戦争が始まった-4

「促成課程で1ヶ月早く看護師学校を卒業したんです。そして陸軍に召集されてここに配属されたってわけです。それにお手紙に書きましたよね? 私は看護師を目指して、ルーカス先生と同じ世界で働きたいです、って。それとも読んでくださいませんでしたか?」


 私は自信なさげに上目遣いでルーカス先生を見た。


「――いや。読んだよ。貰ってから大分経ってからね。そうだ。やはりいきなりカーテンを開けるのは感心できないな。日光を嫌がる患者も少なからずいる」


「ルーカス先生はそんな患者さんではありませんし、お日様もお好きでした」


 するとルーカス先生は苦い顔をした。


「もう5年も経っているんだ。変わっているかもしれないだろう」


 それはあり得ることだともちろん思ったが、そして自信は全くなかったが、それでも私は自信があるように、それもたっぷりあるように装って応えた。


「いいえ。ルーカス先生はぜんぜん変わっていません。私には分かります」


「いや、変わっているさ。見て分かるだろう? そういう問題ではない!」


 おそらく頬の引きつった傷のことを言っているのだろう。この症例は医学書の写真で見たことがある。おそらく爆弾の破片を受けて皮膚の断裂が生じ、どうしようもないくらいぐちゃぐちゃになったのだ。縫合しただけでは、引きつってしまい、醜い跡が残る。表情筋にも影響が出て、人相だって変わる。だけど。


「やっぱりちっとも変わっていません」


 私が笑顔で再び断言すると、ルーカス先生は黙りこくった。


「……気分を害されましたか」


「いや。さっさと指示書を書き終えようと思っただけだ」


 そしてルーカス先生は無表情で再び机に向き直った。


 私は執務机の正面に戻り、ルーカス先生がペンを止めるのを待った。数分後、ルーカス先生はペンをペン立てに戻して私にレポート用紙の束を渡した。


「何か気になることがあったら言え」


「字が汚くて読めないところが多すぎます」


「なんだと!?」


「これじゃ評判が悪いわけです」


「看護師どもの評判など知ったことか」


「看護師の協力なしに病棟が回るはずがないでしょう。そんなことが分からないルーカス先生ではないですよね」


「看護師なんていなくたって僕たちはやってきた。ここは……」


 そこまで言ってルーカス先生は言いよどんだ。


「ここは、ロンドンだ」


 そうです。ここはまだ戦場ではないんです。


 私はその言葉が喉の上まで出かかったが、こらえることができた。6月上旬に2度、ドイツ空軍ルフトヴァッフェの本土爆撃を受けていたが、それ以降はまだドーバー海峡の空が戦場になるに留まっていた。スペイン内戦だけでなく、ヨーロッパ大陸での戦いでも負け戦を生き抜いてきたルーカス先生には、少なくとも銃後のロンドンでは、少しくらい肩の力を抜いて、気を緩めて欲しいと私は思う。だからこそ戦場という言葉を私は口にできなかった。


 ルーカス先生は何かを――おそらく過去の何かを固く握りしめるように拳を作った。やり場のないそれはいつまでもルーカス先生の中にあるのだろうか。私はそう思うと悲しくなった。そのこと自体ももちろん悲しいことだが、自分が彼に何もしてあげられないことも悲しかった。


「読めない字を教えてくれ。書き直す」


「私が書いた方が早いですよ。座ってもいいですか」


「……ああ」


 私は執務机前の丸椅子に腰掛け、レポート用紙を机上に置き、白いレポート用紙をもらい、ペンを手に取った。


 そして読み上げながらペンを走らせ、読めないところはルーカス先生に聞いた。読めない単語は十数カ所に及んだ。


「ほら、きれいになった」


「君は字もきれいだったんだな」


 ルーカス先生は硬い表情のままそう言ったが、どことなく昔の笑みを思い出しているようにも思われた。


「ところで君をここに寄越したのは誰だ?」


 ルーカス先生はかなり不機嫌そうに私に聞いた。


「モーガン師長です」


「彼女か。彼女には一言二言言っておかないとならんな。促成栽培の新米看護師を僕の所に寄越すなんて、職務怠慢だ」


「あら、私は彼女にとっても感謝してましてよ」


 私は自然に自分が微笑んでいることに気が付いた。


「どうして?」


「だってこんなにいっぱいルーカス先生とお話しできましたもの!」


 そして私が書き直したレポート用紙――ルーカス先生から看護師への指示書を手にして立ち上がった。


 ルーカス先生はそっぽを向き、小さなため息をついた。


「下がってくれ」


「かしこまりました」


 私は深々とお辞儀をして詰め所をあとにしてドアを閉めると、快哉の声を上げた。


「やった! 勝った!」


「聞こえてるぞ!」


 ドアの向こうからルーカス先生の怒号が飛んできたが、私は軽い足取りでナースステーションに戻っていった。


 私が笑顔でナースステーションに戻ってきたものだから、先輩看護師のみなさんは目を丸くして、私が書き直した指示書を見てまた更に目を丸くした。


「これすごい! やったね! ミス・ストーナー!」


「見かけによらず、押しが強いんだね!?」


「かわいいからって甘くなってるんでしょ。リンゼン先生も所詮は人の子ね」


 先輩看護師たちの感想はどうあれ、私はどうやらファインプレーをしたらしい。彼女たちはごにょごにょと話しをしたあと、モーガン師長に私を「ストーナー先生番」にしてもらうようお願いするつもりだと私に言った。


「任せてください!」


 私にとっては願ったり叶ったりだった。


 昔のように朗らかで素敵なルーカス先生だったら嫉妬の対象になる可能性だって大いにあった。しかし今のルーカス先生は看護師にとって気難しい厄介者だ。今の私はようやくネコの首に付けることができた鈴なのだ。


 それでもいい。ルーカス先生との接点が増えるのなら、こんなに嬉しいことはない。私は自信がなかったが、その後の応対からやっぱりルーカス先生は変わっていないと心の底から信じられた。私に何ができるでもないだろうが、できる限りは側にいてあげられるようになるかもしれない。


 私は心の中だけで大ジャンプした。

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