まだ戦場じゃない-5

 終点のドーバーに汽車が到着したのはちょうどお昼頃で、駅まで陸軍の車がルーカス先生を迎えに来てくれていた。ドーバーは人口10万人の港湾都市で、こぢんまりとしているが、きれいな街だと聞いていた。兵隊さんが彼と私の荷物をトランクルームに入れて、車は救急病院に向かった。迎えに来たドライバーを務める若い兵隊さんの話では、昨日の船団への爆撃で沈没した輸送船から命からがら逃げ延びた船員や、爆撃を受けて沈まなくても損傷を負った船の船員が爆弾の破片を受けて大けがを負っているそうで、有名なドーバー城に設置された軍病院ではだけでは、ここまで大規模な戦闘には対応できず、民間の病院を救急病院に指定し「比較的軽傷の」船員たちを収容して貰っているとのことだった。


 しかし着いてみれば小さな民間の病院だけでは収容しきれず、隣の建物まで急遽借りて、ベッドを入れているような有様だった。負傷者の数に受け入れ態勢がまったく間に合っていない。医療従事者が足りていないのも同様で、緊迫した状況にあった。


 救急病院の医師から状況を聞き、私たちはさっそく重傷者のベッドに行く。話を聞く限りは爆発で高所から落下して開放骨折をした患者と、右足を失った患者を早急になんとかしなければならなかったが、地方の病院でこれほどの重傷者を看ることは普通はない。対応が遅れても当然だ。


 隣の建物は木材工場で、広さは体育館ほどもあるだろうか。作業機材を寄せて片付けてベッドを置くスペースを作っていた。30床の臨時病床だ。


 話を聞くのと見るのとでは大違いで、頭と顔に包帯をぐるぐるまいている患者や、術後なのだろう、点滴を受けつつ唸っている患者、腕を骨折したらしく三角巾で吊ってベッドに座っている患者、両脚を包帯で巻かれ、腕や胸に軽度の火傷を負った患者などさまざまだった。その全員が戦場をくぐりぬけて、生き延び、生気が抜けたような顔つきだった。無言なのも恐ろしい。


 目標のベッドに行き、右足を失った患者を目の当たりにし、カルテと見比べ、民間病院の医師と話をする。そして意を決したような目で私に目を向けた。


「……アリシア」


 彼は私のファーストネームを呼んだ。本当に久しぶりだ。しかし彼は私の名前を口にした後、何故か少し悲しげな目をした。少し間を置いて、こう続けた。


「すぐに手術だ。やれるか?」


「もちろんです」


 准看護師としての実務経験もある。正看護師になる過程で手術の助手も経験済みだ。これが私たち医療従事者の戦場だと思う。しかし私が気になったのは私の名前を呼ぶときに言いよどんだことだった。しかし考えるのは後でもできる。今は手術を待っている患者を目の前にしているのだ。


「終わったら次は開放骨折の患者の手術だ。時間との戦いだ。やるぞ」


 私は彼の言葉に大きく頷いた。


 2人の重傷患者の手術は合計9時間にも亘った。


 右足を失った患者は膝下まで残っていたが、壊死が進行しつつあり、それを阻止するための措置を行う。少しでも遅れれば膝から上を切断しなければならなくなる状態でギリギリ間に合ったというところだった。膝から上の切断と膝から下の切断ではその後の運動機能に大きな違いが出る。膝から下で済めば義足で日常生活を送ることができる。しかし膝を失えば松葉杖生活になる。


 無事手術に成功し、ルーカス先生と私はほとんど休むことなく次の手術に入る。脛の骨が飛び出している上、複雑に骨折しており、この病院の医師では出血を止めるだけで精いっぱいだったという症例だ。これも神経を要する、そして迅速な処置が求められる手術だったが、これも無事に終わらせ、傷を縫合し、あとを地元スタッフに任せてルーカス先生と私は手術室から出た。


 手術室を出てすぐのベンチに駆けつけていた船員の家族が座っており、手術が終わったことを告げると、容態を聞いてきた。ルーカス先生は無事、切断には至りませんでしたよ、義足を作ってリハビリをすれば普通に歩けるようになりますよ、と言って家族を安心させた。


 私とルーカス先生は少し行ったところにある診察室前のベンチに並んで腰掛けた。


 時計を見るともう22時近かった。今夜、どこで寝ればいいのかすら聞いていない。もうここのベンチで眠ってしまいたいほど疲れているのがわかる。それでも私の身体の中には喜びの感情があった。


「――来て、良かったですね」


 2人の重傷患者の人生をいい方向に変えられた。そう信じるに足る手術だった。


 ルーカス先生は頷いた。


「これが、戦場なんですね」


 これまで戦場を見続けてきたルーカス先生に確認するために私は彼に聞いた。


 私は彼が頷いてくれるものだと思っていたが、彼は小さく首を横に振って言った。


「……まだ戦場じゃないよ」


 その一言はこれまで彼が何を見てきたのかを想像させるに足るものだった。仮設病棟の惨状は戦場というに相応しいものだと私は思った。しかし、本当の戦場はこんなものではない。彼はそう言っているのだ。


「……君を、戦場に連れて行きたくない」


 彼は項垂れて、肩の力を落とした。


 私ができるのは彼の肩をやさしく抱いて、寄り添うことだけだった。


 これまで彼はどのような過酷な戦場にいたというのだろう。こんな地獄に片足を突っ込んだような惨状の中であってもまだ戦場ではないという。


 私は彼の焦燥しきった横顔を見つめる。その頬にある古い傷を見つめる。


 スペインの戦場――そしてヨーロッパ大陸の戦場。


 新聞やラジオのニュースでは決して伝わらない、その場に居合わせた者だけが知るその場所を私も知らなければ、彼の中にあり、今も彼を悩ませている心の闇に決して届くことはないのだと、思い知らされた気がしたのだった。

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