まだ戦場じゃない-3
「このあとはご予定は?」
「ない」
彼はぶっきらぼうに答えたが、私は上機嫌で応えた。
「それは重畳」
「呼び出しがあるかもしれんからアパートメントに戻りたい」
「ほんの少しの時間ですから」
渋い顔をするルーカス先生を宥めていると、幸いにも道ばたに赤と青の白のラインがくるくると回るサインポールが置かれていることに気が付いた。私はサインポールに駆け寄るとそれに手を掛け、彼を見上げた。
「そろそろ髪をお切りになった方がいいかなと存じますが」
「面倒だ」
ルーカス先生は明らかに不機嫌そうだった。
「短い方が髪を洗うのが楽ですよ」
私にそう言われてもルーカス先生は微かにイヤそうな顔をしたが、床屋の中にある鏡に自分の姿も映っていることに気付くと、自ら扉を開けた。
「そうそう。素直が一番です」
私はつきそいで床屋の中に入った。床屋は男性の世界なので女性である私が入ることには割と厳しいものがあるのだが、店の中には店主が1人いるだけだったので、気にしないことにした。
店主はルーカス先生に「どのようにされますか」と聞き、先生は短くしてくれとだけ答えた。それでは店主も困ってしまう。
「短ければ流行の髪型でいいです」
私がそう言うと店主はルーカス先生の顔色を窺い、ルーカス先生は何も言わなかったので、嘆息気味にふうと息を吐くとさっそく仕事に取りかかった。
45分ほどで散髪は終わり、ボサボサだったルーカス先生の髪は短めの七三分けになり、店主は前髪をワックスでくしゃくくしゃにした。
「先生! 確実に5歳若返りましたよ。いい男振りがアップです」
20代の若者がするようなヘアスタイルに私は2度惚れしてしまう。
いい仕事したでしょう、と言わんばかりの店主の笑みに、私は拳を握ってふって応えた。喜びを漏らさずにはいられない。
「手間を掛けたな」
ルーカス先生は店主にお代を払うと私を見ずに店の外に出た。私は急いで追いかけ、ルーカス先生の隣を歩いた。
「……もしかして怒りました?」
「いや」
「じゃあなんで先に出たんですか」
「君と一緒にいると調子が狂う」
「そんなことないですよ。ルーカス先生はルーカス先生です」
進路の歩行者用信号が赤に変わり、私たちは横断歩道の前で止まる。
「心のエネルギーを使う」
「……そう、ですか」
せっかくの先生の休日なのに、心のエネルギーをためるどころか浪費させてしまったとは申し訳ないことをしてしまった。
私はそれ以上、何も言うことができなくなって、無言のまま看護師寮に戻り、ルーカス先生を私の部屋に通す。ルーカス先生はラジオの電源コードを延長コードに接続し、コンセントに挿す。窓際に置き、スイッチを入れるとクリアーな音楽が流れてきた。
今、BBCで放送しているのは、戦争中に新たに始まった、主に音楽とバラエティ番組を流すBBCフォース・プログラムだ。これを夜や休みの日にも聞けるのは本当にありがたい。今までは教養番組が多かったのだ。しかし音楽が突然途切れ、臨時ニュースが始まった。
臨時ニュースは100機以上の
「……戦闘機同士の戦闘で一番多い負傷は機体の火災による火傷だ。僕の分野ではないが、人手が足りなくなれば駆り出される。これから僕に何ができるものか……」
ルーカス先生が私にくれた手紙の通りにスペインの内戦に行ったのだとすれば、彼がいう「何ができる」は戦争で負傷した人たちにどんな治療をできるか、という意味ではなく、戦争という巨大な悲劇に対し、一医療者がどんなことができるものかという嘆きに違いない。それは実際に戦場を渡り歩いたルーカス先生だからこそ、普通の人よりも一層強く感じているのだろう。
私が何か中途半端なことを言っても何にもならないと思った。でも、もしそう思ったのなら、少なくとも今は、彼に自分の気持ちを伝えたい。
「中途半端なことを言っても、何にもならないとは思います。でも、言わせてください。ルーカス先生はすごいです」
ルーカス先生は悲しげな目で私を見た。
「君は戦争を知らない」
私は頷いた。
「それでも私はルーカス先生についていきます」
「君には戦争を見せたくない」
「でもこうして戦争の方が私たちの方にやってきているのですから、もう誰も逃れられません」
「僕は逃げたんだ」
「先生はご自分から戦争に飛び込んだんです。だから今は元の居場所に戻っただけなんです。そもそも逃げてなんかいないんです」
ルーカス先生は黙りこくり、部屋の外に出ようとしてドアノブに手を掛けた。
ルーカス先生の貴重な時間を自分のために使って貰ったというのに、最後に陰鬱な気分にさせて帰らせるのが私は申し訳なくなった。
「……すみませんでした。わかったようなことを言って」
「謝るようなことはない」
ルーカス先生は無理に微笑もうとしたらしかったが、頬の傷のせいでそれはかなわなかった。
「じゃあ、ラジオ、使ってね」
「はい」
そして見送ろうとして一歩前に出たとき、私のお腹の虫が鳴った。私はあまりの恥ずかしさに俯いて、今度は私の方が何も言えなくなってしまった。今の時刻は午後2時。お買い物と床屋さんに行っただけでその間に一口も食べていなかったからだ。
ルーカス先生は小さな声で言った。
「まだこの時間でもやっている食堂を知っているよ。食べに行こうか」
昔に戻ったかのようなルーカス先生の言葉に、私は思いきって面を上げた。
「いいんですか!?」
「もうすぐお昼営業が終わるから急がないとね」
私は頷いた。
ルーカス先生が少し優しい言葉をかけてくれただけで、私のさっきの憂鬱さもお腹の虫が鳴ったことの恥ずかしさも吹き飛んで、有頂天になってしまう。
「是非!」
ルーカス先生は無言で歩き始め、私は彼の後を半歩遅れて歩き、すぐ近くにある食堂で遅めのランチを食べた。ランチはソースがかかった厚いハム2枚にスコーン、温野菜(ここまでワンプレート)にスープという簡単なものだったが、基本的に美味しかったし、それ以上にルーカス先生と一緒に食べられたので、最高に美味しく感じたのだった。
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