第六話 家族の再会を境に、物語は一気に加速して行く
「室内犬にするか?外犬にするか?」
家に犬を迎え入れた一家の全てに巻き起こる論争だろう。死者が出ない事を祈りたい。アカネ家の総人口は二人、もしかしたら意見が分かれてしまって内部紛争に突入してしまうかも知れないが、如何やらソノ心配は無かった様だ。評決は圧倒的な『二対〇』。ペロは見事に“室内犬”の権利を勝ち取った。家に帰る前に皆はペット屋に立ち寄って、ペロの生活に必要な最低限の物を購入した。イチロウは勿論の事、アカネにとっても動物を飼うのはコレが初めての経験。父親の提案で「書店にでも寄ってさ、犬の本でも買ってみたらどうだ?」これをアカネは速攻で拒否。
「お父さん?本を描いた作者が紹介する実例の成功法則が、其のママ私に当て嵌まるか何て分からないじゃない?だから私には必要無いわ。私とイチロウで色々試してみた方が成功を見付けた時の感動も大きいし、逆に其の方が私達も学べるもの。」
ウンウン、そうかそうか..車を運転する父親は頷いた。
家に戻って来たのは午後十三時過ぎだ。保健所に居る時から、既に腹を空かせて居た一同。今迄だったらフラリンコ、其処いら辺の飲食店に寄って昼食を済ませて居たが、其れは過去の話。ペロを車内に置き去りにして、人間達だけで食事を摂る事にはチト罪悪感が在ったアカネ。
「お父さんお母さん、このママお家に帰りましょ?お家に着いたら私が軽く何か作るから。」
ウンウン、そうかそうか..車を運転する父親は頷いた。阿吽の呼吸か?ウンウン、そうねそうね..後部座席に座る母親も同時に頷いた。
早速、家に着いたイチロウがペロを引っ張って向かった先は風呂場。ミソノの説明では、ペロは劇的に不細工な顔面以外は健康体そのモノ。食欲排泄愛嬌ともに感度良好ビンビンビン。数年に一度しなければいけない狂犬病の注射も期限内、去勢も済んでるとの事。だが保健所から引き取った保護犬は、稀に“ケンネルコフ”と呼ばれるチト厄介な疾患を発病する事が在ると聞かされた。その予防策として、先ず家に着いたら、ペロの全身を風呂場で念入りに洗う事をミソノから御願いされて居たアカネ。浴室に入ったイチロウとペロ、イチロウは早速ペロの首輪を外して、シャワァの栓を勢い良く捻った。この間、アカネは台所で昼食の準備に取り掛かり、アカネの父親は車内からペット屋で購入したペロの備品を家の中に搬入。幼いイチロウの熱湯捌きを監視するのはアカネの母親。子供が故にシャワァの熱加減がチト心配。ペロがやって来て早々、全身熱湯ヤケドなどされたら居た堪れない。浴室の開け放った戸の縁、渋い表情、腕組みをしてイチロウ達を見守る鬼監督ことアカネの母親。雰囲気を醸し出す為にアカネの野球帽を頭に装着。
(この熱さだったら、きっとペロは気持ち良いワンっ!って思う筈だもん..)
何度も何度もシャワァヘッドから噴き出す水の温度を、右手でペロの首根っこを抑えながら、左手の甲を犠牲にしては温度調整を計るイチロウ選手。烈しい熱湯猛練習のお陰でスッカリ甲は真っ赤っか。
「待ちなさいイッちゃん!」
自分の感覚を信じて、シャワァヘッドをペロの背中に浴びせようとしたイチロウを、アカネの母親は制した。イチロウ同様、裸足になって待機して居たアカネの母親は、浴室に入っては其のイチロウが善かれと思う熱の加減を自身の右手の甲を翳して実体験。アカネが赤ん坊の時の記憶が脳裏に蘇る母親。自身も何度か手の甲を火傷した経験が在る、だからこそ孫のイチロウにも敢えて火傷をして感覚を覚えて欲しいお婆さん。軽度の火傷は直ぐ消えるが培った経験は一生消えない。
「ウンっ良いわ、イッちゃん。ペロを綺麗きれいにチャンと洗ってあげなさい、シャンプゥ(犬用)の泡を身体に残しちゃ駄目よ?」「ウンっ大丈夫ゥ!」
イチロウにとって、自分以外の身体を洗ってあげるのは父親のゴロウ以来の事。ゴロウの背中は大きかったが平たかったが故に楽に洗えた。このペロの体躯はゴロウに比べても極小だが胴長。全身ともなるとチト厄介者、洗うのが難儀だ。シャワァのぬるま湯の熱波も関係して居るが、何時の間にか額に汗を掻いて居るイチロウ、表情も真剣そのもの。今日マサカ犬を洗うとは予想だにして居なかったイチロウ。ペット屋で購入した“蚤取り成犬用シャンプゥ”を、アカネの母親の指導で適量にペロの全身に塗り、その後暫くは皮膚に馴染ませ為に優しく全身マッサァアヂ。
「クぅぅぅん..」
思わずペロも快感で悶える程の神がかった阿修羅イチロウの手捌き。千本もの腕がペロの全身を優しく、そして隈なく愛撫。徹底的に全身を洗われるペロの身体からは、絶え間無く汚なく濁ったお湯が垂れ落ちる。ペロの黒歴史。浴室内の床は、そんなペロの汚れた汚染水で灰色に染まる。ペロが長年過ごした保健所の職員達は、全ての動物達を愛情込めて平等に扱って居たが、愛情には限界が在る。これが其の証拠、汚れたお湯。一生懸命にペロを洗うイチロウを見詰めながらと同時に、この汚れたお湯を見てアカネの母親は心が折れる。
「イチロぉ、どォ?ちゃんとペロ洗ってあげたァ?お昼御飯が出来たわよォ!」
浴室に向かって、台所からアカネが吼える。
「ウンっ、もお少しで終わるうゥ!」
手際良くアカネは数品の料理、そして炊き立ての御飯を完成させて居た。敢えて味噌汁は食卓には無い。味噌汁は昼食には合わない。アカネの父親は色々と買い込んだペロの備品等、既に搬入し終えて食卓に既に鎮座の構え。
「ペシっ!」「イテっ」
「もぉ駄目よオ父さん、摘み食い何かしちゃッ!イチロウが真似するでしょ!」
食卓に並ぶ地鶏の唐揚げを、一個摘んで盗み食いしようとしたのがアカネにバレて、容赦無く手の甲を叩かれた糞ジジイの父親。年齢本名不詳。永遠の少年。
アカネの母親が先ず脱衣所からヤッテ来た。其の後で全身がグチョグチョに濡れたイチロウとペロが台所に登場。如何やら唐揚げ芳ばしい匂ひに誘われてヤッテ来た様だ。
「もぅ駄目っイチロウ!ちゃんと脱衣所で身体を拭いてから戻って来なさい!」
と言いながらもアカネは寝室に行き、箪笥から大きなバスタオルを一枚持って台所に戻って来た。其処で最初に全裸のイチロウの身体を拭いてやり、其の次にペロの全身を隈なく拭いてあげた。スッカリ全身から水分が抜け切ったかと思われたペロ「ブルっ、ブルブルブルブルっ!」全身を震わせ、体外に残って居た水分を搾り出す。そして案の定、飛沫が食卓に座って居たアカネ以外の全員に飛び散る。アカネ何かは諸に飛沫の洗礼を浴びる。
「モぉイヤぁペロったらァ!駄目じゃナァイこんな所で身体を震わせちゃ!」
アカネが思わず叫ぶ。アカネがコンナ無邪気な気分になったのは何時振りの事だろうか?このアカネとペロの遣り取りを見て、両親も思わず爆笑。当のペロは、イチロウが座る椅子の床の真横に蹲み込んでは優雅に欠伸。そして如何やら疲れてしまったのか?真新しい環境に未だ慣れ無いのか?何方にしても悪い疲れでは無い、何時の間にか鼾を掻いて床上で寝てしまった。この昼食は一家にとっても、ゴロウが亡くなって以来の久し振りに会話が弾んだ愉しい一時となった。その原動力はペロ。この一匹の犬の登場が、其れまで一家が隠し持って居た“闇の部分”を完璧に払拭、一掃。息子のイチロウに嘗ての笑顔が戻って来た様な気をアカネは感じ、母親のアカネに嘗ての笑顔が戻って来た様な気をイチロウが感じ、
(ウンウン、そうかそうか..)(ウンウン、そうねそうね..)
其の二人の表情を眺める両親にも笑顔が。新しい家族の登場に、アカネとイチロウだけでは無く、彼女の両親もチト気になるのか?昼食を摂りながらも、頻りとイチロウの足下で横たわるペロを何度も確認する。
「じゃぁアカネ。お父さん達はソロソロ帰るから。又来るよ。」
昼食を摂り終えたアカネの父親は、妻と一緒に車に乗って去って行った。其の時も相変わらずペロは食卓の床で熟睡、鼾を掻いて全く起きる気配は無い。本当ならイチロウも、アカネと一緒に玄関口に居る二人を見送りたかったのだが断念。自分が席を立ったらペロを起こしてしまうのでは?長年、保健所の狭い檻の中で生きて来たペロ。もう目の前には柵は無く、この広い家の何処を歩いても叱られる事は無い。久し振りに浴びた心地良いお湯の行水、そして何よりも自由。保健所の狭い世界が全てだと洗脳されて居たペロ。今は只寝かせてくれないか?
両親を見送ったアカネが食卓に帰って来た。「しぃぃぃ..」成る可く音を立てずに椅子に座って居たイチロウを胸に抱き抱えたアカネ、片付けは其の儘にして置いて、イチロウを抱いたまま居間に行った。居間にはアカネの父親が車から運んだペロの備品の数々。其れ等を一つずつ開封しては、相談し合いながら所定の位置を収めて行く。其れは例えば食器の位置だったり(食卓の横で意見は満場一致)、首輪とリィド紐の場所だったり(家の中では首輪はしない事に決めた)。二人の一番の関心はペロの寝床。これ以上大きくならないと保健所で聞いて居たアカネ、今のペロの体型に合わせた、フッカフカの犬用布団を購入。
「僕の部屋ァ、お母さん!」
透かさずイチロウが挙手。一匹ぼっちで寝かせてはチト可哀想だと、初めは自分の寝室にしようと考えて居たアカネだったが、生態系の生き方を直に学ぶ事も立派な教育の一つかも知れない..アカネはヤル気満々の息子にペロを託す事を決めた。
「イチロウ、良い?ペロと一緒に居る時はシッカリ観察する事。ペロは言葉を話せないから、痛いとか哀しいとかイチロウには絶対に分からないの。ちゃんと見れる?お母さんと約束出来る?」
「ウンっ、大丈夫う!」
イチロウは齢三歳にして、既に自分の城を持つ若き主人。彼に部屋を与える事を決めたのはゴロウ。この一軒家を購入した時からイチロウには個室を与えて居た。理由はイチロウの自立心を養う為。自我が芽生え、気が付くと毎晩一人で寝て居た記憶が残るイチロウ。両親から阻害されて居たと云う解釈は一切無く、至極当たり前の行為だと認識。ゴロウの教育方針大成功。早速ペロの布団を両手に抱えて自室に駆け込むイチロウ、其の後を眼を覚ましたペロが追う。イチロウはベッドの隣り、真下にペロの布団を置いた。だがコノ布団の上でペロは寝た事実は一度も無く、イチロウと常に寄り添って就寝。そしてソノ幸せな生涯を終えた事は此処だけの話。
次の日の朝から、アカネは自分とイチロウの御飯だけでは無く、ペロの御飯も作る様になった。市販の既製品には一切眼もくれず、毎食必ず手作りの御飯をペロに与えた。オヤツは未だ許せるが主食と成る御飯は別物。自分が信じる食材のみを使って、美味しくて健康にも良い御飯を食べる権利がペロにも在る筈。朝食後の後は近所の散歩が日課として加わった。何時もイチロウがペロのリィド紐を持ち、向かう先は近所の大きな公園。実はコノ公園には大きな“ドッグラン”が併設されて居て、朝夕は特に人間と犬達で賑わう。ペロがやって来る前のイチロウも、普段友達と遊ぶのも此処の公園だった。アカネとイチロウも初めてのドッグラン。正直な話、イチロウは勿論だが、アカネは犬種の事など全く興味が無く、詳しく知りたいとも思わなかった。犬は犬で、人間は人間でしか無い。だがそんなアカネをしても、このドッグランに居る犬達の全てが高級そうに見えた。ペット屋で買った犬と云うのがアカネの解釈。正解。アカネが思うと云う事は相手も思うと云う摂理。大正解。
初めてドッグランに入ったアカネは、早速イチロウにペロのリィド紐を外す様に伝え、世に放たれたペロは早速、速攻で敏速に、韋駄天走りにて芝生の上を駆け出した。其の後を追ってイチロウも駆けるが、中年犬vs三歳児の勝負が明らか..に見えて、流石は中年犬ペロ、飼い主イチロウが自分に追い行くのを待って一時停止..して居るかの様に見せて、身体に触れられる直前に再び全力疾走のペロ。甘っちょろい人間世界の解釈など獣世界には存在しない。ヤルかヤラれるかの二者択一。だが飼い主が危機に瀕した際には、自身の命など関係無くして徹底的に飼い主を守る気満々のペロ。要するに今のイチロウは、ペロに遊ばれてるのだ。広いドッグランにて、ペロに弄ばれて居るイチロウからの、負けん気が強いイチロウがペロの尻尾を掴もうとして頑張って駆けるが、ヤッパリ無理でヘトヘトのイチロウ、を微笑ましく見詰めて居たアカネ。
(これから先、もしかしたら此処で良い人間が関係が生まれるかも?)
などと良からぬ妄想を抱きながら、廻りに居た人間の一人一人に丁寧に挨拶をした。挨拶をされて挨拶を返さない人間は皆無だろう、一人の中年女性がアカネに尋ねて来た。
「あのアカネさんのワンちゃんって、何犬ですか?」
この質問に対してアカネは返答に窮した。人は人で、犬は犬。如何してコノ彼女はペロの犬種の事など気になるのか?
「ハイ、あの子は雑種犬です!最近保健所から頂いたばかりで、今日初めて此処に息子と一緒に連れてやって来たんです(このグルゥプの中の誰とも私は仲良くなれないわ)!」
完璧な社交辞令の裏でアカネは悟った。喧嘩上等。別にコノ小さな世界で孤立しても構わない。孤独マイフレンド。ペロが此処で愉しく他の犬達と遊べて幸せを感じてくれたら、其れ以上の幸福など私には必要無い。楽しそうにドッグランで遊ぶイチロウとペロの姿がアカネの視線に映る(私はペロを貰って正解だったわ..)。
ドッグランを後にして、帰宅後のアカネはココから商売人の顔に変わる。アカネの料理教室、午前の部が開始。料理教室は平日の午前と午後、一日二回に分けて催される。アカネ自身が面談を通して決めた生徒限定で、少数精鋭。生徒の子供(赤子含む)は勿論の事、生徒が飼って居る動物の同伴もアカネは大歓迎。一日二回と在るが、授業料は変わらず、両方参加も勿論可能。なので一日通しで居座る『アカネマニア』の生徒(男女)もチラホラ。勿論彼女の事を性的に見て居るのでは無く、人間性に惚れたと云う奴ね。毎回、実に教室が生物達(ヒト科と獣)で賑やかとなる。縁側越しに窓ガラスを開けて大開放される大きな庭も大人気。イチロウとペロも絶対参加の、生徒の子供達や動物達、お互い交じり合う大喧嘩。教室が終わる頃には、彼等の全身が土や泥で必ず汚れる。だがこんな彼等を叱る者は此処には居ない。生徒の中には水着を持参して、このレイヴ(泥んこフェスティバル)に参加する者(男女)もチラホラ。違法麻薬持ち込み禁止。牧歌的。回帰主義。生徒の職種(家族含む)や同伴の動物達で格差を判断する輩は皆無。ドッグランの大人達とは大違い。
———今朝もアカネ一同は揃ってドッグラン。いつ此処にやって来ても雑種犬を連れて来るのはアカネ一人。アカネが嫌な思いをするのなら、一層の事ドッグランに態々来なくとも良いのでは?否や。アカネには無い。沢山の犬達と公平且つ平和的に戯れて、ペロに社会性を養って欲しい一心のアカネ。だから全然気にしない。他人からドノ様に解釈されても構わない。私が此処に来る理由はペロの為。話し掛けられれば勿論答えるアカネだが、最近では“奇人変人”扱いされて居て、ドッグラン内で徹底的に孤立中。ドンと来い。そんな奇人アカネが見詰める変人の御子息イチロウとペロは、共に芝生の上を駆け捲るイツモの何気無い朝の日常風景。
「ワンっワンワンワンっ!」とか「ウゥゥゥっ、」とか「キャン。キャンキャンっ!」とか「バゥ!バウバウっ!」とかの擬音を、此方ドッグランの芝生の上に並べてみた。人体の鼓膜に響く、犬の鳴き声コト効果音。人によっては雑音に聞こえて、「チッ、煩ぇなあ..」感じてしまう者も居るだろう。アカネとイチロウも一応に立場は同じで、一体ペロが何を訴えて吼えるのか?チト不明の毎日を送る。
(あん時の施設での想い出は散々なモンだったけど、犬って案外悪いもんじゃ無いかも..)ドッグランで思いっ切り駆けるペロ。一緒に戯れる今ではスッカリ顔見知りになった他の犬達と「ワンっ、ワンワンワンッ!」ペロは“犬語”で対話しながら一生懸命に遊ぶ。この「ワンっ、ワンワンワンッ!」ヒト科には決して理解出来ない“犬語”。今回は特別に其の一部を御紹介しよう;
「ワンっ、ワンワンワンッ(オッスお早ぉアキラ!..ん?お前の今朝の毛並み、何か良い感じだなァ、毛ェ切ったあ?アアぁぁあ!..ハハぁん、もしかして今日ダレかと交尾でもスンのかよッ!ちッ、俺スッカリ去勢されてっから性欲全然無えでやんの!ウケる)!」
此処にやって来てからペロが一番仲良くする、生まれた年代が恐らく近いで在ろう、スタンダァドプゥドルのアキラ。雑種のペロとは比べ物にならない血統書付きの雄犬。とても捌けて居て、良い性格且つ正義感旺盛からの犬情深さ(人情深さ)を持つ備え持つアキラ。このアキラ、反吐が出る位に現在の飼い主を嫌う。
「ワンっ、ワンワンワンッ(あ、ウン彼処よ彼処。ホラ?駅前のアノ店。俺的には別に髪が伸びても構わないんだけどさァ、俺って癖っ毛じゃあん?何かウルセェのよ人間がさァ。然もさ、彼処の店の奴ラ全員揃ってシャンプウすん時に思いっ切り人力込めっからさァ、皮膚が痛いの何のって!拷問よ拷問、正に)」!」
「ワンっ、ワンワンワンッ(オっ、ヒカル姐さん?何だか格好良いジャケット着てんねぇドッグランの芝生の緑と凄く合ってんジャン!もしかして今日は若い男とデェトかい?ホントっ、ミスズ姐さんって若いの好きだよなァ)!」
これはミスズでフレンチブルドック。勿論アキラと同様に血統書付きの雌犬。彼女に失礼に当ると云う理由で犬齢(年齢)は敢えて尋ねないペロ。こんな紳士的なペロの事を気に入っては「ブヒブヒ。」執拗にペロに纏わり付いて来る。頼りになるが、チトお節介が過ぎる姐さん女房的存在。この天性持って生まれた“姉御気質”を頼っては、沢山の犬達が彼女の廻りに寄って来る。其れは(犬生)人生相談だったり、恋の相談だったり..それ故に犬脈(人脈)が非常に広い。そんな彼女を慕うペロ。だがお互いに恋愛感情は一切無い。そしてミスズ、反吐が出る位に現在の飼い主を嫌う。
「ワンっ、ワンワンワンッ(モォ勘弁してって感じ。私達って基本的に全裸じゃァん?歩き辛いしさぁ..洋服の熱で持って身体も火照って私モォ超迷惑で超イヤぁ。私の体を熱くさせるには漢の身体だけよ。ペロちゃあん、コレって在る種の動物虐待じゃなあァい?)!」
これが真実。犬達にとって、自身の犬種や身嗜みの事など全く如何でも良い事で、人間の愚かで歪んだエゴが、全ての元凶を創り出して居る悲劇。
「イチロオぉ!ペロぉッ!そろそろお家に帰るわよぉ」
充分に彼等が遊んだ事を確認したアカネは、芝生で遊ぶイチロウ達を呼んだ。イチロウに関して云えば、此処では近所の友達も居て一緒に遊ぶ。案の定、アカネの元に戻って来たペロは遊び疲れて「ハァハァ」息が切れて居る。ペロの頭を優しく撫でた後、常に持参する犬用の携帯水筒からペロに水を飲ませるアカネ。ペロは「ペロペロっ!」豪快に舐めて全てを飲み干した。「ワぁああっ凄い飲みっぷりいッ、ペロ!」改めてペロの頭を「ヨシヨシ」した後、空になった水筒をポケットに仕舞ったアカネ、「良しッ、イチロウとペロ、お家に帰よ!」
この夜も一緒にベッドで寝て居るイチロウとペロ。イチロウに背を向けて寝るペロを、イチロウが背後から強制的に抱き締めると云う、彼等独自の寝技で仲良く就寝中。ペロは気付いて居た、イチロウが偶に涙を浮かべながら寝て居る夜が在る事を。毎夜。犬は嗅覚と聴覚が異常に優れて居る生き物だ。夜中、イチロウに抱かれて寝て居る時、ペロは“涙”の匂いを嗅ぐ時が在る。そして涙と同時にペロが感知する言葉も在る。
「お父さん..」
恐らく犬で無ければ聴こえないで在ろう程の小さな呟き、その人の体臭の一部でも在る、涙の匂いをペロは背後から感じる夜が在った。偶然ペロの『意識』が眠りから覚めると何時もコレだ。背中のイチロウから発せられる些細な囁きと、幼児独特の甘ァい涙の匂ひ。人間は馬鹿だ。常に状況を頭で分析する愚か者だ。だが獣は違う、彼等は感覚で状況を感じ取る芸術家だ。人間の涙に匂いなど在るのか?悲しくて溢れ出る涙、嬉しくて流す涙、眠くて出る涙、涙と云っても色々な涙を人間は持って居る。イチロウの涙は、寂しさから流れ出て来る涙。本人の意思とは関係無く出て来る『意識』の涙。タチが悪い涙。純粋な心を持つ獣だからこそ分かる。ペロはこんなイチロウが体験する切ない夜を、幾度も此処に貰われて来てから経験した。自分がコノ家にやって来てからは、自分が幸せを運んで来た筈では無かったのか..?“お父さん..”って何だ?この家にはお父さんと呼ばれる家長は居ない、なのに如何してイチロウは「お父さん..」と囁いては啜り泣くのか..?“お父さん”と云う言葉が、何故かペロの心臓を「ギュウぅ」っと握り締める。肉体的な痛みが無いが精神的な痛みを感じるペロ。俺は犬で在って父親などでは無い。..ン?父親..?今オレ父親って言った?..父親って何だ?如何云う意味何だ、人間世界で?今この俺はイチロウに対してとても申し訳無い思いでイッパイ..そして愛おしさでマンパイ、噛み殺してやりたい位に愛してる..そんなイチロウが毎晩哀しむのを、俺には如何する事も出来ない..出来ないのか?..
「ゴロウさん?貴方はペロでは無くゴロウさんです、どうか忘れないで..」
この言葉が鮮明にペロの脳裏に突き刺さる。脳天が鋭い光線で焼かれた気がしたゴロウ。
(ゴ..ロオぉ..?ゴ..ロウ..?ゴ、ロウ..?ゴロウ..?ゴロウ?ゴロウ..、オイ?お前は一体誰だ?俺か?..そう、お前だよお前。俺?..俺の..お前の..俺の名前は.. . )
「バフウ(ゴロウ)!」
———コレは夢かマボロシか?はたまた幻想小説『ペロ』の中でのお話か?イチロウは『意識』の中で父親の声を聞いた。永らく振りに耳にする父親の肉声、側で囁かれて居るのか?吐息も肌に感じる生々しさ。既に父親を想って無意識に泣いて居たイチロウの両頬には、更に“追っ掛け涙”が滴れる。涙の二乗。涙の事情。枕は二種類の涙でグッチョグチョ。
「イチロウ..お父さんだ。御免なァ、お父さん急に居なくなってしまって..。だけど帰って来たんだ、イチロウに会いたくて、お父さん..」..誰かが自分の顔面を「ペロペロ」舐め廻す感触で眼が覚めたイチロウ。ペロのお陰で、目覚まし時計よりも早く起きては、逆に目覚まし時計を毎朝起こしてあげるイチロウ。
「ウぅぅン..お早よ、ペロ..キャハッ!モオ擽ったいよぉ朝からァ!」
「お早うイチロウ!さァ早く起きなさい」
夢などでは無いコノ新感覚新食感。耳で聞いて居るのか?『意識』の奥から聞こえて来るのか?寝起きが邪魔してチト頭が冴えないイチロウ。だがコノ声の主は紛れも無くイチロウの父親のものだった。
「お..父さん?お父さんッ!?今何処に居るのッ?!お父さんッっ!」
興奮のせいで無意識にベッドから立ち上がり、布団の上に直立不動のイチロウ。頸を駆使して、部屋の辺りを隈無く三六〇°見渡してはみたが、父親の姿は何処にも無い。当たり前だ、父親は既にコノ世界の人間では無い。原因を追求したくてコウベ(頸)を「グルングルン」垂れるイチロウを傍らで見詰めるペロ、「ワンっ!」吼えた。
「イチロウっ!」「ホラ、お父さんだ。お前の直ぐ真下に居るだろ?!」
又もや聞こえて来る力強い父親の肉声、だがイチロウには其の姿を何処にも見る事が出来ない。ベッドの上で立ち尽くすイチロウの右脚、脹ら脛の辺りを優しく爪で「カリカリ」するペロ。視線を布団に向けたイチロウに映るのはペロ。ペロはイチロウの事を上眼使いで「じィィィ..」っと見詰める。「お父さんだよイチロウ。」
「エッお父さん..?..ペロが?」「本当にお父さん?」
純粋無垢が売りの三歳児でも流石に半信半疑のイチロウ、ペロの垂れ目を凝視して問い掛けた。
「本当さイチロウ!本当にお父さんだよ。」
「じゃあ、じゃあさッ!?如何やって僕はお父さんの声を聞いてるの?ペロはオ父さんじゃ無いモンっ!」
「ハハっ!イチロウ、確かに!今な?イチロウ。お父さんはイチロウの心の中に話して掛けてるんだ。これはお父さんとイチロウ、二人だけの秘密の遊び。お母さんもオババもオジジも絶対に聞く事が出来ない魔法みたいなモノさ。」
「フウぅぅん..」
もっとイチロウが小さかった頃、就寝前、日替わりでゴロウとアカネが枕元で読んでくれた絵本の様な話を聞かされて居る感が在るイチロウ、両方の鼻穴を全開に開いて、納得したのか?して居ないのか?気持ちが盛り上がって来て嬉しいのは確か。「ピョンピョン!」兎に角、布団の上を急に跳ね飛び出して、興奮状態の気持ちを疑似表現。
「おいおいおいおい、イチロウ!ベッド壊しちゃうぞ!」
布団の上、上下に体が揺れるゴロウ。イチロウの事を諭すのだが満更でも無いご様子のペロ。
「イチロオっ!?起きてるのォ?早く歯を磨いてイラッシャアアイ。」
アカネが台所からイチロウを呼んだ。
(普段で在れば、私が態々呼ばなくても自分から台所にやって来るのに、今朝は一体如何したのかしら..)
このアカネの時間の誤差が、其の儘ゴロウ達の描写に費やした時間に当て嵌まる。一分だと思う読者も居れば、六〇分だと云う読者も居る、全てがアナタの感性次第。
ゴロウがイチロウの右脚、ふくらはぎの辺りを爪で優しく「カリカリ。」
「イチロウ?お父さん、お腹が減ったから早く食堂(台所兼用)に行こう。」
高さが余りないベッドから「ピョン」と下りたゴロウ、部屋の入り口まで進み、イチロウに振り向く。何やらワクワクが止まらないイチロウは、ゴロウを真似ては「ピョン」とベッドから下りて、部屋の扉入り口で待つゴロウの元に駆けた。「コラっイチロウ!お父さんは良いんだ、犬だから。だけどイチロウは人間だぞォ?ちゃんと寝巻きから服に着替えなさい。お母さんに叱られるぞ!」
「お早おぉ!お母さあぁぁんッ!」
やれやれ、ウルサイ息子が今日も起きて来た、忙しい一日が又始まるのね..台所に立つアカネの背後を目掛け、取り敢えず思いっ切り抱き付くイチロウ。毎朝の儀式。化粧を一切しない母親の甘い体臭が大好きのイチロウ(ゴロウも含む、だが物理的に抱き付けない歯痒さ)、其の二人の廻りを「ワンワンっ!」吼えては飛び跳ねるペロ(この仕草の愛情表現が関の山)。
「イチロウ?早く歯を磨いてらっしゃい!ペロ?ちゃんとイチロウが歯磨きしてるか見張っててね!?」
「はああぁい(嫌いだけど)!」「ワウぅぅぅぅ..ンッ(勿論さ、アカネ)!」
何か違う、何かが昨日とは違う。アカネは後ろから抱き付かれた時、自分に返事を返す時、イチロウの行動と醸し出す雰囲気、其れ等の些細な変化に気付いて居た。息子の存在そのモノに生々しい“生”を感じた。今にも破裂しそうな希望に満ちた若人の原石。
(今日のイチロウって、本当に何時ものイチロウ?もしかして更精神違法麻薬何かに手を付けて無いわよね..)
イチロウは其れに気付いては居ない、只感じるのはペロ(ゴロウ)が居てくれて幸せだと云う再認識。ゴロウの再来がイチロウの、其れ迄は燻って居た心の原石に火を点けた今朝。
「オイ、イチロウ?しっかりと歯を磨くんだぞ!」「ウンっ(面倒臭いけど)!」
脱衣所の洗面台、化粧鏡の前、年齢が故にチト身長が足りないイチロウ、踏み台に乗って鏡を見ながら歯を磨く。その隣にはゴロウ、「一秒、二秒、三秒..」時間を数える。因みにイチロウ以外の人間には「ウォフ、ウォフ、ウォフ(一秒、二秒、三秒)..」としか聞こえない。
キッチリとゴロウの監修の元、一二〇秒の歯ブラシを終え、冷たい冷水で顔面を叩いたイチロウ。ゴロウを伴い、イザ食堂へ!
自分の食卓の席に座ったイチロウ、卓上にはガスで炊いたホカホカの白米が詰められた御櫃、そして味噌汁の鍋。アカネ家の方針は『てめえの飯はテメエで装え。そして手前で片付けろ』。椅子に立って自分で盛るイチロウ、其れを床の上から見詰めるゴロウ(うんうん良し良し。アカネ、しっかりと俺達で決めた育児方針を貫いてるな..安心したぜ)。
「今日も宇宙に向かって、頂きまああァす!」
人間のイチロウは朝食を食べ始めた後、次はゴロウの番。ゴロウはチト不具合が生じて椅子に着席する事が出来ない。ゴロウの食卓は床の上、粗相を最小限に抑える為に、タテ一尺掛けるヨコ一.五フィイトの洗浄可能のシリコン素材のマット。ゴロウの好きだった色の茶色いマットの上に、水のボウルと御飯を盛るボウルの二つ。先ずはイチロウを片付けたアカネ、続いてはペロの番。栄養を考えて今日も作った手作り御飯、出来立てが故にチト熱し!立ったままボウルを両手に持ち一生懸命「フウぅぅぅ..フウぅぅ..」するアカネ。チト吹き過ぎで顔面紅潮。この光景も床の上から見るゴロウ(糞っ、何で俺は犬なんだッ!)。抱き締めたい、後ろから羽交い締めしてやりたい..アカネの事が愛おしくて堪らないと感じる最高潮の一瞬。
さあて出来た。スッカリ人肌にまで冷めた愛妻メシ、召し上がれ、ゴロウ。アカネはペロが家にやって来てから、躾を強制した事が無い。犬の躾とは何ぞや?他人(他犬)を傷付けず、自身(ペロ)が日々幸せに生きて行けるのが一番の躾だとアカネは思い、一切の躾を放棄。犬に人間社会の礼儀作法を押し付けるのは虐待だろう。メシを喰らう前にペロは“お座り”などしない、只美味そうにガッつくだけよ。コレぞ男飯。追記でペロは絶対に“お手”もしない、した事も無い、死ぬまで一度もしなかった漢(犬を舐めてんのかよ?——ペロ談)。
皆が朝食を済ませた後、日課の散歩に出る為に玄関に向かうイチロウとペロ、其の後にアカネ。ペロの頸に首輪を掛けるのはイチロウの仕事、そしてリィド紐を巧く指揮してペロを誘導するのも彼だ。母親のアカネは、イチロウとペロの後に付いて歩く守護神の様な役割。今日もドッグランにやって来たアカネ達。入り口の所で、イチロウはペロのリィド紐を外し、ペロは透かさず芝生の世界に大逃走。続いてイチロウも、其の後を追っては駆け出すイツモの微笑ましい日常に見えて、何かがチト違う。
「ハハっ!イチロウ、お父さんにシッカリと付いて来れるかァっ?!」
「ウンっ、だけど、お父さん待ってェッ?!」
二人(厳密に云うと一人と一匹)の会話が成り立って居ると云う事。アカネには、ペロが芝生の上で全力疾走しながら「ワンワンっ!」吠えては駆ける光景が映る。遊びに関しては甘えは一切許さないゴロウ、暴走。
「お父さぁん!速いッ速いよおぉ!もっとユックリ走ってよおぉ?!」
このイチロウの台詞はアカネには聞こえる事は無い。ゴロウとイチロウはお互いの深層世界の中で会話をして居る。
(今朝のペロもチト何かが違う..)そう感じたアカネ。然しソレが何なのか?説明は出来ない(けど良いよね、幸せだったら!)アカネ。全身の毛を逆立たせては全力でドッグランを駆け巡るペロを見詰めるアカネ(今日のペロ、凄い幸せなのが分かる..フフ!何だか私も一緒に幸せになっちゃうじゃない!)。全力疾走で走るペロを、一生懸命に駆けては追うイチロウ、勢い余って思わず転んでしまう事もシバシバ。
「立ってぇイチロウ!自分の脚でチャンと立ちなさあぁい、ホラ、泣いちゃ駄目えェ」
このアカネの応援を聞いたゴロウ、走る事を中断して息子の所まで駆け戻った。イチロウは未だ芝生の上、俯せの状態のママ伏せて居た。
「立て、イチロウ。お父さんの息子は強いんだぞ!」
ペロがイチロウの頬を「ペロペロ」舐めた。其の後でユックリと両手を使って地面から立ち上がったイチロウ。左脚の膝から血が滲み出て居て、其の部位も「ペロペロ」と優しく舐め廻すゴロウ。
「キャハッ、お父さあぁん!擽ったいいいッ!」
愛情を感じさせる滑らかな舌使い、ザラザラとした舌の感触が余りにもコソバク、思わず吹き出したイチロウ。痛いよりも父親に守られて居ると云う幸せが勝ったイチロウ。其の儘イチロウ達は走る事を止めて、ドッグラン入り口に立つアカネの元に戻って来た。
「凄いじゃないイチロウ!偉い、泣かなかった!自分でチャンと立ったじゃない!」
本心を言うとイチロウ、アカネの股間部にしがみ付いて号泣しながらも、然りげ無く甘えも絡めた、子供特有の計算尽くしの迫真の演技を披露したかったが、グッと我慢したイチロウ。隣りでゴロウの眼が「キラリ」光る。父親に情け無い姿など見せられない漢の意地。
「偉い!偉いぞイチロウ!逞しくなったなあァ..お父さんも本当に嬉しいよ!」
イチロウの体にピッタリ肉体を寄せ付けて、息子の小さな偉業を讃えるゴロウだが、アカネには「ウォフっ!ウォフウォフっ」としか聞こえない。偶には息子の為に時間を割いてあげたい..アカネは事前に、本日午前の料理教室を生徒達には中止の告知済み。そのお陰でチト長めに、ドッグランで幸せな一時を延長して過ごせるアカネ一家。仕事が人生の全てでは決して無い、こんな息抜きも偶には必要のアカネ。この事実をアカネとイチロウの会話で知ったゴロウ(其れだったら、俺はもう少しばかり走りたい..)、二人を置いて再び緑色の芝生の世界に消えた。父親のゴロウが居なくなったのを確認したイチロウ(やった!お父さんが居なくなった!)、其の儘アカネの元に残っては徹底的、トコトン甘えの姿勢。
「アラ?イチロオ如何したの?急に、お母さんに甘え出してェ?!」
ドッグランとは犬が自由に遊べる空間を意味して居るだけでは無く、彼等が情報交換を出来る社交的な場所でも在る。其の対象は立ち話をする飼い主の人間だけに留まらず、飼い犬も然り。今日マサカこのドッグランで『ペロ』の歴史が変動するとは、作者を含めた誰もが予想だにして居なかった。偶然と云う必然。必然と云う名の出来レェス。ドッグランと云うレェス会場でソレは起こった。
この日も同じ時間にドッグランで顔を合わせた親交の深いスタンダァドプゥドルのアキラと、一通り爆走、激走した後、アカネ達とは反対側のドッグランの柵付近で談笑をして居た時だ、。
「フゥぅ..今日もヤッパ速えな、ペロよぉ。一応俺も速いって世間じゃ云われてる大きいプゥドル何だけど速え、ホントお前は速え。其の速さってドッカラやって来んだよ?!もしかして交じった雑種犬の良いトコが凝縮してんのかもな?お前以外の俺達はさァ、皆んな出処が知れた血統書付きの犬な訳じゃん?俺の糞ババア(飼い主の糞婆あ)が良く言ってんだけどさ、この地域って意外ろ富裕層が多いみたいで、飼われてる犬や猫何かはミンナ血統書モン何だってよ。糞喰らえだけどな。俺の糞ババアもコノ公園で、お前じゃ無くて他の血統書付きの犬コロと遊んでくれってイッツモ言って来るよ、俺に。ケッ!鬱陶しいぜ。マァでさぁ、そんな事実を踏まえてさ、雑種のお前が此処にやって来る前、一体何やってたんだよ?俺、此処でお前がやって来る前からズット居るけど、お前だけ何だよな、犬性(人間性)がボヤけて見えんのって。背後がミステリアス何だよ。」
アキラの此の発言に対して、ペロは卑下されたとは思わないし、差別されたとも感じて居ない。勿論それはアキラも同様、決してペロの事を馬鹿にして尋ねた訳では無い。本心からやって来る興味だけだ。立場は常に対等で在る健全な犬社会。人間世界の価値観は犬の世界では融合する事は不可能、水と油だ。
「こんな雑種の俺とは遊んでくれるな..か、フンっ、安っぽい人間が良く言いそうな言葉だぜ..、ま..ウぅうン..そうだよな、確かにお前とミスズ姐さんにだけは本当の事を教えても良いかもな..」
「おいオイ..!何だよペロ、急に真剣になっちゃってさぁ?!ワリぃ俺、何か変な事聞いちゃった?!」
そもそも身分を隠す必要など無かったペロ、実際に今朝、自分でも初めて自身が人間のゴロウだと気付かされたのだから。だが態々ソレを、此処でアキラに打ち明ける必要性が在るのか?否や。ペロには無かった。ペロが実はゴロウで、ゴロウは実は人間だった。この真実を曝け出す事が、犬のアキラにとって一体何の意味が在ると云うのだ?このドッグランで、俺は仲間達と一緒に走れればソレ以上、何も求めない。だが本当の友とは、全てを共有出来て、全てを理解し敢えて初めて友とお互いに呼べるモノ。両想いが成立しなければソレは親友とは言えない、だけど若しも俺が人間だったって聞いたら、人間嫌いなアキラは一体如何思うのか?
「あのな..」ペロ(ゴロウ)が口を開く..
「おいオイおい!ソレって本当の話かよォ?!ペロっ..じゃ無えやゴロウ!?」
「うん..あぁ本当さ。俺は何時だったか?人間の誰か..仕事帰りに後ろから刺されて殺されたんだ。ホラ?彼処、お前も良く知ってるだろ?あの小さい小道、駅から伸びてる細い小道。お前の飼い主何かもさ、お前を連れてアソコ散歩した事在るだろ?彼処、アソコで夜中、俺は殺されたのさ。」
人間世界から見るコノ二匹、彼等からすると、只二匹並んで“お座り”の様な体勢で芝生に鎮座して居るだけに見える。勿論状況を全く知らないアカネ、
「ペロぉ、アキラくうんッ!時間が在るからモット走っても良いのよおォッ!」
遠くのペロとアキラ目掛けてドックラン入り口から手を振った。
「そうか、あのアカネさんが実はゴロウの奥さんだったのか..彼女素晴らしい人間だよな、俺の糞ババアとは全く人種が違うぜ。」
イチロウはと云えば、相変わらず父親のゴロウが廻りに居ない事を良い事に、アカネの股間部辺りで露骨に纏わり付いては甘える幼き策士。小さな悪魔。
「ン..?俺、その事件聞いた事在るなァ..確か俺の糞ババアが、此処で誰か他の糞ババア連中と立ち話してた記憶が在るぜ?..そうか、そうだったのか..お前がアン時の人間だったんだな..悪りぃ、もしかして嫌な事思い出させちゃったかもな。」
「ハッ、良いよ!良いの良いの、もう終わった話だからさ」
「けどさゴロウ?俺の糞ババアが言ってたけど、証拠不十分で今でも犯人捕まって無いんだろ?」
「アァ、そうみたいだな..けど本当もぉ良いんだ。こうやって俺は犬に生まれ変わったけど、実際に妻と息子にも再会出来たしな、そして、お前とミスズ姐さんとも出会えたし」
この後で暫くアキラが黙った。最後の台詞が心に突き刺さった。
(犬畜生の俺に対して、この元人間のコイツは俺の事を大事に想ってくれて居る..そして俺の想いもコイツと全く同じ..)
アキラ、だが不器用な性格が故に恥ずかしくて、こんなハグラカシタ事にか口に出来ないアキラ。ここから歴史が動く。
「そっか..ゴロウ、色々大変な時期を送って来たんだな..。けどさっ?!オマエ本当に今のマンマで良いの?全然悔しく無えのかよッ!?」
犬情(人情)に厚く正義感溢れるアキラが、他犬事(他人事)ながらも納得出来ない様子でゴロウに突っかかる。
「アキラ..だからさ、これ以上の幸せはモゥ無いよ、其れに今の犬の俺に一体何が出来るよ?!そうだろ!?」
(俺もコイツ“ゴロウ、ペロでも置き換えは可”が大好きだ。だけど今の答えは人間臭さを感じて俺は好きじゃ無い、何で諦めるんだろ?)直感で感じたアキラ、持って生まれた性格上、簡単に諦める事と、泣き寝入りの選択種は持たないアキラ、向上心を持たない犬は只の犬コロだ。
「知ってるかゴロウ?彼処の小道にはさ、道に沿って細長い小川が流れてるだろ?オマエ聞いた事ナイか?其処の小川に“仙ドブガエル(仙人)”って呼ばれてるジジイが棲んでるって噂。もしもさ、この噂が本当だったらソイツが何か知ってんじゃ無ぇか?ちょっと探ってみろよ?俺もさ、微力かも知んねェけどミスズ姐さんと一緒に色々と当ってみるよ!人間が出来なかったからって、犬の俺達も出来ねえ何て事は無えよ。犬の俺らだからこそ出来る事在るだろ!?一丁やってみようぜ!」
(“俺”は確かに人格者で、会社内でも私生活に於いても人望は厚かった。『意識』と云う物は、生死を何度繰り返しても、“核”となる『意識』自体の本質的な要素は不変、変わる事は無い。コイツと俺は似て居る。コイツもキット前世は熱い漢だったに違いない。アキラ..叶う事ならば、人間時代に俺はオマエに会いたかったぜ..)
この、ふとした二匹の何気無い、男臭い対話から物語は大きく進展して行く。
親子の形は歪かも知れないゴロウとイチロウの今。犬のゴロウと人間のイチロウ、互いの『意識』が通じ合ってからと云うモノ、姿形は“犬”では在るが人間のゴロウ。だが基本的に犬が故に、イチロウには簡単に出来る事がゴロウには出来ない。共に居る時、其の様な状況をイチロウが察した場合、何も言わずイチロウは率先してゴロウを支えた。
「有難うイチロウ(ワンっワンワン)!」
必ずゴロウはイチロウにお礼を云う。挨拶は大事な愛情表現の一つ。
(やっぱり俺の息子だコイツは..ブレない優しさをシッカリと持って居る)
息子がスクスク健やかに成長して行く過程を、父親として側で一緒に体感出来る悦び。今の自分の身分が“犬”だと云う事など、最近では如何でも良く思って居るゴロウ。元々オレは犬だったのかも?思う瞬間もシバシバのゴロウ。自身では気がついては居ないのだが、偶に自分の事を“ペロ”だと認識してしまう場面もシバシバ。危険な兆候か?ハイ、危険です。
この頃のゴロウは幸せに感けてスッカリ忘れて居た。何時の日か、ゴロウには前世が人間だと云う拘りや、自尊心のエゴが少しずつ薄くなって行っては、“ペロ”其の者に同化しつつ在る感覚が在った。日々、アカネ達と生活を密に過ごせる喜び。愛妻アカネが作る御飯を美味しく食べられる喜び。敵が居ない家で生きれる喜び。愛息子イチロウと毎晩同じ布団で眠れる喜び。“愛妻”と“愛息子”と表現したが、チト実は其の事実も確かなモノでは無くなりつつ在るゴロウの記憶。“愛妻”が飼い主の“女”、“愛息子”が其の“子供”、頭の中で変換される事もシバシバ。
(嘗ての俺はソレは長い間、保健所の狭い檻の中で生きて来た。犬のペロに転生した頃は、ミユキを確かに怨んだ時期も在ったさ..けど今になったら、犬ってヤッパ悪い生まれ変わりじゃ無い様な気がしてならない..と云うか、与えられた新しい『生命』をドウ如何に幸せに生きるかが大事何じゃ無いかな?って最近思うワン..)
「イチロウ、とうとう明日ね?幼稚園の入学式!オジジとオババが車で朝、迎えに来てくれるからね。」(ホラ、こうやって彼等も与えられた人生を楽しもうと努力してるじゃ無いかワン)
「うんッ僕もスゴイ愉しみぃ、だって毎日幼稚園のお迎えバスに乗れるんだもんッ!」(ホラ、この子もそうだ。乗り物に乗れると云うだけでコンナにも興奮してるワン)
今朝の食卓でのアカネとイチロウの会話を、ゴロウは床で朝飯を喰らいながら聞いて居た(そうか..このイチロウも明日からトウトウ幼稚園かァ..日に日に大人に近付いて行ってる訳だワン)。
ゴロウは気付いて居ない。ゴロウの『意識』がジョジョに緩やかに、そして確実にペロの『意識』に侵略されつつ在る事を。台詞の語尾に「ワン」が付き出したのが良い例だ。人間社会には在る“時間”と云う絶対的な法則は、獣の世界には存在して居ない。朝がやって来ても昼になっても夜が暗くなっても、獣達は何も思う事は無い。人間は日が変わる度に恐怖を覚える。何故ならば寿命の終わり、又の名を“死”、其の最後の日にマタ一歩近付く事を実感させられるから。獣は別だ、死など怖く無い。何故ならば今を生きて居るから。ミユキが吐いた“*一瞬”、ゴロウにはアカネ達との一瞬の決別の日が直ぐソコまで迫って居る。
(確かコノ辺だった筈..)
露骨で過剰な愛情表現を見せたら、人間なんて俺に掛かったらイチコロだぜ。この為に朝一から、糞ババアに甘えの姿勢を演じて魅せた俺。日課のドッグラン訪問を終えた後、其のまま家には戻らず、リィド紐をグイグイ引っ張って、糞ババアを例のゴロウが殺された小道の現場に連れてやって来た。
(此処ら辺でチト甘えてみるかァ..)「クゥゥん..クウウン..」
「アラアラ!今日は如何しちゃったのぉアキラちゃあん?!お母さんに此処で甘えたいのかしらァ」
案の定、糞ババアを此処で静止させる事に成功した。朝のコノ忙しい時間帯は、通行人や通学人が沢山行き交い、チト混雑する満員電車の形相の小道。強いて言えば、そんな細長い満員電車内の中「ギュウギュウ」になりながらも、負けじと直立不動で文庫本小説『ペロ』を立ち読みするチミ。チミも今、実は此の小道に居る事に気付いてたか?人の群れで一歩前に進む事すら困難の小道にチミは立つ。狭い小道のド真ん中を陣取って、一向に動こうとしない糞ババア。まるで忙しく行き交う人間達を敢えて邪魔してる様にも映る糞ババア。その通り、この糞ババアはチミみたいな負け犬を心底バカにしてる。本来働く時間に働かないのは正義。勝者は働く必要が無いの、私の為に働くのはチミよ。分かるだろう?俺が飼い主の女を“糞ババア”って呼ぶ理由が。俺の糞ババアは同じく近所の糞ババアと小道の小川傍で談笑中。世界の覇者、糞ババアとは世間話と噂話をコヨナク愛すモンさ(今日の俺ツイてんぜ。これで時間を充分に稼げる..)。
———ここからの当時の描写は、全てがゴロウ(が殺された後に残った記憶の『意識』)から聞いた又聞きだ。もしも語弊が在ったのなら其れはアイツのせいじゃ無い、俺のせいだ。其の時はアイツじゃ無い、俺を責めてくれ。
あの夜、ゴロウが倒れてた事件現場には警察犬が何頭も派遣されては、警察官達と共に現場検証をしてた(クン..クンクン?クンクンクンクン..)。
「スゥぅぅぅ..、バウッ!バウバウッ!バウバウバウッ!」ずば抜けた嗅覚を備えてて、更に厳しい訓練もされた警察犬の奴等は、小川のト或る一点を睨みながら吠え続けた。これは人間が嫌う“犬の空吠え”何かじゃ無くて、主(あるじ)で在る警察官に異常を知らせる合図。其処は三間位在る高い柵。小道から見て、小川を挟んだ向こう側に建つ柵。其の柵の向こうには民家。私有地を示す。怪しいに決まってんじゃん?早速警察官の彼等は暗闇の中、懐中電灯を持って長靴を履き、警察犬達が吠える柵の一点に向かって歩き出した。柵は柵、柵には何の証拠も見付からず、其の柵の所有者の一家にも聞き込み調査も行った。無い。ナンも無いよ。結局のところ、証拠となる物は何も見付からずに捜査は難航、そして未解決のまま現在に至る。人間社会で云う完全犯罪。だが人間社会に迎合しない犬達(警察犬)は犯人を知って居た。陳腐な推理小説だと、犯人は最後の最後まで明かされない、だが『ペロ』は違う。『ペロ』は幻想メルヘン小説だから、ココで種明かししても良いのだ。犯人は此の館の誰か。だが人間は踏み込もうとはしない。何故ならば一家は権力者だから。一応聞き込みには行ったらしいがナシの礫。しがない会社員の男と権力者一家の関係性は、勿論何も発見されなかったさ。
小道と柵の対角線上に浮かぶ大きな石。ギリギリ水面に被った一個の平べったい石。丁度、一人の人間が立てそうな位の面積の石で、普通で在れば、水苔で覆われて居て、ツルツルの筈の石だが、水面に浸かった部分は確かにヌルヌルして居る。「ツルリンコ!」人間が足を滑らす様な事が無い位、表面の部分だけ「ピッカピカ」磨かれて居てチト不自然。その石に向かっても警察犬達は思いっ切り吠えた。其の石の表面に血の臭いを感じ取ったからだ。警察犬が吠える場所は二箇所、柵の一点と平たい石。犯人の匂いが柵の向こうに在って、ゴロウの血の臭いが石の天辺に残る..。
「あのおォ、ちょっとすみませえェん(ウォフ、ウォフウォフ)!」
其の平たい石が浮かぶ小川の目の前の川縁、アキラは飼い主達が耳障りに感じない程度、石に向かって優しく吠えた。激しく吠え過ぎると彼女達の機嫌がチト悪化、其のママ家に帰らされる可能性が在る。
「アノオぉ..居ませんかあァ..?僕はアキラと云って、この直ぐ近所に住んでる犬何ですけどお、実は以前、僕の大事な人間の友達がココで殺されてしまった事件が在ったんです..犬の噂で「コノ小川には“仙ドブガエル(仙人)が棲んでる」って聞いた事が在ります。もしも其の噂が本当だったら御願いですッ!何か手掛かりにでもなる情報とかお持ちでしょうか?!」
何処かでも描いた、犬の嗅覚は非常に「ビンビンビン!」感度良好。アキラが其れまで耳にして居た飼い主達の下世話な立ち話や、廻りの雑音や、植物や生物の会話も含めて丸聞こえだった筈がトタンに消えた。
(っエッ!?俺、難聴になっちゃった?!)
「パシャ..パシャパシャ..」
小川の水流の流れに逆らって、何かがコッチの方に向かい、浮かんでやって来る様な小さな音を聞いたアキラ(アあぁぁ良かったあ..難聴じゃ無かった..)。
「呼んだ?ゲロゲエェロ」
川の水で全身が色っぽく濡れた真緑色の肌、年輪を重ねたソノ皺皺の肌、「ギョロリ」アキラを睨む巨大で〇い両眼、貫禄溢れる巨漢体で堂々たる五重顎、四本の手足は大木の様に図太く、態度も同じくに図太そう。「よっこいしょと..」その巨漢がアキラの眼の前、平たい石の天辺に時間を掛けて攀じ登り、ようやっと鎮座。
「嗚呼..大丈夫、時間は気にする事無い、ワシがイマ金縛りの術を掛けた。地球は自転する事を止めて地球の全ての生きモンは全く動かん。ワシとお前さんだけよ、ゲロゲエェロ」
アキラは側に居る飼い主達を見た。二人とも確かに体が静止した状態、両手が宙で止って居る。両手の指差す先には両翼を広げたママの雌ガラスが一羽、大空にて固まって居る状態で静止。生き物が動きを止めたと云う事は生活音も同時に消える。アキラの両耳に聞こえて来る音は無音と云う雑音。自身の声と、眼の前石に座るドブガエルの声だけが地球を完全支配。
「ハ、初めましてッ、僕はアキラと云う者です!貴方様はもしかして“仙ドブガエル(仙人)様でしょうかッ?!」
「フゥゥん..マァそうじゃな..そんな様な存在じゃな。サトウ..ワシぃサトウって呼ばれとんのじゃ。ゲロゲエェロ」
「サ、トウさん..ですか?」
「嗚呼そお、サトウ..でぇ一体如何したんじゃ今日は?ゲロゲエェロ」
「かくかくしかじか..」丁寧な説明でゴロウの件を伝えるアキラ、石の上のサトウは両眼を瞑って「ウンウン..」頷きながら聞いて居る。
「そうか、アレか..あん時のアレか。成る程のォ..そりゃあ確かに可哀想じゃ」
全ての説明を終えたアキラに対して、サトウはユックリと口を開いた。
「エっ!?..と云う事は、サトウさん?!ゴロウを殺した人間の正体を御存じなのですか!?」
「..勿論ワシは何でも知っとるさ、サトウだからのお..。其の御仁を殺した奴は此の小川沿いの家屋に住んじょる若造じゃて..年の功は、今ワシに見えるのは十二歳、..男じゃな。そいつはホラ?お前さんが居るソコじゃ、其処で殺したんじゃな。ホウ..ほうほう、フムフム..そうか、そいつは刀みたいなモンで御仁の後ろから、餅つきみたいに何度も突いた。そいつの身体にも血が沢山付いた。フゥゥん..そうか、そうか..ソイツはワシが座っとる石の上に飛んで..その後で此の聖なる川の水で身体を清めたんじゃな?此の石の上で気配を殺してソイツは家に逃げた..。以上じゃ、ワシには此の様に見えた。もうそろそろ時間じゃ..ワシは行かなくては。ゲロゲエェロ」
「アっ!サトウさんっコレッ!これえツマラナク無い物何ですけど、どうぞ受け取って下さいッ!」
もしも?と云う時の為に、ゴロウに御願いして居た手土産を持参して居たアキラ。アカネお手製カエル用の御弁当(松)、飼い主の左手に「ぶらり」ブラ下がって居る。「クルクルクルクルクルクルっ!」サトウのガマ口から伸びる長い舌、弁当を器用に掴んでは「クルクルクルクルクルクルっ!」鎌口に呑み込んだ。
「あんがと..ゲロゲエェロ」
「チャポンっ」
何かが水面に飛び込んだ音で眼が覚めたアキラ、
「..ャシパャシパ、ャシパ」
サトウが時間を遡るかの様に先程流れて来た方角へ、逆回転にて姿を消して行く。金縛りが解けた地球には日常が戻り、アキラのリィド紐を持つ飼い主の右手が急に揺れる(アラ?左手に持ってた御弁当が無い..まあ良いわアンナ物)。
「アキラちゃぁんッ、もおソロソロお家に帰りましょッ!」
次の日の朝のドッグラン。顔を会わせたゴロウとアキラ、そして今朝はミスズも同席。早速アキラは、昨日自身に起こったサトウとの出来事を二匹に語った。その話を聞いたゴロウ、確かに思う節は在った。自分が刺された時、背後で足音が全く聞こえなかった事。ソレは体重と云う物理的なモノが関係して居るのでは無くて雰囲気。今回改めて“犬”として人間と察したゴロウ、大人になるだけ“雰囲気”が重く(悪化)なる事に気が付いた。だからイチロウ何かは全然薄い、擦れて無いからだ。コレは決して生命力の強弱の問題では無く、荒んだ人間社会に染まるソノ一歩前の段階の子供の雰囲気は無に近いか、薄い。イチロウがそうだ。「そうか..やっぱガキかァ..然も小六のガキに殺られたのかかよ、俺..チっ、ダセエ。」
だったらコレは如何なんだ?“返り血”。これは人間を刺した事が在る者ならば必ず経験が在るだろう、人体は謂わば“大きなヒト型の風船”。何処かに穴が開いたら中から大量の出血がある筈。鋭利な刃物。ソノ刃の幅が広ければ広いだけ、刃渡りの長さが長ければ長い程、刺した勢いとソノ面積に比例して出血の度合いも増す。ゴロウを思いッ切り刺した人間の身体にもカナリの血が飛び散った筈。サトウがアキラに言ったコノ台詞、「この聖なる川の水で身体を清めたんじゃな?..」
朧げでは在るが、何か小さな“瘤”が暗闇の奥からジワジワ現れて来た気がするゴロウ。陳腐な表現とすると、点と点が浮かび上がっては其れ等の点を『一〇Hの鉛筆』で繋げて描いた様な、辛うじて肉眼で確認出来る一本の線に繋がった様な..。今丁度コノ場にミスズが居る。動物は疎か、ミジンコ含めて各微生物達との交友関係が幅広いミスズ。
「ゴロウちゃん?私、ちょっと洗ってみるわ..」
「アぁ頼むよミスズ姐さん。あ、後もう一つだけ..この上の陳腐な表現も洗って消してくれ。俺、好きじゃ無い」
「あらぁイッちゃん、似合ってるじゃない!とってもハンサムだわねェ..」
「ウンウン..そうかそうか、漸くイチロウもコレで幼稚園かぁ..オイ、母さん、馬子にも衣装って云うけど、今日のイチロウに叶う奴なんか居るのかな?」
「フフっ、ピッタリねイチロウ!如何ですか、イチロウさん?初めて幼稚園のお洋服を着た感想は?」
「やっぱりお父さんの息子だ、イチロウ。宇宙一カッコ良いぞ今日(クぅぅぅん..バぅワぅ)!」
居間にアカネ家の全員が集結する今日の早朝。何はトモアレ今日はイチロウの幼稚園の入園式。初孫の入園式の当日と在って、アカネの両親は前日から揃ってコノ家に現地入り。興奮で一睡も出来なかった、気合い満々二体の御老体。前の晩は近所の寿司屋で出前を取って皆で食べた。流石にペロは寿司は食べれないし、店内に連れて入る事も衛生上無理なハナシ。だが、ペロも大事な家族、アカネが気を利かせて、近所の魚屋から新鮮な光り物の魚を一匹丸ごと購入、大将に殆どを刺身にして貰い、残った部分をアカネが調理してペロの晩御飯にした。犬と光り物の相性は良い。
「頂きまあぁあす!」
今晩の主役はイチロウ、早速手を付けたのは納豆巻きの山葵抜き。イチロウは納豆巻きが大好きで納豆巻きしか食べない。モリモリと次から次へと口に放り込む。今晩の夕食は居間の座卓に場所を移しての大宴会。ペロにとっても、皆との距離感が食卓とは違って、至近距離で嬉しい限り。絨毯の上で何度も腹を「グルングルン(嗚呼ダメだっ、幸せ過ぎる)」して、ご開帳!皆ソファアに腰掛けながらオ酒を嗜み、談笑しながら、ユックリと流れる時間を噛み締めながら幸福なヒトトキを咀嚼する。勿論、今晩のペロの食卓も居間の絨毯の上。然もイチロウが座るソファアの隣に、丼と水のボウルを、アカネが一緒に置いてくれた(有難う、アカネ..)。因みにアカネ特製、光り物御膳は光速で完食。それでも足りないゴロウ、隙を見てイチロウの納豆巻きの何個かを拝借。元々が人間、犬が喰っても良い物と、悪い物の違いが分かる男。
皆が食事を摂って居る中、すっかり食べ終えたイチロウとゴロウ。
「おい、イチロウ。お父さんな、イチロウにチョットお願いが在るんだ」囁く。
「ウン、なあにィィィ?」
「なぁイチロウ。お母さんな、お父さんの一番大事にしてるネクタイを持ってる筈なんだ。そのネクタイをお母さんに聞いて、明日の入園式、お父さんの頸に巻いて貰える様に聞いてくれるか?」
「ウン良いけどさ、お父さん?お母さんね、お父さんのお洋服みんな何処かに持って行ったよ、昔。」
「らしいな、けどお母さんは絶対にあのネクタイは捨てて無いよ。お父さん知ってるんだ」
(あら、イチロウったらモオ要らないのかしら?)イチロウの残した納豆巻きを口に含もうとした矢先、
「お母さあん。あのね、僕の明日の幼稚園にさ、お父さんのネクタイ、ペロに巻いても駄目?」アカネの箸の手がピタリ止まった。
「..イチロオ?..貴方、如何してお父さんのネクタイの事知ってるの..?」
このアカネの予期して居なかった問いに対して、イチロウが取った行動とは..
「フゥゥゥん..もお僕ウ..眠いから行くね?」
ペロを引き連れて堂々現場を引き揚げる、度胸の入った名演技。アカネも居間を去る息子の大きな背中を見て意気消沈、もっとココから会話をしたかったが無言になった。
翌る日、アカネが拵えた朝御飯を食べた後、初めて両親を連れてドッグランにやって来た一同。愛息子の入園式が控えて居ると在って、今朝のゴロウはチト眼が充血気味。大興奮の最中。其れはアカネの両親も同様で二人の眼も真っ赤に充血。不眠の快楽。永遠の少年少女。ゴロウの殺気を敏感に察したアキラとミスズ姐さん、
「聞いたぜぇイチロウ君、今日幼稚園の初日何だってな!良いかゴロオぉ?イチロウ君に良ぉく言っとけよ、舐めて掛かって来る様な幼稚園児が居たら、即ブッ飛ばせ」「モォ聞いたわよぉゴロウちゃんッ!本ットにお目出度ブヒ!良かったねぇブヒ!あ、でさぁ実はゴロウちゃんの耳に入れておきたい事が在んの。けどさ、今日はお目出度い日ナンだから明日あした!今日はお父さんを楽しんでらっしゃいブヒ!」
「アキラ..ミスズ姐さん..有難う。まさか俺もさ、息子の晴れの舞台に参加出来るだナンテ思っても無かったよ」
今朝はイチロウの入園式の為に手短かに終えたドッグラン。居ても立っても居られない一家はミナ競歩気味で家へと戻り、各々が透かさず支度に取り掛かる。新しい長靴を早く履きたいが為に雨が降る事を祈る気持ちと同じで、イチロウも意味も無く制服を着てドッグランに行きたかったのだが、汚されてしまう事を危惧したアカネ「駄ぁあ目」静止した。この日がやって来る迄に、部屋で何度も試着をしては気分を盛り上げて居たイチロウ、勝手知ったるイチロウ、光速の速さで幼稚園の制服を着用。手持ち無沙汰で同じく暇を持て余して居るペロと一緒に居間で戯れ合う。アカネの両親が持参して来た装いの一張羅。長年箪笥の中で寝かされて居たせいでチト防臭剤の臭いがキツし!一般家庭に良く在る現象、不快でしかナイ。
アカネは非化粧派完全主義。生まれてから此の方イチドも顔面に化粧を施した事が無い。それ故に身支度も早い。スッカリ着替えが終わり、父親と母親も既に表に出て居て車の中で待機。気が焦るイチロウとペロも車の助手席の上。
「なぁイチロウ?お母さん、お父さんのネクタイのコト何か言って無かったか?」「ウウン..僕全然聞いて無いよお。」
「..そうか、じゃあ仕方無いな..」
アカネは内股にて家中の部屋を駆け廻っては、窓ガラスの戸締まり確認でチト忙しい。一番最後に台所に行き、火の元確認。今朝の料理教室は一日を通して休業告知を事前に生徒達には伝えて居る。然もコノ料理教室の生徒の中には、イチロウと同じく入園式を迎える園児達も居て、細やかな連帯感を感じるアカネ。
「プップップウっ!」
アカネの登場を急かす父親のクラクションが表から聞こえて来る。
(もォお父さんったら、相変わらずせっかち何だから..)
内股小走りで台所から玄関口に駆けたアカネ、事前に決めて在った靴の一足を右足に履いた後、もう片方「.. .」、履くのを止めて、既に履いて居た右足を「ピョンピョン」左足だけを使い「ぴょんぴょん」飛び跳ねながら「ピョンピョン」寝室に向かったアカネ、箪笥の引き出しを開いた。
「おおいアカネェ!もうソロソロ出ないと間に合わないぞおォ?!」車から降りて玄関を開けた父親が寝室に居るアカネに叫んだ。
「はああいッ!分かってるてえっ、分かってるから直ぐ行くうッ!」
「ブオぉぉン、ブオンブオンっブぉぉンッ!」
今朝も父親の違法改造したマニュアル車は健康其のモノ。一発で心臓ことエンジンが雄叫びを上げる。何時もで在れば、観念してコノまま車に乗るアカネと母親。だが今日はチト事情が異なる。大事な息子、可愛い孫が迎える晴れの舞台の入園式。事前に二人は酔い止めの薬を父親に見えない様、コッソリと服用しては自己防衛の構え。式の途中で激しい嘔吐に見舞われる事だけは避けたい。勢い良く家を飛び出した父親の車は軽快に幼稚園に向けて疾る。全員が車の窓を全開に開けて風を満喫。閉め切ったままだと、チト両親の洋服の防臭剤の臭いで吐きそうになる乗組員全員。アカネ家から幼稚園迄は車で約一〇分程。明日からは、家から歩いた大通りに在る専用のバス停から幼稚園の往復をする事になるイチロウ。車内では誰も会話する事無く、無事に車は幼稚園に到着。幼稚園入り口は既に沢山の父兄や園児達で賑わって居た。
「ヨシ、じゃあ此処でお前達は降りなさい。」
父親は自分の車を駐車させる場所を探しに行く為に、先にアカネ達を降ろした。
「お母さん大丈夫?」
「ウン、大丈夫。良かったわ、今日シッカリ酔い止めのお薬を飲んでおいて、大正解。」
「ウフフ、確かに!今日のお父さんの運転、何時もよりチト激しかったわよね?!」「うふふ..イッちゃんの日だから張り切ったのよ、キット」
アカネ達は幼稚園入り口の列に並び、数分程経った後、アカネの父親が息を切らしてやって来た。
「フウフウフぅぅ..久し振りに走ったよ。疲れるもんだなぁ..然し今日はツイテた、直ぐ近所に車を停めれる場所が在ったよ」
列に並んで五分程、漸く玄関口まで進めたアカネ一家。折り畳み式の長テェブルの上に純白の敷物を被せた受付が見えた。
「あッアノ?すみませんッ!?」
男が大声で問い掛ける声がした。だがアカネは無視した(まさか自分では無いだろう..)。だがすると、其の男はアカネの目の前に立ち塞がって「すみませんが、建物内には盲導犬以外は入れない規則何です」アカネに告げた。
「この子は私達の大事な家族なのですが、如何しても駄目ですか(首輪をして、リィド紐も私が管理してるのに中に入れないって如何云う事?この子と園児達が密に触れ合う事でも無いのに、ペロが参加出来ない入園式だったら私も参加しない)?」
心無しかペロが項垂れてる様にも見えたアカネ。ソレはその筈、ゴロウ(ペロ)には人間の会話が筒抜け。確かにゴロウは項垂れて居る。
「この子は息子の大事な兄弟みたいな関係何です!私がシッカリ管理しますから駄目ですか?!」
駄目で元々、一応食い下がってみたアカネ。ゴロウは云うと、頸を上げて上目遣い、二人の様子をタダ窺って居る(確かにコノ職員さんの云う通りサスガに駄目だろうなぁ..)。
「本当に御免なさい..これだけは如何しても規則なので、だけど僕も犬を飼って居るので御気持ちは充分に分かります..もっと時代が進んでくれたら良いですよねえ..」
職員の男は蹲み込み、一言アカネに撫でても良いか?聞いた。この職員の犬に対する想いは本物、礼儀を知って居る。
「ハイ勿論!この子、ペロって云うんです」
蹲み込んだ男の眼線とゴロウの眼線とが水平に合った。そして男は、先ず先に右手をペロのお尻の方に伸ばして、優しく腰の部分から撫でた。そこで男はペロの表情を窺いながら、ようやっと頭を撫でた。「失礼ですが、このペロ君は保護犬ですか?」「ハイそうです、引き取ってから一年位になります。」
「実は僕の犬も保護犬何ですよ、このペロ君と同じで、確かな年齢が分からなければ犬種も不明、ですが滅茶苦茶な可愛い犬です。早くこの国もモット動物の権利が向上したら良いですよねェ..」
理解を示した会釈を互いに交わした後、並んで居た列からアカネとペロが外れようとした時、「アカネぇ、お父さんがペロの事見とくから、お前とお母さんだけでも中に行って来いよ?」「イィお父さん、大丈夫。私とペロは表の窓から見るからオ父さん達が中で見て。ペロ?私と一緒に表からイチロウを応援しましょ?!」
アカネは両親を遊戯室に入る様に促して、自身とペロは遊戯室の大きな窓ガラス越しから室内を眺める事にして、列から潔く抜けた。運が良い事に本日の地球の天候は快晴。気温もチト高めと在って、遊戯室を囲む全ての大きな窓ガラスは全開。身長が然程高い方では無いアカネでも、首から上は大きな窓ガラスの外枠に嵌る丁度の高さ。視界良好。表から見る遊戯室は、沢山の父兄達に混じってアカネの両親も確認したアカネ。二人共パイプ椅子に着席、父親は持参して来た年代物のカメラをシキリと弄って居る。問題はペロ。背伸びをしてもチト背丈が窓ガラスの枠に対して足りない。そこでアカネはペロを連れ出し、一度幼稚園から出た。この幼稚園の直ぐ近所に酒屋が在る。其処までペロと一緒に行き、酒屋のオヂサンから、六百三十三ミリリットルの麦酒の大瓶が二〇本入るプラスティックの空箱を一個借りた。アカネがコノ麦酒の空箱を借りた店こそ『タカハシ酒店』。そしてアカネがオヂサンと評した人物とはタカハシ。ゴロウの第一発見者だった功労者。
「アカネちゃん聞いてんよ!今日からだってえ?イッちゃんの幼稚園。御目出度うって言っといてよ!ア、後さ?麦酒と葡萄酒の箱の次の配達の日、何時にするよ?」「エェと..じゃあ次の配達は来週の水曜日で御願い出来ますか?ウチの生徒の皆さん、全員がオヂサンお薦めの葡萄酒がとっても美味しいって!」
「クゥゥ..嬉しいね!嬉しい事聞いちゃったね俺!実はさアカネちゃん?!俺がさ、家で毎晩試飲の為に呑んでんと、俺の糞婆ぁがウルっセエの煩ぇのったら大変よお。喧しいッ!俺は仕事の為に呑んでんだっ!ってモオ家ん中が修羅場。アカネちゃん?あれから確かにさ、俺んトコに別嬪さんのお客さんが増えたのよ!“アノぉ..アカネさんから御紹介を受けてぇ..”何て言っちゃってさァ!俺もぅ照れちゃって照れちゃって呑んでも無えのに顔真っ赤っかよ!有難う..アカネちゃん」
料理教室の生徒達と契約関係抜きにして、自宅の教室で土曜日の昼間、定期的に行われる食事会。この為にアカネは『タカハシ酒店』から定期的に酒を仕入れては、食事会で振る舞う。この食事会の会費は一切無料で、全てアカネの善意。彼等生徒が居てくれるから、私とイチロウも生活が出来ると云うもの..。このアカネとタカハシの軽快な遣り取りを、ゴロウは地面から四つん這いで見上げては思う(俺の死後も、アカネはこうやって地元の皆と仲良くしてくれてる。そして俺の精神もシッカリと受け継いでくれて居る..)反面チト歯痒さも襲う。自分は会話に入る事の出来ない犬。所業無常の響き在り。
空箱を左手に抱え、右手にペロのリィド紐を握り幼稚園に戻るアカネの後ろをトボトボ、やさぐれた野良犬の如く肩を下ろして続くペロ。未だ傷は癒えず。アカネ達が幼稚園の遊戯室の表に着いた頃には、既に入園式が始まって居て、遊戯室正面には全新入園児達が何列かに分かれ、高さが在るヒナ壇の上に新園児達が横に列を組んで並んで立って居た。これで父兄達にも自分達の子供の顔が確認出来る古典的な演出。壁側の園児達と、反対側に座る父兄達。園児よりに置かれた教卓に立つ園長先生が、一人一人の園児の名前を呼んでは、入園証書を手渡して居た。勿論の事、物語の主役格のイチロウの名前は未だ遊戯室には轟いては居ない。
「良かったァ間に合ったわよペロ!」
アカネは一番見晴らしの良い窓ガラスの所に麦酒の空箱を逆さまに置いた。
「ペロ、この上に頑張って立てる?」
自分の言ってる言葉がペロに理解出来なくても構わない、だけど今の気持ちを彼に伝えたいアカネ。勿論ゴロウは完璧に理解。「ピョン」簡単に空箱の上に飛び乗った。アカネとペロは大きな窓越し、お互いの首を出して中を観覧。ゴロウの眼に映るヒナ壇二段目、丁度真ん中辺りで直立するイチロウ。緊張して居るのか?チト表情が強張ってる様にも見える。園児の名前はヒナ壇一番手前、右側端から順に呼ばれて居るみたいだ。徐々にイチロウの順番が近付くのが分かったゴロウ。ゴロウの左側に立つアカネも、何時の間にか無言でイチロウの事を眼で追って居るのが分かる。共に同じく無言。
「イチロウ君!」「..ハぁぁイっ!」
冒頭の「..」は緊張を表したもの。人生初めて、赤の他人から滑舌良く自分の名前を呼ばれて、チト混乱のイチロウ。先ずは転ばない様にと気を付けて、慎重にヒナ段から降りるイチロウ。地面に降り立ったイチロウは、遊戯室中央の教卓に立つ園長先生の元にギコチナク進む。園長先生から入園証書を震える両手で受け取った瞬間だ、「イチロオオオオっ(ウオオォォォ..っっんッ!」
ペロが吠えた、ゴロウが吼えた。
この瞬間、遊戯室に居た全ての人間がアカネとペロの方を振り返った。イチロウ然り。大きな窓枠の縁に乗っかって居る二個の頭。一個はアカネで、もう一個はペロ。アカネは両腕を窓のサッシに置いて、両手で顔を押さえて真剣な眼差し。そのアカネの右側には、サッシに両前脚を乗せたペロ、垂れ目でガチャ眼でヒラメ顔のペロがイチロウに「ひょっこり」見えた。この画が何とも滑稽に映ったイチロウ、一瞬で緊張の糸が解けた。それと同時に途轍も無く高揚した幸福感も在るイチロウ。こんな快感は母親アカネの子宮から誕生したアノ時以来かも知れない。
(僕、お父さんの息子だから泣かないもん!)思い切り上半身を前屈みに折って、泣き顔の表情がゴロウにバレない様、顔を伏せた。果てし無く長く感じた数秒間、気持ちを何とか整えたイチロウ、その伏した上半身を勢い良く持ち上げた。入園証書を両手に強く握り締め、胸元に皺の隙間も作らず「ビッ」と掲げる。満面の桜の桃色達が天井高く降り注ぐ遊戯室。ゴロウとアカネの『意識』は気が付くと遊戯室の中。お互いの手を取り合ってパイプ椅子に座る二人、父兄席でイチロウの満面の笑顔を目撃の二人、イチロウから飛んでやって来た笑顔を更にイチロウに送り返す。笑顔の倍返し。
入園式は無事に終わり、既に入り口で三人の事を待って居たアカネとペロ、アカネの両親がイチロウを伴って幼稚園から出て来た。
「ヨシ!幼稚園の門の前で一緒に記念写真を撮ろう!」
門の前に向かった五人は通りすがりの父兄に頼んで、五人全員とペロの写真を撮って貰ったり、アカネの父親が四人とペロの写真を撮ったり、アカネの母親が四人とペロの写真を撮ったり、アカネが四人とペロの写真を撮ったり、イチロウがペロだけの写真を撮ったりと組み合わせは色々。
「よしアカネ。最後にお前とイチロウ、そしてペロを一緒に撮って家に帰ろう。」
アカネの父親の指示の下、立ち位置に翻弄させられるアカネ達、行ったり来たり。漸く画が決まったみたいだ。
「よォし、今日一番最高の写真を撮ってやるからな!」「あっお父さんッ?!ちょっと待ってえっ!」
アカネの父親がカメラのシャッタアを押す直前、アカネが制止した。咄嗟にアカネは地面に置いて居た手提げ鞄の中から、一個の細長い箱を取り出した。ソノ細長い箱を開いたアカネ。其処から現れたのはゴロウの茶色いネクタイ。このネクタイを絞めてアカネと初めてデェトに臨んだゴロウ。そしてゴロウはコノ茶色いネクタイを締めてアカネに結婚を申し込んだ。大事に仕舞われて居たシワ一つ無い茶色いネクタイが箱の中には在った。丁寧に其のネクタイを取り出したアカネはペロの目の前に蹲み込む。
「ペロ、良い?ジッとしてて?」
先ずペロの首輪を外してから、其の後にネクタイをゴロウの首に巻いてあげた。
「クウぅぅん(アカネ)..」「良し出来たぁ!キャハッ、ペロっ男前ェッ!」
父親から見て、幼稚園の門の右側にアカネ、左側に入園証を広げるイチロウ。そして二人の真ん中で直立不動(お座り)のゴロウ。
「じゃあ行くぞォ、お前達チャンと笑ってなぁ!?..イチ、ニぃ..サンっ!」
「パシャっ」
アカネの父親が押したカメラのシャッタァが先か?其れともコノ擬音が先か?
「ウオオオオオォォォォォォォンン..」
地球を揺るがす程の野生狼の咆哮、イヤ、実際に地球は揺れたかも知れない。だが今はそんな事など如何だって良い、男泣きのゴロウ。お願いだ、今だけは気が済むまで声が掠れるまでゴロウに泣かせてやってはくれないか?
「ア..」
翌日、アカネの父親が写真屋から受け取ったソノ記念写真。哀しい事に茶色いネクタイの色とペロの全身の体毛の色が完全に同化。茶色と茶色が合体して出来上がる新色は茶色。ゴロウの茶色いネクタイの面影を全く感じさせない記念すべき一枚となったのは此処だけの話。だが其れで良いのだ、あの時の三人が撮った想い出は決して消える事無く永遠に残るモノなのだから。
*『第四話』の何処かでミユキが吐いた一言、“一瞬”。この一瞬とは地球では“三百六十五日”を指して居る。
「如何して“一瞬”の長さが“三百六十五日”何ですかぁ?」一読者からの質問
「都合が良いからです。」作者談
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