悪いことばかりじゃないー5
翌朝、私は何もなかったかのような顔をしてルーカス先生にあいさつし、朝食の席に着き、お腹いっぱい食べた。お腹いっぱい食べないと1日もたない。忙しくてお昼を食べ損ねる可能性を考えると朝ご飯は大切なのだ。ルーカス先生もそれをよくわかっているからとにかくよく食べる。
食べ終えて早々に病院に行き、朝の回診をする。手術した3人の患者さんの様子を看るのはルーカス先生の義務だ。片足を失った患者さんはルーカス先生が膝関節を守ってくれたことに感謝していた。膝関節が残っているのといないのでは義足で歩くときにかなり違うことは素人でもわかることだ。開放骨折の患者さんは今日から歩く練習を始めた。ただ寝ているだけだと無事なところの筋力が落ちるから、1メートルでも2メートルでも歩くんですよ、とルーカス先生は患者さんを説得した。3人目は昨日手術した複雑骨折の患者さんで、プレートを入れた説明をした。あとで抜かなければならないが、回復は早くなるし、元通り歩けるようになるとルーカス先生から聞くと、彼は感激していた。
医療に関わって良かったと思う瞬間に出会うと、やっぱりエネルギーが充填されるものだ。病院の医師と手術計画を話した後は、軍の車が迎えに来る。次は海軍病院で手術となる。私も本格的に肉体労働になるわけだ。
運転しているのは今日も同じ若い兵隊さんでにこやかに私とルーカス先生にあいさつをした。私もにこやかにあいさつを返したが、ルーカス先生は不機嫌そうに後部座席に乗り込んだ。どうやら虫の居所が悪いらしい。
「昨日はローマ時代の灯台を案内してくださいましてありがとうございました」
私は後部座席から運転している兵隊さんに声を掛けた。
「いえ。せっかく遠くからいらっしゃっているんですから、少しでも楽しいことがあっていいと思うので、良かったです」
「そう言っていただけると助かります」
ルーカス先生はまだ機嫌が悪い。どうしたというのだろう。話しかけづらい。
「ところでドーバーの白い崖はご覧になりましたか?」
若い兵隊さんの質問に私は首を横に振った。バックミラーで彼に見えただろうか。
「いいえ。1度は見てからロンドンに帰りたいとは思うのですが……」
「では、ドーバー城に行く前にちょっと立ち寄りましょうか。ほんの数百メートルの寄り道です」
若い兵隊さんは上機嫌でそう言う。私は今も不機嫌そうなルーカス先生に聞く。
「よろしいですか?」
「私は見ているが、君が見ていないなら見るといい」
一応、OKが出た。私は若い兵隊さんにお願いして、ドーバーの白い崖を見に連れて行ってくれるようお願いした。
若い兵隊さんが言うには、有名な英国を象徴する白い崖は船からしか見えないが、船で出なくても、ドーバー港にある海軍基地の後背部で同じ連続した白い地層が間近で見られるのだということだった。
「楽しみ」
「光栄です」
私は少しの時間、若い兵隊さんとの会話を楽しんだ。
車は海軍基地の中に入り、倉庫群の間を通って、数百メートル進むと、左手に白い壁が見えるようになる。若い兵隊さんは車を路肩に停め、運転席からすぐに出て、後部座席のドアを開けてくれた。
「さあ、どうぞ」
「ありがとう」
私は車の外に出たが、ルーカス先生は車外に出る様子はない。
「行ってくるといい」
私は少し考え、その場でドーバーの白い崖を見上げる。ところどころ緑はあるが、本当に白い。これが英国の象徴だと思うと、これで十分な気がした。
「いえ。結構です。お仕事を優先します。ありがとうございました」
そうですか、と若い兵隊さんはガッカリしたように言って運転席に戻り、私も後部座席に収まった。
海軍基地からドーバー城まではやはりほんの数百メートルで、さしたる寄り道にならずに済んだ。若い兵隊さんは城の入り口に車を着け、車から降りた私たちを見送った。私はルーカス先生のあとを歩き、彼に聞こえるように言った。
「あーあ。ルーカス先生と白い崖デート、したかったなー」
するとルーカス先生はチラリとだけ私を見て、すぐに前に向き直った。
地下へのエレベーターホールに着き、私は隣に立つルーカス先生を見上げた。
「――もしかして反省してます?」
ルーカス先生の顔色が変わった。
「そんなことはない!」
「じゃあ、あの若い兵隊さんと一緒に白い崖を見に行った方が良かったですか?」
「君がそうしたければ、すれば良かった」
「へぇえ」
エレベーターはすぐに来た。私は先に中に入って『開』のボタンを押し、ルーカス先生が入るのを待つ。しかしルーカス先生はその場から動かず、真っ赤になって口元をおさえている。
「先生、早く」
「あ、ああ」
ルーカス先生以外にエレベーターを待っている人はいないが、下の階でエレベーターを待つ人がいないとは限らない。ルーカス先生は小走り気味にエレベーター内に入ってきて、私は『閉』のボタンを押した。
「どうせ見るならゆっくり見に行きたいですね」
「僕は何度も船から見てる」
「でも近くでは見ていないでしょう」
「それはそうだが、僕は英国人ではないから、絶対に見たいものでもない」
「しかし私はルーカス先生と一緒に見たいんですよ」
そしてエレベーターは地下壕階に到着した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます