まだ戦場じゃない-2

 ルーカス先生はきっかり1時間後に看護師寮のエントランスに姿を現した。私がおめかししているのに対し、ルーカス先生はよれよれのスーツで現れた。着の身着のままで英国に来たルーカス先生がおしゃれな服を買う暇があったとは思えないので仕方がないのはわかるが、私はとても寂しくなる。


「先生! ありがとうございます!」


「いや。ではこれを」


 ルーカス先生は手にしているラジオ受信機を私に直接手渡そうとして、私はうーんと眉をひそめてしまった。


「私でラジオ受信機を設置できるのでしょうか」


「コンセントに挿すだけだ」


「アンテナは?」


「ラジオの本体の向きで感度が変わるからちょうどいいところに置くだけだ」


「……」


 自信がない。自慢ではないが私は機械に弱いのだ。


「看護師寮に入るわけにはいかない」


 脇で見ていた寮母さんが首を横に振り、ルーカス先生は苦い顔をした。


 結局、ルーカス先生はラジオ受信機を手にしたまま3階に上がり、私は部屋のドアを開け、真っ青になった。洗濯物は干してあるし、ベッドの上にはスーツケースの中から出した衣類が散乱している情けない状態だったからだ。


 言わんこっちゃない、という目でルーカス先生は私を見て、私はすぐに片付けます、と言って室内に入り、なんとか体裁を整えて先生を通す。


「窓際がいいんだがな」


 窓際においてある小さな机の上にラジオ受信機を置き、電源コードをコンセントに挿そうとするが、コードが短くてコンセントまで届かなかった。コンセントが届く距離だと受信はするものの、クリアーさに欠けた。


「やっぱり先生に来ていただいて正解でした」


「延長コードを買わないとならないようだな」


「せっかくだからお買い物に行きませんか!?」


 私は思いきって誘ってみた。


「買ってくる」


「私も行きます」


 有無を言わさないタイミングで返し、ルーカス先生と2人で階段を降り、エントランスに行くと寮母さんが含み笑いをしていた。


 そうですよ。デートです。デートにこぎ着けたんです。


 私はそう言ってVサインをしたいくらいだったのだが、ルーカス先生はさっさと外に出てしまっていた。なおVサインがナチスドイツを倒してヨーロッパに平和をもたらそうというキャンペーン的な意味で、ピースサインと言われるようになるのはもう少し後のことになる。


「置いていくなんてひどいです」


「ついてこいとは言ってない」


 ルーカス先生は冷ややかな目で私を振り返った。


 先生にとって私は本当に邪魔なんだろうか……そう思ってしまったが、ルーカス先生の歩幅が普段より小さいことに気付き、私のテンションは一気に上がった。


 少し歩いて電気屋さんが見つかり、ルーカス先生は適当な延長コードを買った。


「私が使うんだから私が出しますよ」


「余計な出費だ」


 それだけ言ってルーカス先生は帰路につく。


 むう。せっかくオシャレしたのに何も言ってくれないのが悔しい。


 私は立ち止まってお店のウインドウにうっすらと映る自分の姿を見つつ、スカートの裾を上げる。


 私が立ち止まったことに少し遅れて気付き、ルーカス先生も止まって振り返った。


「何をしてる」


「別に?」


 自分のテンションが再び元のように、いや最初よりも下がっているのがわかった。


 私は歩き出してルーカス先生の横に並んだ。


「君は変わらないな」


 ルーカス先生は少し私に目を向け、ぶっきらぼうに言った。


「まだ子どもだとおっしゃりたいんですか?」


「いや……年相応に、きれいになったよ」


 それだけ言ってまた彼は前を向いた。


 嬉しい言葉だ。では何が変わらないというのだろう。気になる。


「もう一言!」


「……似合ってる。かわいいよ」


 満点です。そう私は言いそうになったが、ルーカス先生は続けて言った。


「君のお陰で看護師たちの私を見る目が変わった。礼を言う」


 彼は前を向いたままそう言った。どうやらラジオ受信機を持ってきたのにはこんな理由かららしい。


「清書しているだけですけどね」


「簡単なことで変わるものだな」


「全部が全部、簡単ではありませんけどね」


 彼に言いたいことは山ほどある。しかしその山のうちで一番てっぺんにあって――文字通り彼のてっぺんにあって――最大の問題はボサボサの髪だ。


「そうだ。お願いがあるのですが」


 彼の返事はなかった。


「お・ね・が・い・が・あ・る・の・で・す・が」


「聞こえている」


 くどい、と続けそうな口調だった。

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