第1話 春の海 五.

 翌日の月曜日、わたしは貝と真珠を持って学校に行った。

 放課後に海へ行って、あの人に返すためだ。

 

 指先の血には価値がないけれど、真珠は違う。

 それは本物の宝石で、とても高価なものだ。


 いくらお礼とはいえ、そんなものを、しかも、あんなに大量にもらうだなんて、できない。

 ……いや、一粒だって、もらえない。

 なにかたいそうなことをしたのではなく、わたしはただ、拾った木をあげただけなのだ。

 

 早く放課後になれ、と願いながら、時間をやり過ごす。

 いつものように、懸命に仮面をかぶって、いかにも順応しているような、それがあたり前のことだと受け入れているふうな顔をして、苦しさに鈍感なふりをする。

 もう十六年もそうしているから、少しは上手になっていると、自負がある。

 

でも、その人だけは……その人に接するときだけは、仮面に亀裂が走る。


本当の自分がひび割れからのぞいて、仮面をみずから脱ぎ捨ててしまいたくなる。


「あっ、森下!」


 もちろん普段から、なるべく近よらないようにしている。

 けれど、向こうから近づいてこられたら、どうしようもない。


「探してたつよ。ちょうどよかった」


 昼休み、中庭でお弁当を食べてから教室にもどると、出入り口のところで、ちょうど生駒くんと鉢合わせた。


「五時間目の生物さあ、小テストあるやろ? ヤマ張ってくれんね? 森下、生物めちゃくちゃできるから」


「あ、う、うん……」


 なんとかうなずいてみせた途端に、顔が熱くなる。

 胸が痛いくらいにどきどきし始める。

 悟られないよう、自分の席にもどって、生物の教科書を開く。


「助かった。頼むわ、先生。なんも勉強してきてないとよね」


 前の席の椅子に、反対向きに座って、生駒くんが、わたしの机をのぞきこむ。


「森下の教科書、ぜんぜんマーカー引いてないね」


「うん。目がちかちかしちゃうから」


「ふうん。俺の教科書なんか、もうぬり絵かってくらいカラフルよ」


 生駒くんは、にかっと笑う。

 わたしは額に汗をにじませながら、彼に出題範囲の予想を伝える。

 

 生駒康成くん。

 

 百七十六センチ。

 A型。

 誕生日は、十一月二十二日。

 わたしの誕生日の、一週間前。

 

 野球部で、ピッチャーで、かっこいい。

 一年生のときから同じクラスで、わたしと彼は親しいほうだった。

 

 というより、彼には親しくないクラスメイトがいない。

 

 彼はいつも絶妙な案配で、人との距離感をつめる。

 けれども決して、近づきすぎたりはしない。

 うすい皮膜のような一線を引きながら、相手が心を開くまで、深入りはしない。

 そうして機会をうかがって、お互いの間に絆が芽生えたのを察した瞬間に、皮膜を一気にとり払う。

 そうやって彼は、たくさんの人望を集め、みんなと友情を築いている。

 

そしてわたしが好きなのは、彼がそれを計算ではなく、自然体で実行しているところだった。

 

 彼はまったく、打算的じゃない。

 ありのままの自分で生きている結果として、ありのままを愛されている。

 それはきっと天性のもので、真似しようとしてできるものではない。

 

 そうわかっているけれど、わたしは彼に、あこがれずにはいられなかった。

 鳥を見て空を飛びたいと思うように、彼の生き方に焦がれてしまう。

 

 彼のようになれたなら。


 そうしたらきっと、着たい服を着て、履きたい靴を履いて、どこまでも自由な自分で、どんな街にだっていける。

 

 まっすぐ前を向いて、胸を張って、風を切って歩くことができる。

 

 気づけばわたしは、彼を目で追っている。


 表情、仕草、声、行動。

 

 彼のすべてがまぶしくて、あこがれはいつしか恋になっていた。


「助かったわ。ありがとな」


 わたしの伝えた範囲のメモをとった生駒くんは、満足そうに息をはいた。


「これでなんとかなりそうだわ」


「ヤマが外れたらごめんね」


「いいよ。それはそれで一興じゃ」


 生駒くんは、こぶしをわたしに伸ばした。


「いえい」


 わたしもこぶしをにぎって、生駒くんのこぶしに、こつん、とあてた。


 生駒くんはにこにこしながら、教室を出ていった。

 

 左胸で、心臓が跳ねまわっている。

 わたしは、生駒くんとタッチしたを左胸にあてて、深く息をついた。

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