私の初恋-2
「私、まだまだ歩けますよ」
彼が私の足を気遣って立ち止まったのだと私は思った。しかし彼は笑顔で私の表情を窺って聞いてきた。
「じゃあ、寄り道していかない? せっかくロンドンに来たのに、すぐに病院じゃつまらないだろ? 僕もまずは見に行ったんだ。君が見ないのはないかなと思うよ」
「寄り道、ですか?」
「ほんの数百メートルさ」
「ナショナル・ギャラリー? ビクトリア公園? ホワイトホール? トラファルガー広場?」
私は近辺の名所を続けて言い、最後にルーカス先生の反応があったので止めた。
「正解。トラファルガー広場!」
「ナショナル・ギャラリーに行きたいなー!」
「それはリハビリの時にお散歩プランに入れておくよ」
「術後のリハビリですよね?」
「うん。よければ僕も一緒に見たいんだ。ナショナル・ギャラリーには行ってないから」
「そういうことならおつきあいしますよ」
「じゃあ約束ってことで」
ルーカス先生はニイとまぶしい笑顔を私に向けて、方向転換してまた歩き出した。これから長い入院生活だ。その前に少しでもロンドンを見せてあげたいと思ってのことだろう。
地下鉄の駅から歩いて100メートルくらいでトラファルガー広場に到着する。広場の周りの交通量は激しく、ひっきりなしに有名な2階建てバスや乗用車にトラック、そしてたまに馬車が行き交っている。
広場には有名なネルソン記念柱がある。トラファルガー海戦の勝利を祝って建てられた建造物だ。高さ50メートルくらいの花崗岩の柱で先端にネルソン提督の像が、基壇に2頭のライオン像がある。
「うわあ。写真通り」
「それはそうだ」
多くの観光客が散策する中、私とルーカス先生はネルソン提督のご尊顔を見ようと見上げるが、仰角がつきすぎて見えない。少し離れてようやくお顔が見える。
「おおきいー!」
「すごいね。トラファルガー海戦の勝利がイギリスにとって大きな歴史的転換点だった証拠だね」
「それはそうですよ。絶対に学校で習うんですから!」
「そうだろうねえ。でも、戦争はない方がいいんだよ」
そういうルーカス先生は少し真面目な顔になっていた。イギリスはドーバー海峡でヨーロッパ大陸と隔てられているが、今、ドイツではナチ党が政権を握り、とにかくきな臭くなっている。また戦争になる、と言う人も多い。
「すみません。私、戦争を知らない世代なので……」
「そうだよね。年齢差を感じる」
「まだまだお若いじゃないですか」
「はは。28歳だからね。君とは10歳以上歳が離れてる。すぐに30歳になってしまうよ。若い時期なんてあっという間に過ぎる」
そう言いながらも歳をとるのはそんなに悪くないと思っているのだろう、また笑顔に戻るルーカス先生だ。本当に笑顔が素敵だと思う。
ルーカス先生は私を噴水の淵に座らせると、待っていてと言った。そしてたまたま通りがかったと思われる、前がワゴンになっている自転車を呼び止め、その方へ少し歩いてから私を振り返った。
「何か食べる?」
自転車のワゴンにはいろいろな軽食が載っていた。どうやら売り物らしい。
「え、いいんですか?」
「当然おごるけどさ。プレッチェルでいい?」
「はい、もちろん」
なんかデートみたいだ。したことないけど。
空は快晴でお日様が高く昇っていて、外に座って待っていても寒いことはない。視線だけで彼を追いかける。屋台で店主と話をしている彼は、どんな風に見られているんだろう。恋人を待たせてるなんて思われてるかも。日差しで暖かいどころか熱くなっている気がする。
ルーカス先生はチョコがかかったプレッチェルを2つ買ってきて、1つを私に手渡した。
「うわあ。外で食べるなんて初めて」
「どんなお嬢さまなんだい?」
「住んでいるのが田舎なのでこういうことができるところがないんです!」
「あ、そりゃ失礼」
そしてルーカス先生は私より先にプレッチェルを頬張る。
「カロリーが高そうな味」
「では遠慮なく」
油でかりっと揚げられて、チョコ風味がふわりと口の中に広がる。
「美味しい! プレッチェル初めて食べました」
「プレッチェルもない田舎だったと」
「悔しいけどそうです」
田舎の村にドイツの菓子などあるはずがないだろう。
「なあに。ロンドンにいる間にいろいろ経験すればいいさ」
そしてルーカス先生は私の隣に座って、プレッツェルをちまちま食べ始めた。最初の一口とずいぶん食べる大きさが違うのはきっと私の食べる速度に合わせてくれているからだと思う。いろいろ気を遣って貰って申し訳ない。それでも私は自分のペースでプレッツェルを食べ終えた。そしてほぼ同時にルーカス先生も食べ終える。
「じゃあ行こうかね」
ルーカス先生はパンパンと両手をすりあわせてプレッツェルの滓を払い、私のスーツケースのハンドルを握った。まあ、後で拭くからいいけど。
トラファルガー広場から歩いて200メートルほど。ルーカス先生は私に言った。
「ここが君の人生が変わる場所だよ」
4階建ての白い大きな建物の入り口に「チャーリング・クロス病院」とプレートが掲げられていた。
「ここがワトソン先生の……」
「まだ言うか……」
ルーカス先生は苦笑した。
病院に入った後、受付で簡単に入院手続きを済ませた。そしてルーカス先生は事務の人に私を託して去って行こうとしたのでちょっとだけ引き留めた。
「先生、今日はありがとうございました! とっても楽しかったです!」
「いや、また後でハーレン先生と一緒に病室に行くから」
「なんだ、もう今日は会えないのかと思ってお礼を言ったら損しちゃった」
恥ずかしい。顔が真っ赤なのが分かる。
「いやいや、お礼は何度言われてもいいものだ」
ルーカス先生も少し頬を赤くしているようで、逃げ去るように廊下の奥に消えていった。何せ背が高いので、消えるまでに少し時間がかかったけど。
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