まだ戦場じゃない-4

 翌日、チャーリング・クロス病院に出勤するといろいろと騒然としていた。戦争が激化したからではない。話題の中心はルーカス先生と私だった。


「それはそうかー」


 先輩の看護師たちに囲まれて、私は思わず嘆いてしまった。看護師寮にルーカス先生が来たことは寮母さんが見ているわけで、先輩たちにも筒抜けなのである。さらにルーカス先生のビフォアアフターも寮母さんが見ているので、自分が何か関わっていることはモロバレだ。


「驚いたわ。ルーカス先生、見違えた」


「どういう魔法? あんないい男に変身させるなんて」


「そもそもルーカス先生があなたのところに何しに来たの?」


 私は一部始終を包み隠さず先輩の看護師たちに話したが、普段、彼女らが接しているルーカス先生からは彼の休日の行いが想像ができないようだった。しかし昔からいる年配の看護師で、5年前に短い間だけどこの病院に彼がいたことを知っている先輩看護師は、いい仕事したね、と褒めてくれた。同様にモーガン師長も賞賛の言葉をくれた。


「あれでだいぶ看護師も患者も話しかけやすくなったわ。助かる」


「まさか前髪のヘアワックスも自分でされてくるとは思いませんでしたが」


 回診で病棟を回るルーカス先生を見かけ、話はできなかったものの、前髪だけは確認したのだ。実はもしなにもしてなかったら自分でやってあげるつもりだったのだ。


「しかし派手にやったわねえ。自分の手で敵を作っちゃったかもよ」


「私、同担歓迎なので問題ありません」


 そんな他愛ない話をしているとモーガン師長が電話口に呼ばれた。少々話をしたあと電話を切り、すぐに私に言った。


「しばらくリンゼン先生がドーバーの軍病院に呼ばれるそうなの。アリシア、あなたが助手でついていってくれるかしら」


「私はそもそも陸軍所属の派遣看護師ですから、軍の命令とあれば当然です」


「あなたがここにいてくれて助かったんだけどな。すぐに帰ってきてくれることを切実に期待しているから」


 そしてモーガン師長はシフトの変更を皆に告げ、私は看護師寮に戻って急いで荷物を再びスーツケースに詰め込み、準備を済ませて病院に戻る。せっかくルーカス先生が設置してくれたラジオ受信機もほとんど使わないまま出張だ。


 ルーカス先生もスーツケースを手にして病院の前で私を待っていた。


「先生、準備早い」


「こんなことになるだろうと思っていたからね」


 そう言うルーカス先生の目はいつになく生き生きとしていた。本当は戦場に戻りたがっているのではないかと私が危惧してしまうほどだ。


「どうやって行くんですか」


「地下鉄と汽車だ。3時間で着く」


「ルーカス先生と列車旅、楽しみです」


「君は相変わらず前向きだな」


 ルーカス先生は小さく鼻で笑い、私はちょっとムッとした。


「失礼です、それ」


「ああ。すまない。ではいこうか」


 2人で揃ってスーツケースを転がし、地下鉄のエスカレーターに乗った。


 地下鉄駅から地上のターミナル駅に移動し、ビクトリア駅でドーバー方面の特急汽車に乗り換える。車掌さんに聞いたところ、2時間かからないらしい。


 私とルーカス先生はボックス席に向かい合って座り、車窓を眺めながら差し支えのない話をする。ロンドン市内を出ると汽車の外の風景はすっかり夏のそれだ。今日も曇り。日差しは強くないし、蒸し暑くはあるがそれほど気温も上がらない。しかし流れていく風景は目映い緑に溢れている。線路端木々は枝葉を伸ばし、牧草地は緑に萌えている。もっとも小麦はこれから収穫期なので畑が黄金色に輝いていた。


 あと100キロほどで戦場に着くのかと思うと信じられない思いがする。こんなにも平和なのに、あと2時間でドイツ軍の爆撃機と護衛の戦闘機が飛んでくる場所に着くのだ。


 私にはまったく想像ができない。もちろん前の戦争のときの写真などを見たことはあるが、体験したもう少し上の世代とは比べものにならないくらい戦争への備えがない。


「君を戦場に連れて行くことになるとはな……」


 ルーカス先生は窓の外の流れる景色を見ながらそう呟いた。


「国難ですから、先生に連れられなくても、いつかは向かったと思います」


「女の子なんだから、家に残って手伝いをしても良かったんじゃないのか」


「『もし、たらIf』は禁物です」


「考えても答えが出ないからね……」


 ルーカス先生が考えるIfはなんなのだろうかと想像してみる。私が持っている情報から素直に想像すれば、スペイン内戦に行かなかったらというIfではないかと思う。もし赤十字医療団に参加しないでオランダに留まり、普通に医師として働き続けていたら、顔に傷を負うことはなかっただろうし、私との文通が途絶えることもなかったに違いない。


 そう。もし文通が途絶えていなかったら、またルーカス先生が英国に来るようなことがあって、成長した私と再会し、2人の間の愛が芽生えていたら、私が看護師を目指すようなことはなかったに違いない。看護師でなければこうしてドーバーに向かうこともなく、今も実家の農場の手伝いをしていたのかもしれないし、もしかしたらもうルーカス先生からいただいた指輪を左の薬指にはめていたかもしれない。


 やっぱり「もし、たら」は禁物だ。


「君は故郷でいい人を作らなかったのか」


 そんなことを言ってもルーカス先生はやっぱり車窓を眺めているだけだ。


「私はあの頃からルーカス先生一筋ですよ」


 私はすっと思いを言葉にした。すると、ルーカス先生はようやく前を見て、向かいに座る私の顔を見た。平静を装っているような顔だ。


「聞いてないよ、そんなの」


「そうでしたっけ?」


 私は常にルーカス先生にはラブラブビーム全開でいたから、もうとっくに言っているつもりになっていたらしい。振り返ってみると確かにそれらしきことは言っていない気がする。


 ルーカス先生は少し躊躇いがちに言った。


「僕はおじさんだよ」 


「知ってますよ。でも11歳差なんて世間では珍しくないですから、希望は捨てません」


 ルーカス先生は照れたようにまた車窓に向き直り、私は嬉しくなってふふふと笑ってしまったが、彼は無視を決めこんだようだった。

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