第1話 春の海 六.

 放課後になって学校を出ると、かたむいた陽が、あたりに蜂蜜色の光を注いでいた。

 わたあめになりそこなった砂糖のようなうすい雲が、金色に輝きながら、ゆっくりと北へ流れている。

 この町の上空には、いつも南風が吹いていた。

 それが雲を押すから、この町は晴天が多いのだ。


 わたしは早歩きで、海へと向かった。

 砂浜でまたあの人に会える保証はないけれど、行くしかない。

 

 昨日と同じ道をたどり、大きな水たまりについたのは、十六時半を回ったころだった。

 夕暮れの海は黄金のじゅうたんを敷いたみたいにきらめき、金箔のような波が、くり返し、砂浜を舐めている。

 

 水たまりを過ぎ、海の前に立って周囲を見回すと、砂浜より高い位置にある堤防に、足を投げ出すようにして座っている人を見つけた。

 

 彼女だ。

 

 わたしは、砂浜から堤防に続く階段を上がって、彼女に近づいた。


 彼女は、昨日とまったく同じ服を着ていた。

 目を閉じていて、こちらに気づいていない。小首をかしげ、愛しそうに、なにかに頬ずりをしていた。

 

 やがて、声が届くところまで来た。


「あの」


 そう呼びかけようとして、できなかった。


 彼女の様子がはっきりと見えて、言葉が、のどの奥に引っ込んだ。

 

 彼女は、流木に頬ずりをしていた。

 昨日、わたしがあげた、あの流木だ。

 

 そして、彼女の目からは、ぽろぽろと涙がこぼれていた。


 嗚咽するでも、声を上げるでもなく、幸せそうなほほ笑みを浮かべて、ただしずかに泣いていた。

 涙は夕陽を受けて光り、まるでいくつもの真珠が彼女の目から滴っているようだった。

 

 わたしは戸惑い、けれど出会った時と同じ以上に、彼女の横顔から目が離せなくなった。

 

 とてもうつくしかった。

 

 彼女はなにか、映画や絵画から出てきた人のように思われた。

 美術彫刻に命が吹き込まれたようでもあった。

 

 ふと、彼女が目を開ける。

 流木を胸に抱いて、深い息をついた。


 自分もそうだから、わかる。

 それは、恋をしている人の息の仕方だった。

 

 彼女はゆっくりと首を動かしてわたしを見、ひどく驚いた顔をした。

 

 あわてて立ち上がり、走り出そうとするが、足がもつれて、倒れこんだ。


「あっ!」


 わたしは彼女に駆け寄った。

 

 彼女は、顔からコンクリートに倒れていた。

 腕をつかなかったのは、ガラスを落とさないようにするかのごとく、流木を持った両手を、しっかりと上げていたからだった。

 

 どうしてそこまで、その流木を大事にするのだろう。

 彼女にとって流木は、それほど価値のあるものなのだろうか。


 疑問に思いながらも、わたしは彼女を介抱するべく、彼女の前に回り込み、ひざをついた。


「大丈夫ですか……?」


 倒れたままの彼女は、ハッと顔を上げ、おそるおそる、手の中の流木を確認する。

 何の影響もなさそうな流木を見て、ほっとしたようにほほ笑んだ。


 ぷっ。


 そのとき、彼女の鼻から、ふき出すように赤い液体がもれた。

 

 鼻血だ。

 

 彼女はまたあわてて、血が流木にかからないように、腕を上げる。

 そのままの姿勢で、ぽとぽとと鼻血を垂らす。

 シャツに血が染み込んで、まだらな赤い模様をつくっていく。


「ああっ……!」


 わたしは、すっかり狼狽した。


 彼女はきょとんとした表情で、無言で鼻血を流し続ける。

 シャツがどんどん赤くなる。

 

 おろおろとあたりを見回し、そうだ、と考えが至る。


 わたしはポケットからティッシュを出し、数枚をすばやくねじって栓をつくり、


「えいっ!」


 それを、まるで鍵穴に鍵を差し込むように、彼女の鼻にずぼりと突っこんだ。

 

 気が動転していたからこそ、逆にそこまで大胆なことができたのだろう。

 

 ひとまずこぼれる血が止まって、彼女は目をぱちくりさせた。

 

 こくりと小さなのどを鳴らして、すんすんと鼻をすする。

 そうして、額の汗をぬぐうわたしに、にこりと笑いかけた。

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