第6話 ロンドンに戻る

ロンドンに戻る-1

1940年8月


 ドーバーの軍港への直接攻撃から3週間が過ぎた。


 英国空軍RAFは今も多大な犠牲を払ってドイツ軍をドーバー海峡で足止めしているが、徐々に圧されている。悪天候時以外、ドーバー海峡を通る船団はドイツ空軍ルフトヴァッフェの攻撃に連日晒され、輸送艦だけではなく、駆逐艦2隻が大破という屈辱を味わっていた。ドーバー海峡上の制空権を失い、もはや世界最大最強の英国海軍の海でなくなったことを象徴する出来事だった。大破した駆逐艦は自力でドーバーの軍港に戻ってきて50人以上の死傷者を出し、護衛していた大船団も多くの犠牲が出た。直接戦禍を受けていない私たちでも、その日は医療の無力を覚えるほどの凄惨な敗北だった。その後もドーバーは大空襲を受け、駆逐艦が2隻撃沈。港湾内で撃沈された駆逐艦の移動もしなければならず、そのほかの施設も被害を受け、軍港としての機能は麻痺し、今は復旧作業のただ中にある。


 しかし新聞は連日、ドーバー海峡の戦いをあたかもスポーツの結果のように報じ、時にはラジオで生中継される始末だ。攻撃は海上か沿岸部に限られるため、まだ英国民の大半が平時の気分で、戦争がすぐそこまで来ているという実感からはほど遠かったのである。


 もちろんルーカス先生と私のような医療従事者は軍人さんと共に日々戦っている。このところ、撃沈された輸送艦や撃墜された戦闘機から脱出して救助されても、低い海水温のため、低体温症で亡くなるケースが多発していることが統計上分かってきた。そこで、助っ人である私とルーカス先生は、救助隊と連携して低体温症の治療に当たるようになっていた。ドイツ軍は救助隊を早いうちから整備していて、戦死者を最低限に留めていたのを英国もようやく真似るようになったらしい。そんなことを救助隊の人がぼやいていたのを聞き、私はドイツ人がどれほど真面目に戦争に打ち込んでいるのか思い知った気がした。


 今日も軍港の背後に掘られた待避壕に待機し、戦闘が行われた海域から高速艇が戻ってくるのを待っていた。3日前は英独150機が入り乱れる大空中戦になり、大忙しだった。一昨日と昨日は幸い雨だったので攻撃はなかった。しかし今日は晴天の予報で、ドイツ軍の大攻勢が予想されていた。2日も休めばドイツの戦闘機パイロットたちの英気はさぞ養われたことだろう。こっちは休む暇はないのだから不公平だ。


 ルーカス先生と私は応援の看護師さんたちと一緒に、待避壕に収められた救急車の前に置かれた折りたたみ椅子に腰掛けて、ラジオで音楽を聞いていた。


 ルーカス先生とはあの後、少しだけギクシャクしたものの今ではもうすっかり元通りだ。踏み込みすぎたと反省している。しかし踏み込みが足りなかったとも同時に思う。今では私の中に亡くなった想い人を見ていたのなら、そのまま彼に抱かれても良かったのではないかと思えるくらいに、私はある意味、達観していた。それが彼の救いになるのであれば、だが。


 兵隊さんがコーヒーを入れてくれた。私の分までいただけて大変ありがたい。


「今日はどうなんでしょうね……」


「余所に行くかもしれないからな」


 ドイツ空軍ルフトヴァッフェは英国に手心を加えているのか、ドーバーを連日空爆してとどめを刺すことなく、別の方面、別の基地を攻撃している。こちらの被害状況を把握していないのか、修復を待ってまた破壊しようというのか、それともただの脅しなのかまったくわからない。


 予想通りに空襲警報が出され、私とルーカス先生は待避壕の外に出て、空を見た。今日は晴天。阻塞気球と白い雲が見えるが、戦闘機は見えない。遠くから聞こえてくるエンジン音は英国空軍RAF迎撃機インターセプターのものだろう。スピットファイアかハリケーンか。近くの飛行場から飛んできたのだ。高度は3000メートル付近なので、視認するのは難しい。今日がドーバーへの直接攻撃の4度目になるかもしれない。過去2回は阻塞気球が撃墜されたり、散発的に爆撃を受けている。


「来そうだね」


「はい……みなさんの無事を祈るしかないですね」


 私はコーヒーカップに口を付け、黒い液体を口に含む。カフェインで疲れを麻痺させないと動けないことも多い。今日は備えた方がいいだろう。


 ルーカス先生は双眼鏡を手にドーバー海峡上を見て、呟いた。


「始まった……」


 私の目にもかろうじて曳光弾の輝きが見えた。しかしそれだけだ。波音に混じってエンジンの爆音と銃撃音が聞こえるような気もする。それは次第に気のせいではなく、聞こえているのだとはっきり分かるようになる。戦闘空域は徐々にドーバー上に移行しつつあるのだ。

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