第1話 春の海

第1話 春の海 一.

 丸窓から差しこむ光が、畳のふちにやわらかな春の輪郭を落としている。


 わたしはゆっくりと起きあがり、窓を開けて風をまねいた。


 おだやかな四月の風が、わたしの髪をふわりと撫でて、旧友のように部屋へあがる。優しくカーテンをゆらすその風は、わずかに土のにおいがする。


 桟にひじをつき、頬に手のひらをあてると、ざらっとした感触があった。

 何も敷かずに横になっていたから、畳のあとがついているんだろう。


 春風に吹かれながら、目を閉じた。


 遠くで、車の音がする。庭の草が、さやさやと鳴っている。

 表の畑に出ているおばあちゃんが、誰かと楽しそうにしゃべっていた。

 あの低い声は、いつも配達に来てくれる、郵便屋のおじさんだ。


「ねえ。今日はほんとに、気持ちがいいわあ」

「ええ。風も、気温も、こんな日和はそうそうないですよ」

 

 その通りだ。

 だからわたしは、お昼寝をしようとした。

 ベッドではなく、あたたかな陽のあたる畳に寝転んで。

 イグサのいい香りをいっぱい嗅ぎながら、うとうとしていた。

 でも、頭がぼうっとするばかりで、結局、ねむれなかった。


 仕方がないから、わたしは目を開けて、机についた。


 糸の通った針をつまみ、つくりかけだったくじらのマスコットをとる。それは、色のちがう数枚のフェルトでつくる、手のひらに乗るくじらだ。


 型の抜かれた青いフェルトに、青い糸で、くじらのの部分を縫いつけていく。

 体とひれは、もうできている。


 この部分が終わったら、あとは、桃色のまるいほっぺたと、まっくろなビーズのひとみをつければ、完成だ。


 フェルトに針を通しながら、ふと、机に並んでいるマスコットたちを見た。

 

 パンダ、うさぎ、ハリネズミ、ひつじ、ユニコーン、くらげ、ペンギン……他にも、数えきれないくらいたくさんの動物たちが、のんびりした顔で、わたしをしずかに見守っている。


 かわいくて、頬がゆるんだ。

 これから新しい仲間が増えるからね、と思ったとき、


「痛っ」


 指先に、するどい痛みが走った。


 針で刺してしまった左手の人さし指の先に、小さな血の風船が、ぷっくりとふくらんでくる。

 

 わたしは、指先をじっと見つめた。

 血は宝石のように光っていて、深く、吸い込まれそうな赤色をしている。

 

 その宝石をつまみあげて、陽にかざしたいと思った。


 きらきらとまたたく輝きを、自分のものにしたい。


 わたしは右手の人さし指と親指で、宝石をつまむようにした。

 宝石は音もなくつぶれ、ただの血にもどって、三本の指の先に、じゅっと染みた。 

 もちろん、そうなるとわかっていた。

 

 だよね、と、心の中でつぶやく。

 

 くじらのマスコットは、いったん、そこで止めることにした。血をつぶした指で命を吹き込むのは、彼に対して、なんだか不誠実に感じられた。

 

 指先をティッシュでぬぐい、爪の上から絆創膏を巻いた。

 

 またねむってみようかと考えていたとき、窓から、風にのって、一枚のさくらの花びらが舞いこんだ。

 

 春が、わたしを呼んでいるようだった。


「……」


 机を離れ、パジャマと、はおっていた桃色のカーディガンを脱いだ。

 いつもの黒いパーカーを着、インディゴブルーのデニムを履く。

 短い黒髪を櫛でといて、指で眉を起こし、リップクリームを塗った。

 

 風が、開いたままで枕元に置いてあった『Seventeen』のページをぱらぱらとめくった。

 風が止んだとき、紙面では、ソルベカラーのコーデに身をつつんだモデルたちが、にこにこと笑っていた。

 

 わたしは紙面から目をそらして、本を閉じた。

 

 腕時計をつけ、スマホをデニムの後ろのポケットにねじ込んで、部屋を出る。

 玄関で、白いスニーカーを履く。


 自分の声を聞くのがいやなので、おばあちゃんには黙ったまま、散歩に出かけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る