時化
名桜
時化
あの日のこと、誰にだって一度はあったのだろう。
お気に入りのお菓子やアニメのキャラクターが並ぶ棚の前で、母に「買って、買って」と駄々をこねた、幼い日の自分。
きっと、そんな瞬間は誰にでも。
無邪気な欲求と、どうしても手に入れたかった小さな幸せ。
時が経っても、心の奥底では何かを強請り続けている。
大人になった今でも、欲しがることは止まらない。
私は昔から、そういう人間だった。
記憶も曖昧な頃から、無意識に母の胸に脈打つ蜜を欲した。
満たされるたびに、唇に残る甘さが体中に広がって、痺れるような安心感に包まれていた。
母は「まあまあ、食いしん坊さんね」と優しく笑って、私はその温もりに包まれながらさらに貪った。
愛されることに貪欲だったあの頃の私。
あの小さな私にとって、あの瞬間は果たして、幸せだったのだろうか?
少し成長した私は、友達がかけていた新しいメガネを欲しがっていた。
あの子が見ていた世界が、私の見ているものと違っていたんじゃないかと、そんな不安と憧れが心に浮かんだ。
そのレンズ越しに映る夕焼けは、私の見るものよりももっと鮮やかに燃える赤だったのだろうか?
やがて、自我が芽生え始める頃、私は「幸せな家庭」が欲しかった。
母も父も、私に惜しみなく愛を注いでくれた。
何不自由ない日々だったのに、私はお隣の家のような光景を心に描いていた。
贅沢な望みだと、きっと怒られてしまうだろう。
与えられた愛に満足できない自分が異常なのか、それともただ平凡に飽きて刺激を求めていただけなのか。
それすら、今ではもうよく思い出せない。
ただ、服に隠された古い傷だけが、その感情を今も覚えている。
ある時、人生の選択肢を前にして、私は力を欲していた。
世界を征服するような大それた力ではなく、もっと小さな、けれど私にとっては絶対的なもの。
誰よりも優れていたかった。
現状を覆せる、そんな力があれば、私もきっとあの子のように輝けたはずだと信じた。
でも、努力では手に入らないものがあると知った。
結局、現実の壁に阻まれて、力を手にすることはなかったけれど、それでも私の中には、どこか燻っているものが残っていた。
甘いチョコレートをたくさん食べても、あの心の隙間は埋まらない。
誰かに褒められたって、趣味に没頭しても、何かが足りない。
忘れるくらい夢中になった恋愛でさえ、心の奥に残る虚しさを消してはくれなかった。
今の私を満たしてくれるものは、一体何なのだろうか。
カッ、カッ…時を刻む音に、私は現実に引き戻された。
それはまるでメトロノームのように規則正しく、無機質で、私の頭の中にこびりついた過去の記憶と重なり合う。
ふと、口から漏れたトロイメライ。
無意識に口ずさんでいた、甘く、懐かしい旋律が、私を過去へと誘う。
夢と現の境界線で、心はどこか遠いところへと飛んでいる。
隣に横たわるのは、狂おしいほどに想い焦がれ、夢にまで見たあの子。
彼女がここにいるという事実が、私の心を満たしている。
あの誰もが虜になった
私のために、ここにいる。
それが嬉しくて、自然と口元に微笑みが浮かんだ。
でも、まだ足りない。
甘いはずのこの瞬間が、まるで蜂蜜のように舌に絡むのに、どこかで何かが欠けている。
「ああ、でも、まだ満たされない…」
無意識に呟いたその言葉に、あの子が微かに動く。
「起きてるんでしょ、レイ」
「……バレてた?」
「うん、バレバレ。」
優しく、するりと彼女の腕が私の首に巻き付く。
その柔らかな感触に、私は答えるように彼女を強く抱き締めた。
彼女の鼓動が胸の中でリズムを刻み、私を昂ぶらせる。
その音が私の欲望を煽り、彼女をもっと、もっと手に入れたくなる。
彼女は小鳥のようにか弱い。
そんな彼女を、この腕の中で壊してしまいたいくらい、私のものにしたいと心の奥で本能が囁いている。
甘美で濃密な欲望が、胸を締め付ける。
私は、なんて強欲なんだろう。
自分には持っていないものを、彼女はすべて持っている。
その全てが、欲しくて、堪らない。
ああ、狂ってしまいそうだ。
一瞬だけじゃ足りない。
彼女の全てを、この瞬間だけじゃなく、永遠に手に入れたい。
彼女の存在も、心も、そして彼女の世界すらも、私のものにしてしまいたい。
「貴方の世界すらも、私のものにさせて。」
私の意識は、蜂蜜のような時間に呑まれていった。
時化 名桜 @Rein_Feil
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