第1話 春の海 二.

 空気に色があるなら、今日のは確かに薄桃色だ。

 

 まるでほんのり甘いオブラートのように、全身を軽やかにつつみこむ。

 あたたかくて、やさしくて、息をするたびに、胸が空いていく。

 もし、この空気をぎゅっと圧縮して飴にできたなら、さくらの味がするんだろう。

 そして、舌にのせた途端、しゅわっと溶けていくに違いない。


 わたしはあてもなく、道路沿いの道を歩いた。


 澄んだ青空が、背伸びをするように、うんと気持ちよく広がっている。

 

 空がこんなに広く、自由なものだなんて、この町に来るまで、わたしはまったく気づかなかった。

 わたしの知っている空は、たくさんのビルにつつかれて、いつも窮屈そうだった。


 ナンキンハゼの並木道にさしかかる。


 日曜日の昼間、同級生たちは部活にはげんでいるから、道端でばったり会うということはないだろう。

 みんなが学校から出てくる夕方までには、帰るつもりだ。

 

 それにしても、往来には人かげがなかった。

 

 日曜日なのにこんなふうなのは、そもそも人口が少ないということもあるけれど、この町に娯楽として出かけられるような場所がないからだ。


 商店街の店々は、四六時中シャッターを下ろしている。

 大きなデパートやモールもないから、若いひとはみんな、宮崎の街へ遊びに行ってしまう。

 お年寄りは、それこそおばあちゃんのように、畑や田んぼに出て、農作業をしたり、お家でテレビを見ている。

 

 この町に住んで、もう一年が経った。

 

 わたしは、学校のみんなが言うほど、この町のことが嫌いじゃなかった。


 みんなは「何もない」と言うけれど、わたしにとっては、たくさんのものがあった。


 いきいきと自生する植物。

 

 かすかに聞こえてくる潮騒。

 

 山々の稜線がはっきりしている眺め。

 

 人をよけて歩かなくていい道。

 押し込まれなくてもいい電車。

 めったに救急車の音のしない生活。

 ネオンの代わりにまたたく星空……。


 深呼吸をして最初に味わうのは、排気ガスではなく、自然を濾した、青いにおい。


 東京に住んでいたころとは、まるで違う。


 わたしはこの町で、数えきれない感覚と出会った。

 十五歳になるまで、ずっとふたをされていた頭のてっぺんが開いたようだった。


 人がいないからこそ、わたしにとって価値あるものが、この町にあふれている。

 なにもかもが、つくりものめいていない。

 だから、あれほど外に出るのがいやだったのに、すっかり散歩が趣味のひとつになってしまった。

 

 ずっと頭にかかっているもやが、外に出ると、少しだけきらめくような気がする。 

 晴れるのではなく、濃度はそのままで、霧に月光が差すみたいに、銀色にきらめいてくれる。

 

 そのきらめきが、抜けそうで抜けない歯のように、ずっとぐらぐらしているこころをなぐさめた。


「ノゲシ、アブラナ、ハルジオン、ニワゼキショウ……」


 道々の草花の名前を、小声で唱えていく。


 並木道を抜け、なじみの手芸屋さんの脇道を行くと、川沿いの土手にある遊歩道に出た。

 

 そこは、大きいとも、小さいとも言えない川だ。


 対岸には冬枯れのない木々がせり出すように生えていて、水面に暗い影を落としている。

 干天が続いているせいで、川は水量が少なく、元気がない。

 底が見えそうな水上に、鴨の群れがいた。

 

 わたしに気づいた鴨たちは、わたしと距離を置くために、すぐにまとまって移動する。

 

 都会と違って、地方の鳥は警戒心が強い。

 近づくと、すぐ遠くへ行ってしまう。

 少しも逃げない東京の鳩がそうであるように、鳥とは人懐っこい生き物だと思っていたから、そういうところも新鮮だった。

 わたしはスマホで、対岸の暗がりにいってしまった鴨たちの写真を、一枚、とった。

 

 さて、この遊歩道に来たのは、初めてじゃない。

 いつも南へ行くので、今日は北に向かってみよう。

 

 この町の全体なら、地図で見たことがある。

 でも、実際にその場所を見て、景色に色をつけるように歩くのが好きだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る