悪いことばかりじゃない-6
ルーカス先生はエレベーターから出ると、実に不本意そうに言った。
「撤回する」
ルーカス先生が前振りなしで急に言い出したので、私はたっぷり1秒は考えてしまった。そして彼が答えに至ったことを確信したあと、私は応える。
「どうぞ、お続けください」
ルーカス先生は引き続き言いにくそうだった。ちょっと意地悪だったか。
「分かってくれ」
「分かりませんね」
するとルーカス先生はコホンと咳払いしてから口を開いた。
「少なくとも僕の眼鏡に適った男にしてくれ。あんな若い兵隊では君が苦労するのが目に見える」
私は吹き出してしまった。
「やだなあ。やっぱりそんなことだろうとは思いましたが」
「あいつは君に興味津々だっただろう。そんなこともわからないのか?」
「わかりませんし、関係ないですね。私の方は興味ないですし」
「少しは周囲に注意を払え。君はかわいいんだから!」
「ルーカス先生が一緒にいてくださる分には問題ないです」
ルーカス先生はまた黙りこくってしまった。
私は海軍病院の方に向かって地下壕の中を歩き始めた。
地下壕の中は兵隊さんでいっぱいだ。それぞれがそれぞれの任務に打ち込んでいる。ドイツ軍の上陸作戦に備え、やらなければならないことは山積していて、その準備を全力疾走ペースで続けたとしても間に合うとは限らない。全てドーバー海峡のお天気次第なのだ。悪天候が続けば続くほどドイツ軍の上陸は不利になり、時間的猶予が生まれる。
私はルーカス先生を振り返る。彼はまだエレベーターホールで立ち止まっていた。私と目が合うと彼は小走りで私に追いつく。コンパスが違うので、先生にとって私が先に行っても大したリードではなかったらしい。
「いつも僕が側にいるとは限らない」
「なにか勘違いされてません?」
ルーカス先生を見上げて、私は彼の目をまっすぐに見た。
「私がルーカス先生のお側を離れないんです」
そしてニイと得意げに笑って見せて先に進んだのだった。
この日は整形外科の手術を1件、火傷の手術を1件こなした。火傷はドーバー海峡上で行われた空戦で、
機体火災における火傷はひどいものだと聞いてはいたが、見ると聞くとは大違いで、目の当たりにするとそれまでの想像が生半可なものだと思い知らされた。それほど悲惨な状態になる負傷だ。しかも戦闘で生き延びても、こんな戦後が待っているのは過酷すぎる。新たな人生を送るのか、それとも戦闘機乗りとして復帰できるのか、それはこの人の生命力次第だと思う。この人の新たな人生の出発の手助けになればと祈らざるを得なかった。
ルーカス先生は初めて私が機体火災による火傷患者の手術に立ち会ったことをよく分かっていたから、手術後、休憩室で私を労ってくれた。
「彼はよく耐えた。そして君も同様にがんばった。よくやったね」
「やるせないです。どこまで私たちが力になれるものなのか……」
「そんなことは後で考えればいい。今は、ううん、これからも僕らは目の前にいる患者さんに対してベストを尽くせばいい。いや、尽くさなければならない。それだけだ。それ以上を考えるのは全てが終わってからでいい」
ルーカス先生がそう断言するのはきっと、スペインでの経験からなのだろう。終わりのない戦争で、それこそ数え切れないほどの負傷者が発生する。戦争は簡単に人を傷つけるが、医療従事者が彼らの命を救い、元のような人生を送れるようにするには甚大な労力を注ぎ込まなければならない。わかっていたつもりだったが、それは本当に「つもり」でしかなかったのだ。
従兵がホットドッグを持ってきてくれた。しっかり炒めたたまねぎとフランクフルトをパンに挟んだもので、アメリカからやってきた割とポピュラーな食べ物だ。
私たちは考えるのをやめてまずは栄養補給を優先し、ホットドッグを頬張るが、ルーカス先生は不満げに言った。
「本場のホットドッグが懐かしい」
「本場というとアメリカのホットドッグはこれじゃないんですか」
「キュウリのピクルスとレタスとトマトケチャップとマスタードと……」
「だいぶ違いますね」
「あれは美味しかったし、食べるのが楽しみだったが、これじゃあな」
腹に入れば同じだと言わんばかりのシンプルすぎるホットドッグだ。
「面白いですね。ホットドッグ1つでそんなに違うなんて」
「お国が違えばって奴だね」
ルーカス先生は笑った。昔のルーカス先生が戻ってきてくれたみたいで、私は嬉しくなって、少し涙ぐみそうになった。しかしここで涙ぐんだら何事かとルーカス先生にいぶかしがられてしまうので、ガマンする。でも、何かをガマンしているのが分かってしまったようだった。
「どうかしたのか」
「ええ。戦争はとても悲惨で、あってはならないものですけど、でも、そんなに悪いことばかり起こるわけじゃないんだなって思えて……」
「……そうだね」
「ドーバー城も見られたし、マクレガーさん家もいい人たちばっかりだし、それに……」
「それに?」
「ルーカス先生と2人きりだし」
私は自分で言っていて真っ赤になってしまう。
ふふ、とルーカス先生は少し笑った後、こう言った。
「そうだね、君と再会できた」
彼のその言葉を耳にしたその瞬間、私の背筋に電気が走り、全身に甘いしびれが広がっていく。これが幸せの感覚なのだと、何故か私にはわかった。
私は彼のその言葉を何度も何度も心の中で噛みしめたのだった。
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