過去の愛と今の恋-5

 私の名残惜しそうな表情を見て取ったのだろう。ルーカス先生が聞いた。


「どこに行く?」


 街頭でルーカス先生と一緒に地図を広げて、私はハイドパークからグリーンパークへ公園を繋いで歩くことを提案する。再びバッキンガム宮殿の前を通りセントジェームスパークに行けばチャーリング・クロスは目の前だ。


「歩いて5キロくらいかな」


「ちょうどいいんじゃないでしょうか」


 午後4時になるとだいぶ日差しも和らぐ。公園の中に入ると木々も多く、日陰になっているので涼しい。途中、私は知らなかったのだが、スピーカーズ・コーナーという、市民が自由に演説できるという一角にさしかかった。平日なので誰も演説していないが、かつてマルクスやジョージ・オーウェルも演説したという名所だとルーカス先生が教えてくれた。そこの売店で冷たい紅茶を買い求め、私たちは歩きながら口を付ける。


「これ、ちょっと羽目外してますね」


「このくらいいいさ」


 喉を潤しながら、私は公園の中の穏やかな光景を愛でる。芝生の広場で子どもたちや若者が遊び、木陰のベンチで老夫婦が休んでいる。戦争をしている国の光景にはとても見えない。私は現実を思い出し、すぐにまた心の奥に沈める。


 私が提案した通りのルートでチャーリング・クロスに戻ってきたのは、ゆっくり歩いたので午後5時半くらいだった。不慣れな靴で靴擦れができないように気を付けて歩いていたというのもあるが、1秒でも長くデートしていたかったというのが私の本音だ。


「どう? お腹減った?」


 チャーリング・クロス駅の前でルーカス先生は言った。


「カフェのランチの量、大したことなかったですからね。もしかしてディナーもご一緒してくださるんですか?」


 ルーカス先生は得意げな顔をした。


「実はルールズを予約してあるんだ。ハーレン先生が口をきいてくれた」


「すごい」


 ルールズはロンドン最古のレストランで創業1798年というから100年以上昔だ。20世紀の今も高級レストランとして知られている。


「せっかくだからね。近くなのに入ったことないのは寂しいし」


 ルールズはチャーリング・クロス病院のすぐ側にある。確かに行かないのはもったいない。私はありがたくルールズでごちそうになることにした。お店に着いたのは予約時間より少し早かったが、スタッフは快く通してくれた。牡蠣とテリーヌとジビエ料理がとても美味しかったが、私もルーカス先生もアルコールを口にしなかった。


 午後8時過ぎに店を出て、そのことを話したところ、理由は私と同じだった。


「いつ呼び出されるかわからないからね」


「わかります」


 私は頷き、そしてルーカス先生の顔を見ようと顎を上げた。


「お願いがあるんですが……」


 息が詰まる。足が震える。胸が破裂しそうに高鳴り、意識が遠のきそうだ。


「なんだい? 僕ができることなら」


 ルーカス先生は微笑んだ。


「……これから、ルーカス先生のお部屋に、行きたいです」


 よし。言えた。


 ルーカス先生はやや呆けた顔をしていたが、逡巡するように2度3度と瞬きをすると、口を開いた。


「そういう意味だと思っていいの?」


 私はどうにか頷いた。


 私の一大決心を理解してくれたのだろう。ルーカス先生は左脇に隙間を作り、頷いて言った。


「じゃあ、行こうか」


 彼は弱々しい笑顔で私を見る。あまり喜んでいる様子はない。それでも、彼が行こうと言ってくれたことを喜ぼうと私は思う。私は左腕の隙間に右腕を通し、私たちは腕を組んでルーカス先生のアパートメントへ向かう。


 ルーカス先生のアパートメントはチャーリング・クロス病院から徒歩10分ほどのところにあり、築50年くらいの建物だった。ワンルームシャワー付きの物件で、ベッドとちょっとした家具調度品があるだけの殺風景さだった。ルーカス先生は部屋に入るとすぐに窓際に置かれたラジオを点けた。ニュースの時間帯だ。今日の戦況が聞けることだろう。


 ラジオはすぐに戦況を報せるコーナーになり、延べ1700機以上のドイツ機が襲来し、南東部の基地だけでなく、ロンドン近くまで爆撃を開始したと言っていた。


 ルーカス先生はその間にお湯を沸かし、紅茶をいれてくれた。


 私はどこに座ったらいいかわからず、立ったままだった。ルーカス先生は紅茶のカップを私に渡すと小さな声で詫び、ベッドに座るよう言った。ベッドか。考えてしまう。しかし私は彼の言うとおりに座り、ようやく帽子を脱いでベッドに置いた。


 ルーカス先生は窓際の小さな机の前の椅子に座った。私は紅茶のカップに少し口をつけた後、ベッドのヘッドボードの平らなスペースに置いた。


「今日はとても楽しかったです。楽しかったし、美味しかったです」


 私は精いっぱい平静であるよう務め、ルーカス先生にお礼を言った。


「でも、疲れただろう」


「さすがに明日の大英博物館はなしですかね……本当に明日は爆睡していたいというか、爆睡しないとというか」


 ルーカス先生は目を細めて微笑んだ。


「僕らはプロだからね。心のリフレッシュのあとは身体のリフレッシュだ」


「……心のリフレッシュは足りましたか?」


 自分とルーカス先生では心に負ったダメージの質が違うだろう。私は初めての戦場で受けた衝撃と無力感をこのデートで大いに過去の物とすることができたが、ルーカス先生にとっては戦場の生活は日常だ。こんなことくらいで拭えるものではないことは他人の私でもわかる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る