戦争が始まった-5

 その日はもうルーカス先生は退勤されたので会うことはなかったけれど、一日中私は心軽やかに仕事をすることができた。


 そして翌7月3日がやってきた。


 モーガン師長が出勤すると私はいの一番にお礼を述べた。


「ルーカス先生といっぱいお話できました。モーガン師長のお陰です」


 モーガン師長は意外だ、という顔をして私に言った。


「そんな首尾よく行くとは私は思ってもみなかったよ」


「いいえ。相変わらず苦虫を潰したような顔をしていると思いますよ。でも、絶対、本当は、5年前と変わらない笑顔があるって確信できました」


 しかし私は唇を真一文字にした。


「でもちょっと自信が無い?」


「一晩経って冷静になると……」


 そう。呆れられただけなのではないかとはたと考えてしまったりして、昨夜は少し落ち込んでいたのだ。


「それは最初からそう上手くいくはずがないからいいんじゃない? 他の子たちからも要望が出ているようだし、思惑通り、リンゼン先生付にしようかね」


 モーガン師長は引継書を眺めながら私を見てニヤリと笑った。


「誰の思惑通りなんでしょうか」


 私の、とか思われているとちょっと心外だ。そこまでは考えていなかった。


「私と――たぶんリンゼン先生の」


「え! そうなんですか?」


 ルーカス先生は昨日、私を少し煙たがっていた。とてもそうは思えなかった。


「誰でも救いを求めるときがあるよ。リンゼン先生の場合、それが今で、手を差し伸べる白衣の天使がまさにアリシア、あなただったってこと、だと思うよ」


「だと、いいんですけど……」


 やっぱりちょっと自信がない。しかし初恋のルーカス先生を心配する気持ちと、私の右足を治してくださったご恩を返したいという気持ちは間違いなく私の中に強くある。


「がんばります!」


 最後に私はそう付け加え、今日の仕事に取りかかった。


 仕事はもちろん山積みだ。包帯のとりかえをしたり、レントゲン検査に連れて行ったり、痛み止めを射ったり、昼食を運ぶのを手伝ったりと、この病院の看護師は皆、八面六臂の活躍を余儀なくされる。本当に忙しい。准看護師として実習に行っていた田舎の病院とはずいぶんな違いだ。これも戦争で負傷した兵士が多く入院しているからだと分かっていた。


 ルーカス先生は午後から出勤で、また1晩、病院で宿直だった。私はモーガン師長にルーカス先生付という公式の肩書きをいただいたので、そのご報告にちょっとの合間を縫って、宿直の医師の詰め所に行った。


 詰め所のラジオのスピーカーからはクラシック音楽が流れていた。ベタにモーツァルトだ。ルーカス先生はちょうど白衣を羽織るところで、私に気が付いたあと、袖に手を通した。


「また君か」


「ご報告したいことがありまして」


 私の顔は少し得意げだったのかもしれない。ルーカス先生は苦い顔をした。


「なんだい。言ってごらん」


「モーガン師長に正式にルーカス先生付にしていただきました」


 ルーカス先生は絶句した。


「……どういう役職だ。罰ゲームか」


「私にはご褒美です」


「勝手にしろ」


 そしてルーカス先生は引継書のバインダーを手にして、私を無視して詰め所から出ようとした。そのときラジオのスピーカーから緊急ニュースが流れた。


 それはドイツ空軍ルフトヴァッフェが、ブリテン島南部のドーバー海峡に近いマンストンの英国空軍RAF飛行場が爆撃されたというニュースだった。ドイツ空軍ルフトヴァッフェは、ドーバー海峡の船舶を攻撃するだけでなく、ついに英国本土に爆撃を開始したのだ。これはもう英国までヨーロッパ大陸の戦火が飛び火したと言わざるを得ない、第一次世界大戦のときに飛行船で空爆されて以来の歴史的転換点だ。


 私は不安げにルーカス先生に目を向けた。


 ルーカス先生は固く目を閉じ、囁くように祈っていた。


「――神よ。どうか我らをお守りください」


 神が特定の国や人を救わないことは、これまでの戦争で誰もがよく知っている。


 それでもルーカス先生と私は神に祈らずにはいられなかった。

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