バトル・オブ・ブリテン・ロマンス 初恋のお医者様を追いかけて看護師になった私が、戦火を越えて彼と結ばれるまでのお話

八幡ヒビキ

第1話 私の初恋

私の初恋-1

1935年4月 


 4月はグレートブリテン島の大半がまだ肌寒い時期だ。しかし木々の緑は活力を増して生き生きとし始め、生き物たちも活発に活動を始める季節でもある。


 そんな季節、信じられないような出来事が人生には起きるものだと17歳の私は期待に胸を躍らせて、電化された車両から地下鉄のホームに降りたった。


 家から馬車で2時間かけてバーミンガムへ、そしてバーミンガム発ロンドン行きの始発の汽車に乗り込み、揺られること4時間。そう、出発からたった6時間後に私は大都会ロンドンに到着していた。バーミンガム郊外の、男爵家とは名ばかりの農場の娘が、1人はるばるロンドンまで来たのには理由がある。私のこのかわいい右足――私がそう言い張っているだけの弧を描くように曲がって育ってしまったこの右足を、ほかの女の子と同じようにチャーミングにまっすぐにしてくださるという稀代の名医にお会いしに来たのである。


 その名医は、新たに開発した術式を医学生に教えるために、ドーバー海峡を越え、はるばるオランダのロッテルダムからロンドンに来たという話で、なんでも私の右足の症例がその術式を学生に見せるのに最適らしく、手術してもらえることが決まったのだ。


 なんという幸運。


 これ以外にもさまざまな幸運が重なったのだが、なんと言ってもその中でも1番は今、目の前にいる長身の若いお医者様とお知り合いになれたことだと、後々私はつくづく思うことになる。


 そのお医者様は私が入院する予定の、チャーリング・クロス病院の最寄りの地下鉄の駅の改札口で「ようこそ アリシア」と書かれたボードを手にして立っていた。決して美形ではないが人なつっこい笑顔の、ひょろりと伸びたひまわりみたいな素敵な青年だ。茶色の髪は清潔感があるように短くして、白衣を着ているところから私はお医者様だと判断したのだが、病院から迎えが来てくれると聞いてはいても、まさかお医者様が出迎えてくださるとは思っていなかった私は、かなり素っ頓狂な声を上げてしまった。


「まさかお医者様が私のお出迎えを!?」


「そうだよー かわいいお嬢さん。白衣は目立つでしょう?」


 彼は大きなスーツケースを引き摺っている私を見下ろし、にっこりと笑った。確かに待ち合わせならば目立った方がいいかもしれないが、びっくりだ。少ししてようやく我に返り、私は自己紹介をする。


「は、初めまして! 私、アリシア・ストーナーと申します」


 そして深々とお辞儀をした。


「僕はルーカス・ファン・リンゼン。ハーレン先生の一番弟子なんだ。今日は先生に言われてね、君をこうして待っていたんだけど、ずいぶんな役得な気がするよ」


 ルーカス先生は興味深げに私の顔をのぞき込んだ。かわいい笑顔が近づいてきて、私は彼の瞳をまっすぐ見られなくて俯いて目をそらしてしまった。


「そんなに褒めても何も出てきませんよ。バーミンガムのお土産をご期待されていたかも知れませんが、荷物が多くてそれどころではなかったので」


 私はそう言い終えてルーカス先生の様子を窺おうとチラリと上を見た。するとまだかがむようにして首を傾げていて、近くで目が合ってしまった。


「別に褒めてないよ」


 ルーカス先生はニコニコと笑い、私のスーツケースのハンドルバーに手を掛けた。


 褒めてないとはどういう意味だろう。私が考えているうちに先生は続けて言った。


「君は長旅で疲れているだろうから荷物は僕が持つよ。お嬢さん」


 そして彼はやや乱暴気味に私からスーツケースを奪った。


「ありがとうございます」


「素直でよろしい」


 ちょっとアクセントが違うのはたぶんルーカス先生も、彼の師匠で、私の執刀医になってくださるリンゼン先生と同じオランダの出身だからに違いない。


 ルーカス先生にスーツケースを引いてもらい、私は改札口の前から歩き出す。ルーカス先生は地上に出るエスカレーターに乗るまで、私のことを頻繁に振り返った。彼が私の歩き方を観察しているのだということはすぐに分かった。


「それじゃ歩くのも痛いだろう」


 背が高いルーカス先生にエスカレーターの上の段から見下ろされると本当にものすごく見下ろされた感がある。


「ええ。少し痛みますけど、物心ついたときからこの足と友だちですから、どうということはないんですよ」


「はは。作文に書いてあったとおりだね」


 ルーカス先生は微笑んだ。


「先生もお読みになったんですか!?」


 私は自分の頬が熱くなるのを感じた。作文というのはこの手術を受けるきっかけになった、中学生の時にコンクール用に書いた作文のことだ。何年も経ってからこんなことになるなんて、中学生の私はもちろん思ってもみなかったのだが、運命が動き出してしまったからには仕方がない。


「うん。ハーレン先生に読んでおきなさいって言われて渋々読み始めたんだ。でも、読み始めたらすぐに面白くなって、速攻で読み終えてしまった。こんな文章を書く女の子はどんなに素敵なんだろうかって心が躍った」


「先生! 後ろ!」


 エスカレーターの終点が近づいていた。


「おおっと!」


 エスカレーターが終わり、ルーカス先生は慌ててエスカレーターを降りて乱暴にスーツケースを引っ張った。しかし私がエスカレーターから降りてもまだ彼はその場にいて、私は彼とスーツケースを避けようとして倒れこみそうになる。そんな私を彼は軽々と抱きとめて、よいしょと私とスーツケースをエスカレーターの脇の壁際に置いた。後続のエスカレータの乗客には邪魔にならなかったようだ。よかった。


「ごめんごめん。はしゃぎすぎた」


 ルーカス先生は嬉しそうに笑う。私は彼に抱きかかえられたときの温かさと腕の力の強さに少しほーっとしてしまった後、我に返って言った。


「……何をそんなにはしゃいでるんですか?」


 私にはルーカス先生が言っている意味が良くわからなかった。


「ふふ。内緒」


「さては変な作文を書いた変な女の子を確認できてご満足しましたね?」


 ルーカス先生が私を見て面白がっていることだけは分かる。


「そんなこと一言も言ってないよ」


 言われなくても分かります、と言うのを私は抑えた。彼は真顔でそう答えていたからだ。じゃあ、なにが彼をそんなにはしゃがせているのだろう。謎だ。


「納得していない顔をしているけど、そろそろチャーリング・クロス病院に行こうか」


「はい! 大きな病院と聞いています。それにとっても有名な病院ですし、見るのがとても楽しみです」


「楽しみなんだ?」


 ルーカス先生は苦笑し、私のスーツケースを引っ張ってくれた。少し前を進んで、私を振り返る。歩幅が違うこともあるだろうが、私がひょこひょこ歩いているのが気になるからだろう。私は気が付いていないフリをして答える。


「はい。だってワトソン先生の出身病院ですよ!」


「ワトソン先生?」


「シャーロック・ホームズのお友だちの!」


 まさかシャーロック・ホームズを知らない人がいるなんて思わなかった。


「ああ。人気小説の。そう。イギリスの人はみんなシャーロック・ホームズが好きなのかなあ」


「だいたいの人は好きだと思いますよ」


 私は誇張して言ったが、大ベストセラーなのは間違いない。各国語に翻訳されて世界中で読まれているのだから、そう間違いでもないと思うのだ。


 そしてルーカス先生はちょっと立ち止まった。

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