第6話 ロンドンに戻る
ロンドンに戻る-1
1940年8月
ドーバーの軍港への直接攻撃から3週間が過ぎた。
しかし新聞は連日、ドーバー海峡の戦いをあたかもスポーツの結果のように報じ、時にはラジオで生中継される始末だ。攻撃は海上か沿岸部に限られるため、まだ英国民の大半が平時の気分で、戦争がすぐそこまで来ているという実感からはほど遠かったのである。
もちろんルーカス先生と私のような医療従事者は軍人さんと共に日々戦っている。このところ、撃沈された輸送艦や撃墜された戦闘機から脱出して救助されても、低い海水温のため、低体温症で亡くなるケースが多発していることが統計上分かってきた。そこで、助っ人である私とルーカス先生は、救助隊と連携して低体温症の治療に当たるようになっていた。ドイツ軍は救助隊を早いうちから整備していて、戦死者を最低限に留めていたのを英国もようやく真似るようになったらしい。そんなことを救助隊の人がぼやいていたのを聞き、私はドイツ人がどれほど真面目に戦争に打ち込んでいるのか思い知った気がした。
今日も軍港の背後に掘られた待避壕に待機し、戦闘が行われた海域から高速艇が戻ってくるのを待っていた。3日前は英独150機が入り乱れる大空中戦になり、大忙しだった。一昨日と昨日は幸い雨だったので攻撃はなかった。しかし今日は晴天の予報で、ドイツ軍の大攻勢が予想されていた。2日も休めばドイツの戦闘機パイロットたちの英気はさぞ養われたことだろう。こっちは休む暇はないのだから不公平だ。
ルーカス先生と私は応援の看護師さんたちと一緒に、待避壕に収められた救急車の前に置かれた折りたたみ椅子に腰掛けて、ラジオで音楽を聞いていた。
ルーカス先生とはあの後、少しだけギクシャクしたものの今ではもうすっかり元通りだ。踏み込みすぎたと反省している。しかし踏み込みが足りなかったとも同時に思う。今では私の中に亡くなった想い人を見ていたのなら、そのまま彼に抱かれても良かったのではないかと思えるくらいに、私はある意味、達観していた。それが彼の救いになるのであれば、だが。
兵隊さんがコーヒーを入れてくれた。私の分までいただけて大変ありがたい。
「今日はどうなんでしょうね……」
「余所に行くかもしれないからな」
予想通りに空襲警報が出され、私とルーカス先生は待避壕の外に出て、空を見た。今日は晴天。阻塞気球と白い雲が見えるが、戦闘機は見えない。遠くから聞こえてくるエンジン音は
「来そうだね」
「はい……みなさんの無事を祈るしかないですね」
私はコーヒーカップに口を付け、黒い液体を口に含む。カフェインで疲れを麻痺させないと動けないことも多い。今日は備えた方がいいだろう。
ルーカス先生は双眼鏡を手にドーバー海峡上を見て、呟いた。
「始まった……」
私の目にもかろうじて曳光弾の輝きが見えた。しかしそれだけだ。波音に混じってエンジンの爆音と銃撃音が聞こえるような気もする。それは次第に気のせいではなく、聞こえているのだとはっきり分かるようになる。戦闘空域は徐々にドーバー上に移行しつつあるのだ。
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