第3話 まだ戦場じゃない
まだ戦場じゃないー1
7月10日、のちに
看護師寮の2人部屋をまだ1人で使っているので気は楽だが、ラジオがないので不便していた。ラジオ放送が始まってまだ20年経たないが、今では英国の家庭のほとんどにラジオがある。それほど裕福ではない私の実家にだってあったくらいだ。私のお給料でも無理すれば買えないこともないのだが、ロンドンに出たばかりの私には他に必要なものがいっぱいあったので、優先順位は低くせざるを得ない。
ベッドから起き上がり、窓を開ける。私が使っている部屋は3階だが、周りも高い建物なので見晴らしは良くない。この時期の英国の夏らしく、空にはどんよりとした灰色の雲が立ちこめている。窓を開けたままでいいだろうかと少し考えたが、空気を入れ換えるために開けっぱなしにすることにした。
そしてたまっている洗濯物を洗いに1階のランドリーに行く。職員厚生に力を入れているのか、この寮には電気洗濯機が3台もある。すばらしいことだ。誰も使っていなかったので、すぐに洗濯機を回し、その場でじっと待つ。
考えるのはもちろんルーカス先生のことだ。
自分でも、恋しているなあと思う。
ルーカス先生付看護師としては、絡みは何度もあり、何度目かでようやく落ち着いて今のルーカス先生を観察できた。具体的に言えば、左手の薬指に輝く物がないことを確認できたのである。30歳半ばのオランダの貴族であるルーカス先生がこの5年間のうちに結婚していても何の不思議もないわけで、露骨に安堵したあとにルーカス先生のいぶかしがる目線に気が付き、私はその場を誤魔化すのに難儀した。
ルーカス先生は今日もシフトに入っている。
先生はいつお休みをいただいているんだろう。
戦時下であっても女性の労働時間は週60時間と決められている。チャーリング・クロス病院では平日の朝8時から19時までが基本シフトだ。入院患者がいる病院なので夜勤や休日出勤もある。
しかし男性の労働時間の上限はあってないようなものだ。ダンケルクから撤退してきてからルーカス先生は1度でもお休みをとったことがあるのだろうか。少なくとも私が来てからは1度もお休みしていない。大陸での戦闘で負傷した兵士たちの処置はまだ終わっていないし、整形外科では日常生活機能を取り戻すために同じ1人の兵士を何度も手術しなければならないことも希ではない。それほど戦場での負傷は過酷なものだ。彼らのために粉骨砕身していることはわかる。しかしルーカス先生自身が倒れてはしかたがないではないか――
洗濯機が止まり、洗濯槽から排水して新しい水を入れて注ぎに入り、注ぎが終わったらまた排水して、上部の手動ローラーに通して洗濯物を脱水する。そしてかごに洗濯物を入れ、自分の部屋の外に干す。洗濯機のありがたみを感じる。
干し終わったところで寮母さんが電話だよと私を呼びに来た。誰からだろうと首を捻りつつ、1階の電話機の前までやってきた。
「お待たせしました。ストーナーです」
『寮にいてくれてよかった』
電話の主はルーカス先生だった。まさか彼から電話を貰うなんて思っていなかったので、私の手はわなわなと震えてしまった。
「どうしたんですか? 緊急事態ですか?!」
『今日は私も久しぶりに僕も非番でね。荷物の整理をしていたら、君が必要かなと思うものが出てきたものだから』
「私が必要なもの、ですか?」
なんだろう。思いつかない。
『ラジオ受信機だ。ロンドンに落ち着いてから買ったんだが、整理していたら前の住人のラジオが出てきてね。私が新しく買ったラジオより高級機だったから、そちらを使おうと思うんだ。それで私が買った方が余ったんだが、君が使うかな、と思った。それだけだ』
「なんて素敵!」
私は思わず電話機の前で跳び上がり、寮母さんを驚かせてしまった。
『ではこれから持っていくから、5分くらいで着くと思う』
「待って! 待ってください、ルーカス先生!」
『これから用事でもあるのか』
「1時間、最低1時間はください!」
ルーカス先生は乙女心をまるでわかってらっしゃらない。
『わかった。では1時間後に』
ルーカス先生は意外と物わかりがよかった。やっぱりあんまり変わっていないんじゃないかと思う。
寮母さんに驚かせてしまったことを詫びたあと、私は階段を駆け上がって自室に戻り、スーツケースからまだ出していない服を漁る。1着だけよそ行きの服を持ってきていたはずだ。
あった。タータンチェックのワンピース。
私はワンピースをかざし、ベッドの上に広げた後、窓を開けっぱなしであることに気付いて、急いで閉めてルーカス先生に会う準備を始めた。
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