第8話 スペインのアリシア、英国のアリシア

スペインのアリシア、英国のアリシア-1

 ルーカス先生とのデートの翌日、私は看護師寮の自室で爆睡した。身体的な疲れもあったが、精神的なダメージも多大だったからだ。何も考えたくないときは寝るに限るというが、それがよく分かった。私がようやくベッドから起き出すことができたのは午後3時過ぎだった。


 私は昨日のこと、特にルーカス先生の告白を思い出しては鬱になった。鬱になるだけでなく、怒りも覚えた。正直に全てをストレートに話すことが正しいことではない、と。私は彼の辛い気持ちを少しでも楽にしたくて、そして私に重ねているかつて彼が愛した人のことを知りたくて、ルーカス先生に全てを話して貰ったのだから、全て包み隠さず話してくれたのは誠実さ故といえる。彼は全く悪くない。それでもオブラートに包むことはできただろう、と怒りを覚えてしまうのは私の弱さだ。


 枕元に置いておいた瓶の中の水を飲み、渇いた喉を潤す。


 真夏のじとっとした風でも、吹き込んでくればいくらか涼しくなる。それでも鬱は鬱だ。自分の建前を保てなかったというか、覚悟していたつもりが全然覚悟できていなかったことが情けない。


 昨夜、彼が話してくれたスペイン内戦の内容を私はゆっくりと頭の中で整理する。追体験することで、何か別の側面を見つけられないかと考えられるようになったからだ。これも爆睡したお陰だと思う。


 昨夜のルーカス先生の話によると、彼が内戦下のスペインに赴いたのは1936年10月、場所は戦場となった首都マドリードだったという。


 その頃、マドリードではフランコ将軍率いる反乱軍と人民戦線と呼ばれる選挙で選ばれた左派政権の間で激しい市街戦が続いていた。ドイツとイタリアのファシスト政権は反乱軍を支援し、特にドイツは自分たちの軍隊を派遣して実戦テストを重ねていた。一方、共産主義のソ連も最新の武器を供給することで人民軍を支援し、他のヨーロッパ諸国とアメリカの市民は義勇軍を組織して人民軍側に立った。


 スペインで戦争が始まり、当時の知識人の多くが、戦争の犠牲になる市民のために自分も何かできないかと悩んだという。ルーカス先生もその例に漏れなかった。義勇軍は政治色が色濃く、政治に関心がなかった彼は無難にそれを避け、あるとき、中立の組織である赤十字国際委員会ICRCに声を掛けられ、その医療派遣団に参加することにした。


 そのときのICRCの最大の目的は反乱軍と人民戦線の双方に働きかけて、マドリードから別の安全な都市へ人道回廊を設けることだった。人道回廊とは交戦中の各陣営の合意のもとに安全が保証された、民間人の避難、人道支援の受け入れ、死傷者や病人の移動を可能とする経路のことで、それなしに前戦に取り残された一般人が安全に後方に避難することはできないのである。


 どうにか交渉が成功したのが1937年の7月だったという。その間、人民戦線側で民間人の医療に当たっていたルーカス先生は、ICRCの通訳兼護衛という名目で派遣されてきた一団の中の少女兵と知り合った。それがその後、彼と愛し合うことになる少女、そして私と同じ名前の少女、アリシアとの出会いだった。


 アリシアも奇しくも19歳で私と同じ歳だったが、外見はまるで違った。黒い髪に日に焼けた肌。情熱的な大きな黒い瞳で、共産革命の理想に燃える少女だったという。彼女はソ連製の重い短機関銃を肌身離さず持ち歩き、ある意味、ICRCの職員に睨みを効かせる役を担っていた。


 ファシズムとコミュニズムが争う場となったスペインに対し、ヨーロッパの多くの国が関わり合いにならないことを決めたのだが、その理由も分かるというもので、ICRCにも政治思想を押しつけてきた。


 ルーカス先生らは彼女たちとぶつかり合いながらも市民の安全の確保のために全力を尽くし、同年9月、ICRCは数多くのトラックに老人や女性・子供らなど、戦争の中で常に犠牲になる人々を乗せ、人道回廊を通り地中海に面した街、バレンシアへ向かった。その最中に反乱軍の攻撃に遭い、ルーカス先生は顔を負傷したが、アリシアは自らの危険も顧みず、ルーカス先生を助け出してくれたのだという。


 自分以外の医者はICRCの部隊におらず、適切に縫い合わせることができなかったことで、傷跡はむごたらしく残った。しかしそれからは塞ぎ込むルーカス先生をスペインのアリシアが気に掛けるようになり、バレンシアに到着したときには、反目し合っていたのが嘘だったかのように打ち解けていたという。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る