過去の愛と今の恋-6

 ルーカス先生は紅茶のカップに口を付け、一息ついた。


「不思議な感じだ。君がこの部屋にいるなんて」


「……私も、不思議な気がします」


「ここに来てから寝に帰るだけの部屋だったのに、君がいると何かが始まる気がする」


「始めますか?」


 誘ってるように聞こえるだろうか。誘ってるのではなく、心の準備ができているという意味なのだが。


 ルーカス先生は首を横に振った。


「僕には君に触れる資格が無い」


「それを決めるのはご自身かもしれませんが、私の方にも選択権があるんですよ」


 私は自分の機嫌が少し斜めになったのを感じる。


「それはもっともだ。でも僕は君より11歳も年上で、君が想像できないような戦場にいて、いろんな死を見てきた。その中には僕が愛した人もいた。そんな僕が、君のような無垢な少女を抱くのは罪だと思う」


 やはりそうなのか。ルーカス先生の口からそのことを確認できたことは良いことだと思う。もちろんショックの方が大きいのだが。


「過去は、過去です」


「でも僕の一部だ」


「その過去を含めて、私はルーカス先生が好きです。5年前、一緒にナショナル・ギャラリーに行ったときから、ううん、もう、出会ったときから、あなたの笑顔が好きでした。ずっとあんな楽しい時間を過ごしたい。それが私の恋の始まりでした。でも今はもう違うんです」


 私はルーカス先生を見つめた。


「どう、違うの? もう僕のことは好きじゃない?」


 ルーカス先生は穏やかな顔をしていた。


「この1ヶ月、先生の助手を務めさせていただいて、確信しました」


 私はルーカス先生を見つめ続ける。


「ルーカス先生が戦争で失った物を補って差し上げたいです。そして私がルーカス先生の伴侶となって、あなたの子どもを産みたいんだって気が付いたんです。これは愛だと思います。愛しています、ルーカス先生」


 ルーカス先生はホッとしたような顔をした。意外な反応に私は拍子抜けしたような気がした。


「僕も君が好きだよ。5年前、眩しい君に出会ってから、ずっと君が僕の心の中にいた。文通してくれてとても嬉しかった。途絶えなければ、いつか迎えに行く機会もあると思っていた。でも僕はスペインに行って変わった。僕はもう、君を好きだった僕ではなくなったと思っていた。でも、この1ヶ月で君への想いは鮮やかに蘇った。まだ、生きているんだと、思えた」


「……ルーカス先生……」


 ルーカス先生は感極まって泣き出しそうだった。


「でも、やっぱり僕には君を抱く資格がない。そもそも今だって、君も僕も戦争という非日常に煽られてお互いを求めているだけだ。その先に明るい未来はない」


 ルーカス先生がかつての恋人のことを思っていることが痛いほど伝わってきた。それだけでなんとなくどんなことがあったのか私には分かる気がした。思い出すのが辛いのだということも分かった。


 だからこそ私は立ち上がって、ルーカス先生のそばに行った。


「もういいんですよ……」


「君を愛せたらどれだけ幸せかと思う。けど、僕は……心の中の彼女を裏切れない」


「知ってます。知ってますから……」


 私の目頭も熱くなるのが分かった。ルーカス先生の悲しみは私の悲しみだった。背筋が震え、視界が狭まり、涙で歪んだ。私は椅子に座っているルーカス先生にそっと手をのばし、抱きしめ、私の胸に彼の顔を埋めた。


 ルーカス先生は小さな子どものように泣きじゃくった。かつての恋人のことを思い出して泣いているのではないのだろう。おそらくスペインの戦場を、ヨーロッパ大陸の戦場を、そしてドーバー海峡を挟んだ戦場を思い出して泣いているのだと思う。


 そのほんの一部だけでも分かってあげたいと私は思う。


 私は抱擁をやめ、かがみ込んで彼の顔の正面に位置して、彼の瞳を見つめた。


 そして目を閉じ、彼の唇に自分の唇を重ねた。


 初めてのキスなので、少しずれたのがわかった。しかし彼の方も私の唇を求め、そのずれはすぐに修正された。


 温かく、柔らかいキス。


 他人の体温をこんなにもダイレクトに感じることはないと思う。


 微かに快感が生じ、彼のアドレナリンが唇越しに私にも伝わってきたかのようだった。もちろん、私のアドレナリンだということは分かっているのだけど。


 私は唇を離し、ルーカス先生を再び見つめた。


「私の初めてですからね」


「……それはとても貴重なものだね……」


 ルーカス先生は弱々しく微笑んだ。


「お願いです。その人のことを私に教えてくださいませんか。話すことで楽になることもあります。ルーカス先生がそれで少しでも救われるのなら、何時間だってお話を聞きます」


 私は小さく首を傾げ、彼の意向を尋ねた。彼は目を伏せ、頷いた。


「ああ。そうかもしれない。話せばきっと、楽になるんだろう。話した後、その先、どうするかは話した後の僕が決めよう」


 そしてルーカス先生は私の知らない、ご自身の5年間を蕩々と話し始めたのだった。

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