ロンドンに戻る-3
8月12日になり、私たちがドーバーに来て1ヶ月が経過した。ロンドンにいたのがたった10日ほどだったことを思うと、私の正看護師生活のほとんどはドーバーということになる。ロンドンが恋しい。マクレガー邸は居心地はいいが、周りには何もない。休みがほとんどないので関係ないと言えば関係ないのだし、特に不満もないのだけど。
今日のお天気は残念ながら快晴。またドイツ人のお客さんがフランスからやってくるわけである。
今日もドーバー軍港での待機命令だった。フランス本土の
私たち海難救助隊付きの医療班は今朝も早くから岸壁に穿たれた待避壕の中で、待機をする。直接攻撃がないことを祈りつつ、救急車の前の折りたたみ椅子に腰掛けていると、ドーバー城から電話で報せが来た。それによるとドーバーに向けて爆撃機と護衛の戦闘機隊が接近中とのことだった。空襲警報が軍港中に鳴り響き、辺り一面は今日も騒然とし始める。
「今日も来るか……さすがにドイツ軍も本気を出してきたな」
ルーカス先生は医療器具を詰めたアタッシュケースを開けて、中の点検を始める。
「どういうことですか?」
「今までのは脅しだからね。ヒトラーは英国に白旗を揚げてもらって和平条約を結びたい。そのために
ヒトラーがそんな演説をドイツの国会で行ったことは英国でも知れ渡っていた。自分の都合しか考えないナチスドイツには怒りを覚える。そんなに自分たちの思い通りにはならないのだとナチスドイツに思い知らせるために、英国民は一丸となって戦っているのだ。
仕事が忙しくなる前にと兵隊さんが紅茶を入れてくれる。英国の紅茶消費量はコーヒーの8倍というからどれだけ英国人が紅茶好きか分かるというものだ。しかしカフェインをとるならコーヒーの方がいい気がする。気がするだけだけど。
紅茶のいい香り。これはこれでいい。
ドーバー海峡は狭いところで34キロしかない。フランス本土の飛行場からここまでは、高度をとったとしてもそれほど時間がかからない場所にある。空襲警報が鳴ってからの時間を思えば、そろそろダイムラーベンツの水冷エンジン音やスツーカの金切り声がしてもいい頃だ。
そして案の定、航空エンジン音が聞こえてきたが、近づく気配はない。姿も見えない。その代わりに遠くからもはや聞き慣れた爆撃の音が響き渡ってくる。再び待避壕の電話が鳴り、兵隊さんがそれをとる。状況が切迫していることだけは電話機越しの会話の中から伝わってくる。
「どうしたんでしょう?」
「移動することになるんじゃないかな」
ルーカス先生はご自分のアタッシュケースを閉じた。兵隊さんが医療班の班長に報告し、併せてルーカス先生もそれを聞く。どうやらドイツ軍の目標は、今日は港湾地区ではなく、白い壁の上にある飛行場方面に爆撃をしたようだった。航空基地には医務室レベルでは医療設備があるが、爆下されたとなるとその設備がどうなっているかも不明だし、医療従事者の手が足りなくなることは容易に想像できる。
医療班は車に分乗して、ドーバーの飛行場に向かう。私とルーカス先生も小さな
「飛行場が狙われるっていうことは、制空権を完全に奪ったという意思表示でしょうか」
ハンドルを握るルーカス先生が感心したような声を上げる。
「よく勉強しているね」
「新聞くらい読みます!」
「そうだろうね。軍港を潰して、駆逐艦艦隊を撤退させたら、次は邪魔な戦闘機軍団の根本的な排除だ。元から絶つつもりなんだな。でも、それよりも攻撃目標になるのはあの鉄塔だろうな」
「あれが攻撃目標になるんですか? あれってドイツ軍の無線傍受用のアンテナでしょう?」
「大っぴらには言えないがそんなもんじゃない。今まで劣勢の
私は首を横に振った。
「でもラジオが建物の中で聞こえにくいのは電波が建物の中を通らないからですから、それは電波が壁に跳ね返されているっていうことは言われれば想像がつきますね」
「その跳ね返った電波をあれで受信して、どこに何が飛んでるのか把握するんだ。レーダーっていうらしいよ。どこにあるのか知らないけど、電波の照射装置もどこかにあるはずだ」
「どうしてそんなことまで知ってるんですか?」
「いや、みんな知ってるよ。知ってるけど誰も言わないだけ」
私が軍事技術に興味がないから知らなかっただけらしい。
「敵機が来ることを把握していても迎撃ができないってことはそれだけ
一方的に攻撃を受けているのだから、そう判断するのが普通だろう。
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