第5話 ドイツ空軍の襲来

ドイツ空軍の襲来-1

 ドーバーに私たちが来てから1週間が経った。


 連日のようにドーバー海峡を渡る船団に対するドイツ空軍ルフトヴァッフェの猛攻は続いた。ただ、雨の日には視界が悪くなるため、攻撃は休みとなる。雨の日は病院の職員にとっても一息つけるお天気だった。


 しかしいよいよ状況は切迫しており、病棟は疎開することになった。病院の裏手にある高台の上にサッカー場があるのだが、そこの屋内施設に移転するのだ。手術室や検査機器までは動かせないので、病院に残したままになるが、いざ空襲があったときにベッドから離れられない患者さんたちは避難することができない。そのような事態を避けるためだ。1キロも離れていないので、業務の支障は最低限だと思われたが、それでも移動時間が生じるのはやや不便だった。


 ロンドンでも子どもたちの計画疎開が始まっているという。先の大戦の教訓をうけてのことだ。しかし今朝の新聞を見てもロンドンは平時とそれほど変わらない。サッカーの試合が行われ、結果が普通に載っている。100キロは航空機にとって大した距離ではないが、まだロンドンに侵入しようという意図はないと思われていた。ヒトラーは和平をまだ諦めておらず、ドイツの国会でそんな内容の演説をしたと新聞に書かれていた。つまり無用な刺激は避けたいということなのだろう。


 マクレガーさんの家で新聞を広げ、コーヒーを飲む。穏やかで心落ち着く一時だ。ショーンくんとエリスちゃんはマックスの散歩に、マクレガーさんは防空壕を掘りに、ルーカス先生は歯を磨きに席を立っているのでダイニングにいるのはマクレガー夫人と私だけだ。マクレガー夫人は食器を洗い終えるとテーブルに戻ってきて私に話しかけた。


「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」


「はい、なんですか?」


 するとマクレガー夫人は私の側に来て、耳打ちした。


「夜の方はどうなってるの? 遠慮しなくていいのよ。防音はしっかりしているし、子どもたちも1度寝たら起きないから」


 私は思わず吹き出しそうになった。


「い、いえ、私たち、そういう関係ではないですから!」


 マクレガー夫人は不思議そうな顔をした。


「そうなの? 本当に?」


「残念ながらそうなんです」


「ではリンゼン先生はどうされているのかしら。不屈の意志で耐えているという訳ね」


「不屈かどうかは知りませんし、耐えているかどうかも分かりません。私に単に魅力がないだけかもしれませんし」


「それはないわよー。あなたを見るリンゼン先生の目は、本当に大切で仕方がないという目よ」


「保護者的な?」


 マクレガー夫人は首を横に振った。


「いいえ。愛する人を見る目よ」


「それが本当なら楽なんですが……やっぱり年齢差でしょうか」


 自分の方はこれ以上なく愛を伝えているつもりだ。しかもマクレガー夫人から見ても、きちんとルーカス先生は私を恋愛対象にしてくれているらしい。それでも据え膳に手を着けないのは理由があるとしか思えない。


「それは本人同士でないと分からないわよ。ああ、そうそう。なんで話しかけたかっていうと、これがないのかと思って……」


 マクレガー夫人は紙袋に入った四角い小箱を私に渡してくれた。中を覗いてみると想像通り、避妊具だった。アメリカ製だ。私はごくりと息をのんだ。


「使用するシチュエーションが想像できません」


「なら、より一層、持っていた方がいいかしら」


 マクレガー夫人が言うことも分かる。いざというときに無いと困るものだ。私はありがたく頂戴することにして、ポケットの中に収めた。するといいタイミングでルーカス先生が歯磨きから戻ってきて、私たちを見た。


「……僕の顔に何かついてる?」


 私たちの方が先にルーカス先生を凝視していたのだった。マクレガー夫人が応え、私がその後に続く。


「いいえ。女同士の話ですよ」


「そうそう。殿方はノーサンキューです」


「まあそういうこともあるよね」


 ルーカス先生はそういうことにも理解がある男性である。


 私とルーカス先生は病院に出勤したあと、車に乗って疎開先のサッカー場に向かう。兵を割くより車を手配した方が早いということになって、ルーカス先生に1台車が割り当てられた。750cc・10馬力の小型クーペ『セブン』で、1922年発売なので今となってはいささかクラシックだが、動いて屋根があるだけでも助かる。シャーシは1.9メートルしかない本当の小型車だ。サッカー場までの坂もなんとか上る。午前中の回診を終えると海軍病院にも向かう。ドーバー城の坂もセブンはなんとか上る。今のところドーバー方面での戦闘は落ち着いているので、新しい患者が運び込まれることはあまりなかったので、腰を落ち着けて治療に当たれるのはありがたいことだと痛感していた。


 比較的緊急度が低い手術を済ませ、私たちは民間病院に戻ることになって、セブンに乗ってドーバー城を出た時のこと。城内のスピーカーから全館放送が流れ、空襲警報が発令された。


 ルーカス先生は忌々しげな顔をして城壁の上に設置されているスピーカーを睨んだ。今までも何度か空襲警報が発令されたことがあったが、沖合の船団を狙った進軍で、直接的な被害はまだ私たちが来てからはない。


 しかし今回の空襲警報はそれらより1段階上のそれだった。ドーバー城に引き返そうか迷ったようだったが、ルーカス先生はそのまま坂を下り続けた。ドーバー城が爆撃対象になっている可能性はある。車から降りて地下壕に避難するより、城から離れた方が安全だと判断したのだろう。

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