七.

 ほどなくして彼女の鼻血が落ちつき、わたしたちは、並んで堤防に腰かけた。


「あの。また会えて、よかったです」


 わたしは、鞄から貝を出した。


「これ、お返ししたくて」


 彼女は、不思議そうに首を傾げる。

 念のため、まだティッシュは鼻につめたままだ。


「こんなに高価なもの、もらえません」


 すると彼女はほほ笑み、首を左右に振った。


「いえ、もらえません。困ります」


 わたしは彼女に貝を突きつけたが、彼女はふるふると首を振るばかりで、どうあっても受けとろうとしない。

 

 押し問答がしばらく続いたとき、わたしはふいに、自分の意思が彼女にうまく伝わっていないのではないかと思った。

 

 考えてみれば、当然だ。

 彼女はおそらく、日本人ではない。

 なのにわたしは、彼女のわからない言語で、一方的に理由を述べて、彼女の厚意を断ろうとしていた。

 

 英語なら、伝わるだろうか。

 

 わたしが、なにを言いたいのか。ニュアンスさえ通じれば、全部はわかってもらえなくてもいい。

 自信はないけれど、この際、恥ずかしがってはいられない。


「あの。……う、ウェア、アーユー、フロム?」


 たどたどしいわたしの英語でも、意味が伝わったようだ。


 彼女はほほ笑みを浮かべたまま、わたしの顔を見つめて、ぱちぱちぱちと、まばたきを三回した。


 そして、彼女は、自分ののどを指さした。


 それを見て、たちまち、後悔した。


 わたしは、なんて愚かなことをしてしまったのだろう。

 それこそ、考えてみれば当然のことじゃないか。

 

 しゃべれません。

 

 彼女の目が、そういっていた。

 

 金色だった海が、次第に夜の色をしのばせる。

 

 わたしは自分が情けなくて、くちびるを噛んだ。

 

 そのとき、背中になにかが這うような感触があった。


 驚きとくすぐったさで、わたしは思わず身をよじり、彼女を見る。


「な、なんですか?」


 彼女は、相変わらずほほ笑んでいる。

 

 彼女が、指で、わたしの背中をなぞったのだ。

 

 彼女はわたしに、また前を向くよう、目でうったえる。


 わたしは仕方なく、前を向いた。

 

 ふたたび彼女の指が、わたしの背中をなぞる。

 ぞわぞわしながらも、わたしは彼女の指の動きで、彼女がなにをしているのかわかった。


 彼女は、わたしの背中に、字を書いている。


 ゆっくりと、ていねいに、わたしが判別できるように。

 

 それが彼女の、意思を伝える術なのだろう。


「……な」


 わたしがつぶやくと、彼女はパアッと明るい表情をして、こくこくとうなずいた。


 ひらがなの「な」。


 アルファベットを書くと思っていたわたしは、驚いた。

 彼女は、日本語を理解しているのだ。

 

 彼女は続けて、次の文字をわたしの背中に書く。


 ……し。

 ……や。

 ……る。


 わたしが答えるたびに、彼女はうなずき、笑った。

 そして彼女は仕上げに、こう書いた。


『わたしの、なまえ』


 名前。


「なしやる?」


 わたしの言葉に、彼女はくちびるをとがらせ、首を左右に振る。

 もう一度、わたしの背中に「や」と書いた。

 今度は、さっきよりも、ずいぶん小さく。


「なしゃる」


 彼女は表情を明るくし、胸の前で、小さく拍手をした。

 どうやら、正解のようだ。

 

 なしゃる……ナシャル。

 それが、彼女の名前。

 

 ナシャルは自分を指さし、口をぱくぱくさせる。

 続けて、すっ、と、わたしを指さした。

 

 あなたの名前は?

 

 声はない。

 けれど、彼女は、そういっていた。


「もりした」


 わたしが答えると、彼女はうなずいた。

 しばらくなにかを待つような間があって、小首をかしげ、またわたしの背中に指を伸ばす。


『したの、なまえは』


 わたしは、彼女の顔を見た。

 

 彼女の瞳は、曇った冬の海の色をしている。

 でも、つめたくはない。

 それは、外気よりも海水の方があたたかいような、冬の海の色。

 飛びこめばやさしく包んでくれそうな、深度のある瞳だった。


「……ゆき」


 その名を名乗ったことが、自分でも、信じられなかった。

 

 彼女の瞳が、わたしの心の深くをのぞいて、真実を見透かしたからかもしれない。

 でも、口をついて出た名前の舌触りは、悲しいほどに無機質だ。

 

 胸がぐっとつまって、わたしはうつむいた。

 

 きっと彼女は、奇妙なものを見る目を、わたしに向けているだろう。


 つらくて、顔を上げられないわたしの背を、彼女の指がなぞる。


『すてきな、なまえ』


 はっとして、顔を上げる。


 彼女は、ほほ笑んでいた。


              ◇


 それからわたしたちは、お互いのことをぽつぽつと話した。


 といっても、そこまでくわしく話したわけではない。

 背中に字を書くやり方は、時間がかかるのだ。

 

 わたしはもっと彼女のことを知りたかったけれど、夜が近い。

 

 また明日、夕方にここで会う約束をして、わたしたちは別れた。

 結局、貝は返しそびれてしまった。

 

 帰路、こころが軽かった。

 自分にのしかかっているたくさんのおもりが、いっぺんに取れたみたいだ。

 

 名を名乗ったわたしに、彼女があんなにも素直な瞳を向けてくれたことが、こんなにも嬉しい。

 

 彼女と、ともだちになれたらいいな。

 早く、明日にならないかな。

 

 うきうきしながら自宅のすぐ近くの通りまで来たとき、向こうから、原付バイクに乗った、郵便屋のおじさんがやってきた。


「やあ。今、帰りね?」


 おじさんはアクセルをゆるめ、速度を落とす。

 通り過ぎ際に、笑顔でわたしに言った。


「おかえり、慎太郎くん」


              ◇


 閉じた丸窓の先に、春の夜の闇が広がっている。


 反射して映っているのは、男性の体に、女性の心を持って生まれてしまった、今にも泣き出しそうな自分の顔。

 取れていたはずのおもりが、いつの間にか、ふたたび自分にのしかかっていた。


「ゆき」とは、いつかわたしが名乗りたい、本当の自分の名前。

「自由」という花言葉を持つ、ユキヤナギからとった。

 男性の檻から飛びだして、ありのままの自分として生きるための、大切にしている名前だ。


 わたしはぼんやりと、机上の棚にならぶ国語辞典をとった。


『わたしは、そこの、きすいいきに、すんでいます』


 堤防で、ナシャルはそう教えてくれた。

 そのときのわたしは、彼女のいう『きすいいき』がなんなのか、わからなかった。


 辞典をめくって、言葉を見つける。



『汽水域。


 川が海に注ぎこむところや、湧水のある海中など、淡水と海水が混ざりあっている


 水域のこと。川から流れ込む淡水の量は、雨量によって不規則に変わる』



 わたしは、辞典を閉じた。

 

 丸窓を開け、桟に頬杖をつく。

 そうして、海につながっていない、あの大きな水たまりのことを思い描いた。

 

 きっと、そう。

 あの水たまりが、汽水域だ。

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