第1話 春の海 四.

 その女性は、美しい人だった。

 

 肩までの黒髪に、インナーカラーで白が入っている。

 大きな瞳は灰色がかっていて、こぼれおちそうなくらい大きい。

 雪のように白い肌に、さくらの花弁みたいなうすいくちびるが映えている。

 

 思わずその人の顔にみとれると、女性は、困ったように会釈をした。

 はっとして、あわてて視線を外し、会釈を返す。

 

 女性は、首元と裾のよれた、無地の、白い半そでのシャツを着ている。

 それから、ところどころ潮がふき、色あせた、くるぶしまでの黒いパンツ。

 妙なことに、左右で別の色のビーチサンダルを履いていた。


「……」


 女性は、わたしの手元をじっと見つめ、長いまつげの生えた目をしばたたかせる。 

 そして、何も言わないでいる。


 波の音が、さっきよりも大きくひびく。

 言葉を待っていたわたしは、困惑した。


「……あの」


 沈黙がつらく、とうとう、わたしの方から声をかけた。


「なにか……?」


 女性は、まっすぐにわたしの顔を見る。

 そして、ふたたびわたしの手元に目を向け、指をさした。


「……これ、ですか?」


 にぎっていた流木を見せると、女性は、こくこくとうなずいた。

 大きな瞳をうるませて、何度も何度も、おじぎをする。

 

 どうやら、この流木をほしがっているようだ。


 たぶん、外国の人で、日本語を話せないのだろう。

 必死にぺこぺこと頭をさげる彼女が気の毒で、わたしは流木を差しだした。


「どうぞ」


 女性は、救われたような顔をした。

 

 また数度、ぺこぺことおじぎをして、わたしから流木を受けとる。

 まるで生まれたてのたまごをあつかうように、大切に両手のひらの上にのせ、涙をうかべた。

 ぎゅっと胸に抱いて、やさしくほほ笑んだ。

 

事情は知らないけれど、よっぽど流木がほしかったみたいだ。 

そんなに喜んでもらえるなら、少しも惜しくない。

また、ほかのいい一本を見つければいいだけだから。

 

 でも、同級生が学校から出てくるまで、もう余裕がない。

 わたしはまた今度、流木を探しにこようと決めた。


「それじゃあ……」


 そうしてきびすを返そうとしたとき、ふいに、女性が、水たまりの近くに歩きだした。

 木片や漂流ゴミがつみ重なっているところを、がさがさと探る。

 わたしの元にもどってきて、なにかを差しだした。


「え?」


 それは、オレンジ色の貝だった。

 

 ほたてのような形で、表面がフリルのように波打っている。

 手のひらをめいっぱい開いたくらいのサイズで、口がしっかり閉じていた。

 今までに見たことのない、きれいな貝だ。


「……?」


 わたしはまた困惑して、女性の顔を見た。

 女性はほほ笑んだまま、小さく頭をさげる。


 流木の、お礼です。


 声はなかったけれど、女性がそう言っているような気がした。


「……ありがとう、ございます」


 わたしが貝を受けとると、女性は、にっこりと笑った。


              ◇


 遅くなってしまったけれど、幸いにも同級生に会うことなく、わたしは家に帰りついた。

 

 部屋着に着がえて、ベッドに寝ころがる。

 ぼんやりと、あの女性のことを考える。

 

 あの人は、何者なのだろう。


 あの砂浜には、確かにわたししかいなかった。それがあの人は、まるで降って湧いたように現れた。

 

 いったい、どうやって。

 

 春とはいえ、まだ海水はつめたくて、泳いでいたとは思えない。

 そもそも、あの人は、濡れていなかった。

 きれいな髪はさらさらと風に揺れていたし、肌のうるおいも、潮で流れていない。

 

 初めから砂浜にいたけれど、幽霊のように、わたしにだけ見えていなかった。

 それが、スイッチを押したみたいに、あるときにパッと姿をみせた……そんな不自然さが、彼女にはあった。

 

 不自然といえば、服装もそうだ。

 彼女は、拾ったものをそのまま着た、というような出で立ちだった。

 そして、そんな恰好なのに、わたしにはどうしても、彼女が浮浪者であるようには思えなかった。


 ちらり、と、机の上においてある、彼女にもらった貝を見る。


 きれいなのは、わかる。

 けれど、くれるなら「貝がら」じゃないだろうか。

 

 あの貝は、口が閉じている。

 貝がらを「一枚」と数えるなら、あれは「一個」。貝がらではなく、まだ、「貝」なのだ。

 

 もしかして、食べて、という意味だったのだろうか。

 

 わたしは身を起こし、貝を持った。

 部屋を出て、台所で夕飯の準備をしているおばあちゃんに声をかけた。


「おばあちゃん。この貝、知ってる?」


 わたしが貝を見せると、鍋にお味噌をといていたおばあちゃんは、きょとんとして、


「まあ、これは立派なひおうぎ貝じゃねえ」


「ひおうぎ貝っていうの?」


「そうよ。おばあちゃんも、久しぶりに見たわあ」


「食べれるの?」


「食べれるよ。浜焼きにしたり、酒蒸しにしたり、とてもおいしいっちゃが」


 おばあちゃんはひおうぎ貝をとって、手首をかえし、貝の表と裏を交互に見た。


「これ、どうしたと? ここらへんじゃ獲れないが」


「もらったの。きれいな人に」


「はあ、そうねえ。きれいな人に」


 わたしの言い方が面白かったのか、おばあちゃんは、ふくふくと笑った。

 彼女はやはり、食べてほしいという意味で、この貝をわたしにくれたのだ。


 見知らぬ人からもらった生ものを食べるつもりはない。

 だけど、彼女の神秘性のせいか、興味が湧いた。


 そのきれいな貝の中身を、みてみたい。

 外と同じように、中もまた、きれいなのだろうか?


「おばあちゃん、それ、開けられる?」


「開けられるよ。見てみようかね」


 おばあちゃんは、収納棚からナイフを取りだして、貝の閉じた口に差しこもうとした。


 そのときだった。


 閉じた貝の口が、ひとりでに、パカッと開いた。

 そして、無数の白い粒が、バララララッ、と、貝の中から滝のようにこぼれ落ちた。


「あっ」と、おばあちゃんが声を上げる。


 床に散らばったビー玉ほどの粒たちは、ころころと転がりながら、蛍光灯の光を浴びて、ぴかぴかときらめいた。


 わたしは、一粒を拾いあげて、まじまじと見つめた。


 粒は、まっしろではなく、乳白色をしている。

 完ぺきなほどにまんまるで、なめらかで、つややかだ。

 今日の昼間、わたしの指先に生まれた血の宝石を、そのままミルク色に染め上げたようだった。


「まあ、まあ」


 おばあちゃんは、目を丸くした。


「どうしたこと。これは真珠じゃが」

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