第一話 惑星地球にて、終わりの始まり

 ———ゴロウが不意に背後から刺されてから、一体どれ位の時間が経ったかはゴロウには知る良しも無い。刺された感触は確かに在った。だがゴロウには刺された直後も、出血過多で意識を失いつつ在る瞬間も、“痛み”と云う感覚が全く無かった。自身の肉体が伏せる地面のアスファルトの冷たさは確かに感じながらも、何者かに不意に刺された腰の局部に関しては未だ痛みを感じないまま、取り敢えず地面に臥せるしか方法が無いゴロウ。身体が全く動いてくれない。アスファルトと接吻をして居るみたく、地面とピッタリ貼り付いて居る状態の顔面。俯せの体勢で思いっ切り前のめりで倒れて、鼻をアスファルトの地面に強打した。鼻を激しく打ち付けた瞬間、ゴロウは確かに「ピッカピカ」に光る星を何処かに見た。

 (ウワっ、本当にアタマ激しく打っけたら、星って見えんだなァ..)

 因みに三個の光る星を見たゴロウ。地面のアスファルトに鼻を打つけた両方の鼻穴からは、大量の出血。自身発の血ながらも、強烈な鉄分の臭いがチトきついゴロウ。そして何故だかコノ強打した鼻に関しては激痛を覚えた。両眼の神経を「キィィィィン!」と襲う得体の知れない痛み?感覚?泣きたく無いにも関わらず、兎に角ナミダが両方の眼から地面に垂れ始めた。ゴロウの『意識』は鼻のみに集中して居るが、客観的に見ても刃物で刺された下半身の局部に、本来ゴロウの『意識』は向き合って行かなければいけない筈。

 (あッ、そっか?..そう言われるとソウだよな..何で俺、刺された腰の所には全然関心が無いんだろ..俺あん時、絶対にガッツリ刺されたのになぁ..ア、そっか!痛く無いからだ!ウン大丈夫!俺は絶対に助かる!)

 今もしも願いが叶うなら、ゴロウは一体何を思うのか?

 (寒い..アト血の固まった部分が冷えて冷たい..ホッカイロ欲しい)

 ゴロウが一人淋しく横たわる小道。漆黒の世界。通行人どころか動物一匹も居ない孤独な世界。そんな暗闇の中に、一個の小さい光が浮かび出した。自信を持たない卑屈で優柔不断な一点の光。この様な不安定で血の通った光を作れるのは人間しか居ない。横たわるゴロウに向かって徐々に近付きつつ在る光。それと共に「ハぁハぁ..」と云う卑猥な効果音もオマケで付いて来る。

 (嗚呼..畜生、俺も歳かな?日に日にチャリンコのペダルが重くなって来やがる..)

 この光の持ち主は前輪を回転軸が擦る事によって、光が自発的に発生するダイナモ搭載の自転車。人間の漕ぎ具合でソノ光の明るさ加減は烈しく変化する。惨めに地面に転がるゴロウに「ユぅラリ..ユぅラリ」暗闇で揺れる光が徐々に近付いて来る。その光は一瞬明るくなったり、次の瞬間には一気に暗くなったりと全く節操が無い。恐らく自転車の主は、年齢が故に余力を持たない糞ジジイ、又は糞ババアの二者選択で決まりだろう。その自転車は油が必要な位、チェインが上手いこと働かず「キリ、キリキリ..」と云う不快な不協和音を鳴らしながら、ゴロウの方へと近付いて来る。自転車の持ち主は、ゴロウの家の近所で個人酒屋を営むタカハシ。タカハシは丁度配達の帰り道で、この電灯が一個も無い小道を通って居た。ゴロウはタカハシの事は良く知って居た。勿論タカハシもゴロウの事を良く知って居た相思相愛。値段がスゥパアマアケットに比べてチト割高にも拘らず、必ずタカハシの酒屋からゴロウは家の酒を買って居た。探して居る酒がタカハシの店に無かったら我慢する、縁が無かったと思い潔く諦める。決して大手の店では酒は買わない。こんな偏屈な拘りの美学を持つゴロウ。この思想はゴロウの母親から洗脳されたモノだ。

「良いかい?ゴロウ。“友達”って云う言葉を軽々しく使う人間の云う事なんかは、話し半分で聞いときな。彼等は簡単にゴロウの事を裏切るからさ。直ぐ彼等はドッカに飛んでっちゃう。友達は身が軽いからね。だけどねゴロウ、御近所付き合いだけは大事にしな。彼達は同じ場所にズぅぅぅっト住んでて、住んでる地域を少しでも良くしようと同じ地域の皆んなで助け合ってる。だから困った時には彼等は絶対に助けてくれるから、だからゴロウも彼等が困って居る時には、もし自分が大変でも絶対に助けるんだよ。親切は自分が余裕が在る的に出来るもの、優しさは自分に余裕が無いけどしたいもの。分かったかい?」

 亡くなった苦労人らしいゴロウの母親の口癖だった。コレは恐らく生前の彼女の実経験から産まれた格言だろう。

 暗闇の中、自転車を漕ぐタカハシ。ほんの一〇〇メェトル程向こうに紺色っぽい大きな塊を見た。周りは明らかに真っ黒な世界なのだが、ソノ塊の色は何故か暗闇から浮いて見えたタカハシ。

 (アっ何だ?人間でも死んでんのか?早く小便してぇから帰んべ帰んべ。)

 大きな紺色の塊を横切ろうとした時だ。

「フハっ!」

 既に曾孫も居て、年齢的にも酸いも甘いも経験し過ぎたタカハシ。思わず言葉に出してしまった小っ恥ずかしい奇声。

 (ヒっ、人じゃねぇかよ!本物のッ。それに血だらけじゃねえか..コレって..死体って云うヤツかよォ..?人生長え俺も今日初めて見たぜ..出けぇなァ..)

 気が動転して、思わず軸の左脚が自転車の胴体と絡まって転びそうになったが、何んとか左脚を地面に置いて、自転車から降りる事が出来た。

 (フぅぅぅ..ん..)タカハシは何とか心を落ち着けようと、右胸ポケットから『ゴォルデンバット』の箱を震える左手で取り出して、一本を抜いては口元に含んだ。右手の同じく震える指でマッチを何度も擦ってみたが、極度の緊張のせいか、中々肝心の火が点いてくれない。マッチ棒だけが空中で空振りする事もシバシバ。何本ものマッチ棒を無駄にした後、漸く火を点ける事が出来た。

 (プうぅ..すぅぅぅぅ..)気を落ち着かせる様ゆっくり、タカハシが吸う煙草の煙が「ユぅラリ..ユぅラリ」暗闇の宙を舞うのと同期して居るかの如く、煙草を握るタカハシの左手も「ユぅラリ..ユぅラリ」と痙攣を繰り返す。。

 (そう、そうよ俺。落ち着けェ..落ち着けェ。コレ吸ったら早えトコお巡りに電話しねェと..)

 何度もタカハシは自分に言い聞かせる様に呟く。ようやっと煙草の残りが九分の一程になった時、煙草を地面に落として右足で煙草の火を擦り消した後、深呼吸を「すぅぅぅ..ハァァァァ..」この一個に始まり、合計で三回、深々と吐いた。そして黒電話を右ズボン前のポケットから取り出しては、一一〇番に掛けられる余裕が出来た。イヤ、実は未だ余裕は無かった様だ。確かに黒電話は出せたが、肝心の黒電話の電話線がズボンの中の糸のホツレと絡まってしまい、中々ポケットから伸ばす事が出来ない。

「クソっ、こんな線が短けえと受話器が俺の耳に付かねえじゃ無えかよッ。」

 やっと取り出せたかと思ったら今度は指が緊張でプルプル震え、何度も何度も〇いダイヤル盤の数字の違う穴に指が入っては、“一二〇”や“一一八や“二二九”に掛けてしまうタカハシ伯父。そうして漸く一一〇番に掛ける事が出来た。 

「ア..お巡りさんですか..?..ア..あのね、スンマセン。こんな時に他の奴等は何て言うか分かりませんけど、コ..此処にね、人間が居るんです。..えぇ、ウン。はい、服の色は紺色で背広を着て居ます..ハイ、ハイハイ..そうです死体です、此処に人間の死体が在るんですわ。..ア、あのォ早いとこ此処に来て下さいねェッ!?俺ぇ怖えからさぁ..」

 

 普段はとても物静かな住宅街の夜が一変、急に騒々しくなった。各家庭の赤子は泣き叫び、飼われて居る犬猫オウムは吼えまくる。今の時間は夜の十九時頃、生身の人間達にとってのコノ時間は、日中の煩わしくて非生産的な人間関係から解き放され、昂ぶった神経を落ち着かせる事が許される、平和で平穏な束の間のヒトトキ。無音の住宅街に突如として鳴り響く、烈しいサイレン音を聞いた地元民が、次から次へとサイレン音を頼りに事件現場にやって来る。他人の不幸は蜜の味。野次馬の住民達は、自身の黒電話を使っては知人達に実況見分をする始末。ゴロウを中心として野次馬が広がる事件現場の一帯には、“関係者以外の部外者立ち入り禁止”の黄色いテェプが広範囲で張り巡らされ、ゴロウの周辺には青いビニィルシィトを被せ、辺りを囲む野次馬達にはゴロウの姿を拝める事が出来ない。地元警察からはミタ警部を中心として、暇を持て余す手持ち無沙汰の警察官が約一〇〇〇名程。警察車が三〇〇台。救急車も既に到着済み。

「此処に人間の死体が在るんですわ..」

 第一発見者役のタカハシは確かに断言したが、肝心の作者は敢えて其の点をボカして描写して居る筈。もしも疑問に思う読者が居るので在れば、自身の眼で確認して欲しい。我々は其の分野の専門家では無い。タカハシ伯父は「此処に人間の死体が在るんですわ..」と台本通りに読んだみたいだが、本当にゴロウは死んで居るのか?実は張本人のゴロウにもソノ確信は無い。其の筋の本職の人間が肉眼で先ずは確認、ソコから長年の知識と経験を軸に分析して初めて“生死”の行方が明らかとなるのだ。地面のアスファルトで全く動かないゴロウを見下す、ヴェテラン救急隊員のサイジョウが呟く。

「こりゃ奴さん..もぉ逝ってんよね?だってさ、身体が死後硬直でガッチガチじゃん。」

 ゴロウの第一発見者で在るタカハシが警察の実況見分に真顔で応じて居る。この地域で代々酒屋を営むタカハシ。勿論タカハシにはゴロウを殺す動機など無い。

「一日大体タバコを何本吸うんだ?もしも長生きしたかったら煙草は直ぐ止めた方が良いぞ。けど..まぁイイか!生き方はヒト其々、長生きが幸せって云う事も無いしな。ゴメンっ爺さん!俺ちょっと干渉し過ぎたわ。いっつもコレで女房に怒られんの、俺のいけない癖何だわ。だけどさ、やっぱ心配しちゃうのよ他人の事..」

「てかさ、爺さん?あんた、自転車のヘルメット被って無かったろ?髪無えじゃんアタマに。見事にツルッ禿げじゃん?プっ!..駄目だよォ、チャンと頭にヘルメット被んないと。禿げだから..プっ!..あ、アタマ打ったら脳味噌に諸に来るぜ?!」

「如何してチミの自転車の錆びたチェインに潤滑油を塗らないのだ?“今コノ話を読んでる読者が不快に感じる耳触りな擬音語になる”。こんな簡単な事が如何して分かんないのだ?」

 タカハシの年齢の事など全く考慮しない警察官達。次々と間髪入れず、老体のタカハシに場違いな質問を浴びせる彼等。タカハシは真摯な態度で自身の記憶に在る限りの情報を彼等に伝え、そして彼等からコノ死体の正体がゴロウだと聞かされ、思わず腰が抜けてアスファルトの地面に臀部から落ちた。

「オイオイ、爺さん大丈夫かよォ..」

 一個目の質問をした警察官の一人が、右手を地面のアスファルトに転けたタカハシに差し出して、タカハシは其の手を握り締めながら呟いた。

「何んてこった..あんな良い人が..。ゴロウさんよォ..」

「すみませェんッ! ちょっとスミマセぇンっ!」

 (チラ見でも構わないから人間の死体を見てみたい..)

 と云う野次馬達で溢れ返る群れの最終尾から、若い女性の叫び声が現場に轟く。その直後、一体何を野次馬達は感じ取ったのか?野外や屋外で開催される音楽祭典の熱狂した聴衆達の如く、野次馬連中が皆一斉に、暗闇の天空に向けて両手を掲げ「ユラユラ..」揺れる即興の“掌の波”を創った。その人力製の波の向こう側、大群衆の一番最後尾から一人の女性サァファアが突如出現。両腕両手で巧みに上手く身体の重心を操りながら、この巨大な人力波の流れを完全支配。遥か奥の“掌の大波”に乗ってやって来る。その女性サァファアの波乗り技術の余りの巧さに、実際に波を創って居る野次馬達も更に大興奮。事件現場に集まる野次馬達は互いの存在など一切知らないが、今この瞬間だけは気持ちが高揚して覚醒状態に陥った。

 (此処に居る全員で一緒に一体感を感じたい!此処には一切の暴力や差別なんて存在しない!)

 彼等は互いの両腕を暗闇の天空に掲げ、知らない各自が両手を握り締め合い、大群衆の所々に⚪︎い大きな⚪︎(輪)を頭上に創る。そして空中の暗闇でバラバラに点在して居る⚪︎い穴が、群れの中で少しずつだが徐々に揺れながら場所を移動。人混みで創られた大きな人波、其の大きな人波の海上で激しく波打つ“掌”の大波小波。中には片手を高く掲げてジッポォライタァで焔を上げる遭難者も出現。真っ暗な夜の海面に点在しては灯る、生に対する拘りを連想させる淡く輝く光。するとソノ光目掛けては海面に飛び跳ねる(ダイヴ)沢山の人間魚!人波と人波とが激しく打つかり合い(モッシュピット)一段と人波を揺らす。熱気と大興奮のせいでチト汗臭し!だがそんな危険な状況下の中でも女性サァファアは前進する事を止める事無く、只“陸”だけを目指し、両腕を左右に激しく振りながら大波の掌を滑って行く。海上では一個の⚪︎い穴と一個の⚪︎い穴が合体しては、一個の長い⚪︎⚪︎い穴に変化する。其れ等の⚪︎⚪︎い穴達は次々と繋がって行き、とうとう細長い洞窟の様な一本の*⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎〇〇〇◯◯◯い穴へと姿を変えた。

 其の時が来た。人力製大波(ビッグウェイヴ)が創り上げた*⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎〇〇〇◯◯◯い穴の中を滑り泳ぐ女性サァファア。サァフィン用語で喩える事の“チュウブライディング”。至難の業としてサァファア達には知られる神の宿る技。有り難い事にコノはゴロウが待つ“陸(事件現場)”と云う事件現場の手前の“浜(群衆の前方部)”まで続いて居た。

「如何やらアソコが浜ね..ヨシっ、もう直ぐだわ!私、頑張れッ。」

 *⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎〇〇〇◯◯◯内の中盤辺りを滑る彼女、〇の向こう側に漸く地上の景色が見えて来た。此処から更に速度を上げる彼女。 

「すみませェェんッ!チョットすみませェェん!私を行かせて下さァァいッ?!」

 漸く“浜”に上陸した女性サァファアは、其処から更に、既に余力を残して居ない筈の両腕全ての筋肉を使い、未だ目の前に立ちはだかる人混みの中をクロォル泳ぎの要領で掻き分けながら、ようやっと陸サァファア達(警察官)が群れる“陸”に辿り着いた。だが此処で彼女の目的は終いでは無い。体力を既に使い切ってしまって真っ直ぐ歩く事が出来ない。「ヨロヨロ..」然し確実に一歩一歩、立ち入り禁止の黄色いテェプの方角に歩く女性。

「何だよ姐さんッ横入りしてんじゃネェよ!死体見たかったら後ろにチャンと並べ、バぁぁカ!」 

 状況を全く知らない野次馬の中には、先を急ぐアカネに対して心無い罵声を浴びせる輩も居た。コレだけの数の人間が今集まって居るのだ。一個の巨大な群衆の塊の何処かで罵声を吐いても絶対にバレない!腐り切った集団心理。

 (勝手にしてッ、そんな事何て今は如何だって良いの!早くアソコに行かないとッ) 

 失意からやって来るのか?疲労からやって来るのか?兎に角「フラフラ..」と全身を震わせながら、黄色い立ち入り禁止のテェプを潜ろうとしたアカネに対し、一人の若い警察官が制止した。

「あッ其処の人おっ!下がって下がってッ、入んない入んない!此処から先は関係者しか入る事が出来ないから下がってよおッ!」

「私はコノ人の妻っ、人妻ですッ!」

 焦りと怒りと疲労とが混じり合って顔面が真っ赤に染まるアカネは、自分の立ち入りを拒否した若い警察官に対し、固く握り締めた右手拳を高く宙に掲げて力強く叫んだ。

 (ん..?ア、今私が言った台詞の中の“人妻”って..チト使い方が間違ってたかも知れないかも..)

 若い警察官はアカネに向かい、透かさず謝罪と敬意を込めた敬礼を示し、アカネの目の前の黄色いテェプを彼女が潜れる位に捲り上げ、アカネを中へと誘導した。

 アカネがゴロウの事件現場にやって来た理由は、今アカネを取り囲んで居る野次馬達と同じく、近所の知人からの一本の黒電話。

「あッ、アカネちゃん?私わたし。ア、あのさ、もうゴロウさんって家に帰ってる?今さ、ホラ?アカネちゃんから直ぐ行った小道が在るでしょ?彼処で若い男性が刺されて殺されたらしいのよォ」

 この知人は廻りから伝わって来た情報から、今夜の被害者の特徴がゴロウと酷似して居る事に気付き、一応アカネに連絡をしたのだった。アカネと息子のイチロウは共に台所に居て、其の部屋にはテレビは置いて無く、テレビは居間にしか無い。だから今回の事件も知る由も無い。家全ての窓ガラスは閉め切って居て、表からの騒音は其れ程は聞こえて来ない。だが確かに、アカネも台所でサイレン音を聞いた様な気がする。今この瞬間の自分の人生と、喧しいサイレン音の接点など無い。そう思い無視をしてたアカネ。受話器を右手で握り絞めたまま、黒電話が在る居間の壁時計を思わず見上げたアカネ。

 (十八時十三分..確かにチト帰りが遅いかも..)

 チト動揺が走ったアカネ。通常のゴロウは仕事の残業など頼まれない限り殆どする事無く、キッカリ十七時丁度に仕事を切り上げては退社。其処から駅に向かいピッタリ何時もの時間の電車に乗車。地元の駅で降りた後、駅前のロォタリィで市営バスにキッチリ乗車。地元の大通りのバス停で下車した後、其のまま大通りを通るか、例の小道を歩いて来るかして、バッチリ何時もの時間に帰宅。キッカリとピッタリとキッチリとバッチリ、是等の四個の言葉が非常にシックリ来る几帳面のゴロウ。今アカネが壁時計で確認した十八時十三分と云えば、丁度家に帰って来たゴロウが息子のイチロウと一緒に御風呂に入り、湯船の中で男同士の今日の反省会。若しくは既に御風呂から上がって、親子三人一緒に食卓を仲良く囲む至極のヒトトキ..の筈。万が一帰宅が遅くなる時は、事前にアカネに連絡を入れる愛妻家ゴロウ。だが今晩に限っては其の連絡も無い..チト嫌な胸騒ぎがしたアカネ。

 (まさか..ネ)

 本来ならばモット早く現場に駆け付ける事が出来たのだが、自宅に息子のイチロウを独りぼっちに置いては行けない。然も一緒に事件現場なんかにも連れて行きたくも無い。もしも..もしも被害者の正体がゴロウだったら、其の時の私は自分の事だけで精一杯になるに違い無い。其れにイチロウにゴロウの死体何て見て欲しくも無い..。

 (そうだ!そうだわ、実家の事を忘れてたッ。お父さんの所にコノ子を置いて行こう。)

 既に先の知人との会話は終わって居て、だが其のまま黒電話の前に立ち尽くして居たアカネは又、黒電話から受話器を勢い良く持ち上げて、実家に電話を掛けた。

「はい、モシモシ..」

 三回続いた呼び出し音から出た相手はアカネの母親。

「あらぁアカネ、一体如何したのよ?何だか焦ってるみたいじゃ無い?」

 アカネは夫婦で隣町に住んで居る母親に電話口で状況を簡単に説明した後、今度はタクシィ会社に電話を掛けて、家まで来る様に一台お願いした。其の後が大変だった。三歳のイチロウを急かしては外出の準備をされた。勿論ソレと同時進行で自身の準備も整えなければならない歯痒さ。頭が如何にかなっちゃいそうッ!五分?一〇分?ウゥン全然分かんない、けど多分その位の時間だったと思う。バタバタお家の中を行ったり来たりする私は渡り廊下を横切ろうとしてて、タクシィのヘッドライトの眩しい光が玄関戸の磨りガラス越しに見えたの。

「イチロォっ!?準備チャンと出来たのォっ?!」

 ってイチロウ..既に玄関の上がり框の所に座って私を待ってた。

 (最後にもう一度、お家の戸締まり確認をしなくちゃ。其れから全部のお部屋の電気も点けて行こう..)

「あッ、あのスミマセン運転手さん?!チョットだけ急いでるんです!出来れば運賃を稼ぐ為に遠回りはしないで先ずは私の実家ッ、其の後で又お家の方に戻って来て頂けません?!」

 私はイチロウを実家に置いて来た後、其の同じタクシーで此処までやって来たのだ。

 (何?..此処、一体..物凄い人達が群れてて向こう側が全然見えないじゃ無い?嗚呼..どぉしよ、此処から一体どぉやって私が向こうの世界まで行ったら良いんだろう?)

「チョットすみませェんっ?!少しだけ隙間を開けてくれませんかァ!?すみませんっ、本当にスミマセぇン?!如何か、如何か!私を中に入れて下さァァいっ!」

 なにか急に其の時、私の中に激しい怒りが産まれたのを覚えてる。誰も私の御願いを聞いてくれないの。こう云う人間って大っ嫌いッ!

 そして私は充分な距離を行列の一番から取っては全力疾走。

「エエイっ!」

 腐った脳味噌が詰まった人間達の頭上に跳んだの、だって其れしか方法は無かったから..

 



 第一.一話 イチロウの深層世界「世のオトナ達必見!三歳児は大体、頭の中でこんな事を考えて居ります。」

 

 (うゥゥゥン..お父さんの帰りが遅い遅い遅いよォお父さぁん!トンカツ冷めちゃうゥッ。)

 僕が悶悶としながら部屋のソファアの真ん中に座ってテレビ観て居たら、急にお母さんが、

「イチロウ、オババとオジジの所に今から行きましょ!」

 人間としての二人は賞味期限切れ。だから二人ともチョット古臭い匂いが身体からして来るけど、僕は勿論二人の事が大好きだしィ..オジジなんかは特にさ、僕が欲しい物を何でも買ってくれるしィ..ウン勿論!行かない理由は無いね。

「そうだ!トンカツを二人にも持っててあげよぉよォ?!」

 って、お母さんに催促したんだけど、

「駄目よイチロウ。揚げ物の油と動物性脂肪は老人の体には良く無いの。」

 ドウブツセイシボウ..?難解過ぎて僕には分かんないや!

 

 其れから僕は一人でお洋服を着てぇ..一人で帽子を被ってぇ..靴も自分で履いてぇ、寝室の洋服箪笥の辺りで右往左往して..(ア。読者の皆さん?コレちゃんと読めますか?『ウオウサオウ』って発音するんだよ!)..るお母さんに、

「お母さぁぁんッ?!僕一人で全部出来たよォ!褒めて褒めてェッ?!」

「アラ凄いわね、イチロウ。本当に良い子ね。」

 僕知ってる、今のお母さんのコノ棒読みの台詞。大人が良く使う常套手段、絶対に心から想って無いヤツだ。まぁ良いや、今日は許してあげる。

 僕は玄関でお母さんを待った。お母さんは寝室で、着て居た洋服を脱いで、皆んなでお買い物に行く時の綺麗な洋服に着替えてる。僕のお母さんは全く化粧をしない。嫌いなんだって。だから僕のお母さんは素顔が一番キレイ。だから僕も大きくなったら、お母さんみたいな化粧をしない女の人と絶対に結婚するんだァ!。だから顔面美容整形してる女の人は御免ね!僕には無理だ、手に負えない。

 

 (未だかな?マダかなぁ?)

 玄関の上がり框に座ってお母さんを待って居たら、テレビの部屋の方で、お母さんが誰かと黒電話でお話ししてるみたい。ソノ電話が終わった後、

「イチロウ?もう直ぐタクシィが来るから急いで準備してね!」

 お母さんは焦って居るのか?逆に玄関でお母さんを待ってる僕の存在に全然気付いて無いみたい..。お父さんも未だ帰って来ないし、お家にはクルマは在るけれど、お父さんしか運転は出来ない。お母さんは免許が無いんだ。何でもオジジが焼き餅を焼いちゃうからって。食べるお餅の方じゃ無いよ?!繊細な人間の心の描写を表現する際の比喩法の事ね、大丈夫?

 

 僕は玄関の上がり框で、オジジ達の家に持ってく『ペロ。』って云う児童文庫を読みながら、お母さんとタクシーを待った。

「エェっとねぇ、其の内容ってねェ..ゴロウさんって云う大人のオヂサンがさ、この僕のお家の直ぐ行った小道でね、殺されてしまうの。其の殺した相手ってねぇ、ミ..」

「イチロォ!準備は良い?表に出てタクシー待ちましょ?!」

 お母さんも何時の間にか出掛ける支度が終わって、寝室から僕が居る玄関口にやって来た。

 普段はとてもオットリしてるお母さん。今晩は一体如何したんだろう?お母さんが靴を履き終えた矢先、玄関の磨りガラス戸の向こう側の世界が光った。ムムム..この光の正体はタクシィのヘッドライト、タクシィがお家に到着したに違い無い。そしてこのヘッドライトの輝き具合..『日産フェアレディZ S三〇型』に間違い無い!

「来たわよ!イチロォ?早く行きましょ!」

 上がり框に座る僕の右手を強引に引っ張っては急かすお母さん。僕の方がズット前から待ってたんだけど?..大人って不思議な人種だ。僕も将来は、こんな余裕の無い大人の人間になってしまうのだろうか?大人と呼ばれる人種がイッパイ自殺してしまうのも理解出来る様な気がした。

「僕の方がお母さんをズット待ってたんだよォ!」

 茶々を入れては、彼女からの大人な返答を待ってみたんだけど、お母さんの返事は無くてさ..「チェっ。」よっぽど慌ててるみたい。お母さんは僕の右手を、其のママ離す事無く引っ張りながら、家の目の前の公道に停まってるタクシィの後ろの席に座らせた。ホラね!やっぱりタクシィは『日産フェアレディZ S三〇型』だった!

 お母さんは僕を座らせた後、タクシィには乗らないで、又家の方に小走りで駆けて行く。お家の玄関の戸締りを確認する為に戻ったみたい。其れを終わらせてから、又コッチに小走りで戻って来て僕の右隣に鎮座。オジジ達の家までの行き先を、身体を少し前のめりに乗り出した体勢で、運転手席のタクシィオヂサンに手振り素振り使って、真面目な表情で一生懸命に伝えてる。今日のお母さん..人間としての経験値がチト未熟な僕としても、凄く焦っている感じがヒリヒリ感じて来る..)

 タクシィのオヂサンに行き先の説明が終わって、無事に車は走り出した。僕は滅多にタクシィなんかに乗る機会は無いけれど、お父さんのクルマとは又違った魅力が在る。その魅力を克明にココで説明する能力は、未だ義務教育が始まる年齢に至って居ないが故に割愛。

「だけどタクシィに乗ってると何か旅行に行く感じィ!」

 僕の隣のお母さんは無表情、だけど顔が青ざめてる感じにも見える。車の車窓に入り込んで来る、夜のヒカリのせいかな?駄菓子屋さんで僕が良く飲んでる添加物不純物一〇〇セントで出来てて、細長いプラスティックの容器に入ってる青いジュゥスみたいな色。お母さんは後部座席からフロントガラスを直視してて、僕は窓が閉まってる左側の車窓からの景色を傍観してた。「ア..見えた。」僕が良く知ってる駄菓子屋さんの汚いアルミ看板が見えた。僕は何時もコノ店で沢山のお菓子、オジジを誑かして買って貰ってるんだ。

「義務教育が始まる其のギリギリまで、徹底的に僕は『無邪気な子供』と云う特権階級を謳歌して、オジジとオババから一杯お菓子を買って貰うんだいッ!何なら二人が自己破産する迄。」

 明日になったら二人に連れて行って貰お!ウキウキして今夜、寝れるかな?ウシシ..。


 この駄菓子屋を右に曲がったら、オジジ達の家が在るだけは知ってる。ホラね、タクシィのオヂサンさんが右に曲がった。

 (もう少し..後もう少し..ア。居た!居た居たァッ。)

 オババとオジジの地縛霊がタクシィのフロントガラスから見えた。

 (居たぞ、僕の大事な金ズル!)

 お母さんと僕の事を、二体は老体鞭打ってオモテで待っててくれたんだ。俄然、糞老人の生命力を高める効能が在る“孫の抱き付き”。明日のお菓子の金額具合は、コノ僕の“抱き付き具合の強弱”、其の二人に真っ正面から抱き付いた僕が、透かさず二人を見上げる満面の笑顔。コノ二点で全てが決まる。僕は無邪気な孫を演じる為に気合いを注入し始めた矢先、タクシィは二人の真ん前で停まってくれた(フぅぅ..気合い充分満タン、間に合った..)。

「うわァァァンっ!お爺ちゃぁぁんッお婆ちゃぁぁんッ!」

 タクシィから勢い良く飛び降りた僕。勿論演技。若さと勢いに任せて、思いっ切り二人の胴体に向けて両腕広げて抱き付いた僕。勿論演技。今晩も結構イイ点数が行ったんじゃ無いかな?

「おぉおぉイチロウ..相変わらず元気だなぁ)

 下腹部に顔面を埋める僕の頭を優しく撫でるオジジ。一〇〇点満点中一〇〇点。

「フフフ..いらっしゃい、イッちゃん。)

 夫の身体に抱き付いてる僕を横から見詰めてて、この僕の渾身の演技にスッカリ魅せられてるオババ。一〇〇点満点中一〇〇点。

 オジジの身体に顔を埋めてた僕に聞こえて来たタクシィのエンジン音。

 (お母さんがお金を払って、タクシィのオヂサンは帰って行ったんだ..)

 僕は顔を持ち上げて後ろを振り向いた。だけど其処にはお母さんは居なかった。

「お母さん、何処に行ったの?」

 オババに聞いたら、

「イっチャンのお母さんね、ちょっと此れから大事なお仕事が在るって。」

 僕のアタマを優しく撫でながら言った。お仕事ならば我慢ガマン。

「イチロウ、腹が減ってるだろ?お前、未だ何も食べて無いんだろ?さ、オジジ達と一緒に御飯を食べよう。」

「うんッ!」

 僕は右手にオババ、左手にオジジの皺皺の手を握って、旧家屋の臭いが新世代の僕にはチトしんどい家の中に入ったんだ。

 

 「ぅぅぅん..分かんない。お母さんの其れからの事は僕は何にも知らない。」

 



———「此方の男性はアカネさんの御主人のゴロウさん..で間違いは在りませんか?」

 警部のミタは極力最低限の言葉数を使って、だが確実に相手が理解出来る言葉を選んでは落ち着いた口調、単刀直入且つ簡潔にアカネに尋ねた。理解が出来ず、尋ねた相手に同じ質問を繰り返して貰う事は即ち“旦那さんが亡くなった”と云う辛い事実を、最低二回は自身の脳裏で解釈する羽目になる。酷な聞き込みの仕方は俺の遣り方じゃ無い。

「ハイ、間違い在りません。私の主人のゴロウです。」

 ゴロウと云う回答が、自分の直ぐ足元でグッタリ横たわって居る事実が在るのに、態々時間を掛けて沈黙を演じる必要性が在るか?否や。アカネには無い。ミタの問い掛けの語尾が切れた其の瞬間に即答したアカネ。

 今アカネは外界と完全に遮断された大きな青いブルゥシィトの世界に居る。泣き崩れる事は無かった。コノ状況が未だ自分でも把握出来て居ない事も在るが、コノ状況を自分は未だ把握したく無い事の気持ちの方が強い。更に幾つかの質問を簡潔にミタから尋ねられたアカネ。全ての質問に対して即時に返答した。早く此処から逃げ出したい..

 五分は経過したのか?救急隊員達によって、ゴロウは折り畳み式の担架に乗せられて救急車の後部席に搬入された。

「ゴロウさんは此処から最寄りの緊急病院に搬送されますから。」

 ミタから説明を受けたアカネ。このミタの台詞を、離れた場所から聞いたサイジョウが

 (よし、此処からが俺の出番だよな?大丈夫かなぁ、台詞チャンと噛まないで言えるかなァ..)

「アカネさん。では一緒に同行して頂きます。」

 (良し!チャンと噛まないで言えた!)

 二人の側に寄ってアカネに尋ねた。

「はい。」

 ハッキリとした口調で返事を返したアカネ。

 

 (注)*⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎〇〇〇◯◯◯とは、海上の大波が畝って創り出した海水製トンネル(ビッグウェイヴ)の比喩で在る。この“ビッグウェイヴ”が有名な海は、米国のハワイ州とカリフォルニア州。インドネシアのバリ島。そしてサウスアフリカ、メキシコ、オォストラリア、コスタリカ..そして意外にもフランスも挙げられる。

 アカネは一番小さな⚪︎から潜り始めて〇を通過、そして最終的には一番大きな◯から飛び出して“浜”に上がった、と云う描写を表してみたが如何だったろうか?今作品は縦書きの原稿用紙で描いたので、如何しても“⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎〇〇〇◯◯◯”が、チト上から下に向けて“⚪︎”が落下して居る様にも捉えられるかも知れない。其の際はお手隙で、御手元のハァドカバァ本の『ペロ。』若しくは単行本の『ペロ。』此れ等を九〇°回転されて頂きたく候。

「この夏は是非とも皆さん?陰気臭い読書なんかサッサとやめて、イザ!世界の海に飛び込んでみては?!読書は人類の敵、読書は人間を馬鹿にします。——作者」 




 ———アカネとゴロウを乗せた救急車が総合病院裏口、緊急車専用の搬入口“ドック”に到着した。救急車は後方部からユックリと“ドック”に向けて後進し、衝撃を和らげるゴム製が打ち付けられて居る壁面部に、運転手(救急隊員)は車両の後部が打つかった感触を確認。広い後部席に乗って居た救急隊員達は、内側から観音開きの扉を開けて、先ずは人間のアカネを“ドック”に降ろした。全国の緊急病院の“ドック”の高さと救急車の後部席の床の高さは、必ず平行になる様に法律で決められて居る。ゴロウを乗せた折り畳み式担架はソノ段差を感じる事無く、救急車両から病院側へと潤滑に移送された。救急隊員達と病院側職員達の迅速且つ無駄が全く無い動き、ソレを側から眺めて居たアカネは思わず

 (凄い..何て美しい所作なんだろう..)

 一瞬、ゴロウの存在を完全に忘れては見惚れてしまった。

 死んだゴロウが乗せられた担架は、病院“アチラ側”の世界に持って行かれ、生きるアカネは病院“コチラ側”の世界の何処かに案内される近い未来。だが先ずは其の前に、“ドック”の男性職員から裏口玄関まで案内されたアカネ。同じ一階に在り、最低でも一〇回は廊下をクネクネ曲がった気がするアカネ。今自分が何処を歩いてるのか?全く分からないアカネ。ただ白衣を着て居る男性職員の背中を追うアカネ。

 急にアカネの世界が開けたソノ空間の向こう側。無機質だが丁寧な応対。今晩の当直らしき中年看護婦が簡易的な受付ブゥスの中からアカネを迎えてくれた。男性職員に連れて来られたアカネを目撃した中年看護婦は、其れまで着席して居たパイプ椅子から透かさず起立。彼女の起立と同時に“ドック”の男性職員は踵を返し、雰囲気を残さぬママ今来た廊下に姿を消して行った。

「アカネさんですね?どうぞ此方になります、私の後に付いて来て下さい。」

 この様な巨大総合病院でも個人情報は一瞬で直ぐに漏れる。アカネには其の本心を無表情の鉄仮面で誤魔化しては居るが、この中年看護婦はアカネの全てを知って居る。

 (私にも長年人生を共にする愛おしい夫が居る..もし、もしもあのヒトが誰かに殺された事を知らされたら..私、絶対にコノ私の後ろを歩く彼女の気丈な態度なんか出来ないわ..。可哀想なヒト..)

 同じ一階に在り、最低でも一〇回は廊下をクネクネ曲がった気がするアカネ。今自分が何処を歩いてるのか?全く分からないアカネ。ただ白衣を着て居る中年看護婦の背中を追うアカネ。

「どうぞ此方になります。担当医師の登場が在る迄、好きな席にお座りになってお待ちになって下さい。」

 広い待合室に通されたアカネと向かい合った中年看護婦は、身振り素振りで簡単な部屋の説明をした。此処で初めて諸にアカネの綺麗で端正の整った、然し明らかに窶れた顔面を直視した中年看護婦。

 (..見ちゃった..彼女の顔。丁度私の長女と同じ位の年齢かしら?..本当の私はさ、凄くお喋りで御節介なのよ..だからね、本当だったらアナタの事を思いっ切り抱き締めてあげてさ、慰めてあげたいのさァ..御免ね、でも仕事だから今は出来ないのさぁ..)

 アカネは?と云えば、ゴロウの件で深層世界が沈み切ってるが故に、悲観的且つ悲壮感満載の妄想を繰り広げて居るのか..?否や。アカネには無い。微力な頓珍漢な妄想が病んだ『意識』を微量ながらも救う。

 (この彼女も結婚してるんだわ..左手薬指に結婚指輪してる。言ったらチト失礼かも知れないけど..指輪キツそう。今の体型を彼女自身が気に入ってたら良いんだけど、もしも気にしてたら私の料理教室の存在を教えてあげたい..。私だったら彼女の体型..ぅぅぅん、ソゥねえ..三ヶ月ぅッ!三ヶ月間、シッカリ私の減量向け料理を食べたら絶対に痩せるわ!)

 見知らぬ待合室で独りぼっち。ついサッキ迄は殺気じみた群衆の眼が睨む中心部の事件現場に居て、警察官達が覆う、青いブルゥシィトで外界とは遮断されては居たが、実はヒシヒシと見えない沢山の狂気の視線(野次馬人数×二つの肉眼)のレェザァ光線を肌で感じて居たアカネは、

 (早く此処から逃げ出したい..)

 の一心だった。アノ事件現場で過ごした時間は苦痛以外の何物でも無かった。つい今し方、この待合室に通されたばかりなのだが、短時間で起こった環境の一瞬の変化にアカネの『意識』がチト付いて行けない。

 (今度はチト寂しくなっちゃった..何て人間って我儘なんだろォ..)

 物凄くタチの悪い孤独感を『意識』の中で閃いてしまった。トキ既に遅し、逆に今度は無性に人間が恋しく思ってしまった。無機質極まりない待合室に放置されたアカネ、此処には自分以外に誰も居ない。見た感じは普通の待合室なのだが、チト精神崩壊気味のアカネには違った様にコノ部屋を解釈してしまう。

 (立法体のサイコロの中心部に私は置かれて、身動きが全く取る事が出来ないの..。この私を食べたサイコロは「くるくる..」誰か人間が転がしてるんだけど、私には其の衝撃ナンテ一切感じない。出たサイコロの目の分だけ、私を置き去りにして人間達がコマを進めて行って、皆ぃんなゴォルに辿り着いて此処の部屋から出て行ったの、私だけ残して。..最後、このサイコロの中の私だけが世界に独りボッチにされた..死にたい)

 立方体の形をした待合室の中で、孤立感と失望感に喰い千切られてしまいそうなアカネ..に見えそうだが、実は復活も早いアカネ。

 (そうね、喩えば..ゴロウのお通夜と御葬式に、沢山の人達が一斉に顔を出してくれて。私のお父さんやお母さんも一緒に手伝ってくれてるんだけど、喪主の私はテンテコ舞い..額に汗何か掻いてたりしてね。今迄の人生で一度もお通夜も御葬式にも参加した事が無いけど、其れでも良いの。私だけのゴロウの御葬式を空想するの。其の創造世界の御葬式の会場で私は思うの..何て人間って死んだ後も面倒臭い存在何だろう?..何て人間ってコンナにも“生と死”に拘るんだろう?..もう思ったら私、急にゴロウにも弔問客にも疲れちゃって「もぉ皆んな!私の事なんか如何でも良いから消えて!帰ってえェェッ!」って叫んだら、皆ィんな一瞬で消えて私は此処に居た。たった独りで..)

「っぷ、アハっ!今の私って。ウケる!」

 “笑う”と云う行為が、人生に光を全く見出せない人間にとっての一番の薬。其れに次いで「ビンビン!」に効き目が在るのが“客観視”。自身の『意識』を離れた場所から、更に分身と化した自身の『意識』が傍観する行為。正に今アカネが行った(妄想)瞑想の一つ。「『意識』が病んでしまって如何しようも無い..」と云う其処のチミ!是非一度お試し在れ。

 (フゥ..何とかコッチの世界に戻って来れた..こんな時はヤッパリ変な妄想に耽るに限るわ。)

 広い待合室の一番手前、真ん中の椅子に座るアカネを囲む、様々な医療関係の大きなポスタァの貼り紙。暇を持て余すアカネは席から立ち上がり、ユックリと時間を焦らしながら、一枚一枚のポスタァを眺めて見た(どうせ私は、此処で暫く置き去りにされる設定なのだから..)。

 其の中でもアカネが一番気になったポスタァの一枚。其の内容とは、老い先短し痩せ細った糞ジジイが、これから先の未来を生きる孫の男の子と並んで立って居る。巨大且つ美観も見事に「ビンビン」の滝から弾ける落ちる水の流れ。激しく流れる水流が作り出す“動”を、激しく禿げてる糞ジジイの人差し指の“静”が、と或る一点を指差して居ると云う大きな写真画。

 (フぅぅん..この写真って二つの違った解釈で捉えられるわよね..。一つは、初老のお爺さんが御孫さんの男の子をコノ大きな滝まで連れて来て、其処で大自然の美しさや力強さを“人生”に掛けて彼に教えてる画。..ゥゥゥんとぉ後は..「この大きな滝の様に逞しく生きろ!」みたいな感じ?だけど私には後もぅ一個の感じ方も在るわ。其れは二人がコノ自殺の名所の滝を訪れた..自殺する為に。勿論お爺さんが勝手に御孫さんの男の子を道連れにした無理心中。自殺の理由は自殺した人の数だけ在るわ、私が今此処で軽々しく断言する事じゃ無いし、意を決して自殺した方々にも失礼に当るから言わない。だけどお爺さん?..御願いだからお爺さん一人だけで死んで。これから未だ未だ先に未来の在る子供を強引に連れてかないでッ!自身を生かす為に自身を殺す事は決して悪い事では無いわ、お爺さん。だから一人で逝って。だけどね、お爺さんが明日の朝に目が覚めたら又、同じお爺さんだから。何回自殺しても何回も同じお爺さんの人生。だったら一生懸命に寿命を全うした方が素敵じゃないかしら?お爺さんの人生だから私には勿論無理強いは出来ないけど..)

 一面の壁に貼られて居る一枚のポスタァに向かって「ブツブツ..」呟いて居たアカネ。

「..何か聞こえて来た..」

 一通りの妄想を終わらせて気持ちがチト落ち着いたアカネ。又再び現実世界コト待合室に舞い戻って来たアカネ。其処で何か雑音を耳にした感じが在るアカネ。アカネの両耳に聞こえて来た雑音の主は、待合室に鎮座する数台の自動販売機が発するモォタアァ音コト心臓の鼓動。壁に掛けられて在る大きな◯い針時計も「チッカチッカ..」其れなりに雑音を奏でて居る訳なのだが、チトいかんせん自動販売機のモォタアァ音の迫力には完敗。

 (こうやって針時計のゴロウも、自動販売機の誰かに負けて殺されたんだわ..)

 アカネが壁掛け時計の時間を確認しない限り、現在の時刻はココでは描写する出来ない。だが敢えて“真夜中”と云う設定にして置こう。“真夜中”と云う時間帯も関係しては居るが、待合室のアカネは人間が放つ雑音も聞こえ無ければ、其の気配も一切感じない。此処は果たして、沢山の入院患者や医療関係の人間達が二十四時間体制で巣食う巨大緊急総合病院の内部なのか?

 (もしかしたら私は、晩御飯を作って居た時に包丁で指を切ってしまい、夫のゴロウが運転する車に乗せられてコノ緊急病院に運ばれて来ただけなのでは..?)

 アカネが又もや妄想をし始めた巨大緊急総合病院内の待合室。椅子に座るアカネを「ぐるり」囲んでは、四方の壁一面に貼り巡らされて居る医療系のポスタァや宣伝チラシの全てを鑑賞、何度も完読したアカネ。何ならば全ての宣伝チラシの台詞を目を閉じて朗読出来る程。待合室と云っても出入り口は無い。アカネが椅子に座る待合室の正面、其の方角には左右に走る長ァァァい渡り廊下。アカネが座る待合室の正面向かって右側の渡り廊下から、過去のアカネは中年看護婦に付き添われて此処にやって来た。今一度アカネは席から立ち上がり、この長ァァァい渡り廊下の左右を眺めて見た。突き当たりが全く見えないアカネ、勿論老眼などでは無い。其れ程までに長ァァァい渡り廊下。手持ち無沙汰で(ドッチかの廊下を歩いて探検してみようかしら?..)フト思ったアカネ、だが断念した。病院で遭難死はしたく無い。

 (右?..其れとも、左..?もしも私の賭けが当たったら、もしかしてゴロウを生き返らせてくれるかな?..そんな訳無いよね..)

 一体何方の渡り廊下からゴロウの担当医はやって来るのか?待合室、長方形の天井にへばり付く沢山の蛍光灯の数々。流石は生命を生かすのが宿命の病院の蛍光灯。露骨に「テカテカ..」押し付けがましく輝いては、其の光を“生”に着火(比喩)しては自己主張。だが今回の相手が悪かった。失望と絶望のドン底に身を置く今のアカネには全く歯が立たない。其れでも必死に“生”を意識しては、待合室の天界にて煌々と明るく灯る、押し付けがましくも優しく輝く偽善製の拷問の灯り。だがアカネ、完全無視。

 (早く担当医がやって来ないかしら..?)

 此処で漸く、椅子に座るアカネは待合室の壁時計の時間を確認してみた。ゴロウが殺された日を跨いだ午前〇一時三十七分。地球の暦で見ると、ゴロウは既に昨日のヒト。小説で読むとゴロウは、既に前の“章”で出会った過去のヒト。哀しいけれど、私には私だけの未だ生きた人生が在る。其の私の人生の延長線上には、愛息子のイチロウの姿も見える。

 (そう..そうだった。今イチロウは何してるのかしら?..こんな時間だから寝てるとは思うけど..)

 イチロウが居るのはアカネの実家だから、こんな時間(午前〇一時三十七分)に電話をしても、迷惑だが別に失礼では無い。イチロウを預けてきた際、母親には夕飯の事はお願いして在った。アカネの両親、特に父親はイチロウには可愛さ余って甘過ぎる傾向が強い。

 (イチロウは、お父さんを近所のコンビニエンスストアァに強引に連れて行って、何か大好物の甘い御菓子を“おねだり”したに違いない..)

 実家のイチロウの事を考えてみたアカネだったが、本来考えねばならない事を避けたいが為に、息子の事を使っては妄想、現実逃避。実際にはイチロウの事など全く心配して居ないアカネ(私の両親が、孫のイチロウを粗悪に扱う筈が無い)。イチロウ?今はどうでも良い事。今一番考えなければならない事は、ゴロウ。

 未だ独りボッチ、待合室で担当医を待ち続けるアカネ。待合室、全ての壁に貼られて居る医療関係のポスタァの全て。其のポスタァの画に添えされた一語一句の全語。先程も描いたが、其れ等全ての台詞を暗唱出来る位に何度も読み返したアカネ。それに飽きたアカネは、ポスタァに写る人間達全てにアダ名を付けて遊んでみたり..だが其れもモゥ飽きた。

 (待合室の天井には一体何本の蛍光灯が付いているんだろう..?)

 ふと思ったアカネは椅子に座った体勢、其の儘で首を「クイっ」持ち上げて、視線を天井へと向けてみた。天井は所詮、天井の世界。見たことか、アカネの眼に映る規則正しく並んだ細長い硝子製の蛍光灯の数々。

 (数えてみよう..)

 一本..二本..三本..四本..時間をネチネチ焦らしながら、時間をジックリ掛けては数え始めた。本数が三十二本目になった時、天井を傍観するアカネの両眼から少しずつ涙が溢れて来た。その涙はアカネの頬を伝っては、彼女が着て居る洋服の上に垂れて、其の洋服の布の中に吸収されては消えて行く。ゴロウは昨日、三十二歳で人生が終わった。

 (涙って何か人生みたい..目から産まれては、必ず何処かに消えて行く)

 止め処無く湧き出す大粒の涙で視界は完全に塞がれたかに思えたアカネ、辛うじて柔らかい光の感触だけは感じる事は出来た。天井の三十二本目の蛍光灯から目を逸らさず、手で涙を拭う事もせず、只無心で泣き続けた。

 (やっぱり良かった..此処に私しか居なくて)

 ゴロウが横たわって居た事件現場。興味の眼差しでアカネとゴロウを見詰める、鋭く尖った野次馬達の眼光が眩しかった。性根が腐り切った生身の人間の集合体が創り上げた負のエネルギィの雰囲気も肌で感じて居た。野次馬の為に必死に自分の感情を抑え続けて居たアカネの何か、この蛍光灯が発する人工的な光が溶かしたのかも知れない。

 

 もう家にはゴロウは居ない

 もう家にはゴロウは帰って来ない

 もうゴロウのご飯は作らなくてもイイ

 もうゴロウの服を洗濯しなくてもイイ

 もうゴロウは私の世界には居ない

 何処を探しても、何処まで行っても

 私はゴロウからやっと解放されたのだ

 (嫌、イヤ..)

「嫌あッ!そんなのぉ絶対に嫌あァッ!」

 

 気の済むまで泣いたアカネ。彼女はユラユラ立ち上がり、待合室の直ぐ左手の渡り廊下に在る厠へとフラフラ、中の洗面所で適当な量の紙タオルを手に取って、又同じ席にフラフラ戻って来た。暫く泣いて居たせいか?チト頭に頭痛がして両眼も浮腫んで居る様な感じも覚えた。厠の洗面台の大きな鏡で自分の今の顔を確認する勇気が無くて、敢えて鏡の存在を無視して紙タオルを取って来たアカネ。

 (こんなに泣いたのは何時振りの事だろう?そう云えば、大人になるにつれて泣く事って、減ってる様な気がする..如何してだろう..)

 すっかり正気を取り戻したアカネが佇む深夜の待合室。彼女だけを残して、相変わらず人の気配が全く無く、アカネが唯一聞く生活音と云えば自動販売機のモォタア音だけ。

 待合室の壁時計を既に何度睨んだ事か。初めは見て見た壁掛け時計、今では睨みに変わる。其れ程アカネは此処に軟禁されて居る。今の時刻は午前〇二時二十三分。アカネは両肩をダラリと落とし、椅子背中に凭れては両眼を瞑り、両手を膝の上に置いたまま静止する。そう云えば、昨日の夜から全く水分を取って無い事に気付いたアカネ。

 (そうだ、私は今喉が渇いている事にしよう。そして自動販売機で何か飲み物を買って時間を稼ぐ事にしよう..其れも直ぐ決めるんじゃ無くて、三〇分位の時間を掛けてジックリを決めよう..)

 アカネが席から立ち上がろう..とした其の時、待合室の椅子に座るアカネ向かって右側、其の廊下の遥か向こう側の世界から「コンっコンっコンッ..」革靴特有のコンクリィトを叩く様な硬質な足音の反響音が先ず二個。そして後もう一つの柔らかい足音が二個。一歩一歩進む度に鳴る「キュッキュッ..」廊下で優しい音を奏でるのが両耳を澄ますアカネには聞こえて来た。

 (スニィカァ?..この足音の正体は長時間労働でも脚が疲れにくいと云う巷で大人気、正に時代を超えたウォゥキング靴の名作『リィボック クラブC 八十五』かしら?硬い足音の主は男性..そして柔らかい足音の方は女性だわ..)

 肉体的にも精神的にも充分に疲労し切っていたアカネ。いま余計な人間関係は要らない。

 (寝たフリをして無視しよう..)

 四個の足音は少しずつ..確実にアカネの元まで接近中。既にアカネは彼等との全面対決を避ける為、椅子でダラシ無く寝たフリを徹底的に決め込む完全犯罪の名演技。頭部を腹部に伏せた状態の彼女の顔面を拝む事は、地面に横たわって真下から覗かない限り誰にも出来ない。一応アカネは念には念を入れて、半開きに開けた口から「ダラリ..」涎も垂れ流すと云う気合の入れ様。だが然しソンナ怪優アカネの大誤算。彼等はアカネの前を通り過ぎる事無く、彼女の目の前、四個の足音がピタリ。止んだ。頭を下げつつも両眼は半開き状態のアカネ、其の視界に入り込んで来た人間の四本脚の爪先が自分に向いて居る。要するに二人の人間、彼等がアカネの頭部天辺のツムジを見下ろして居る。(私..見られてる..)アカネの“旋風”も確かに其の視線を感じた。

 アカネの半開きの両眼が判断するに、黒いスラックスを穿いてる二本の脚は骨太。長い白衣の袖の部分がギリギリ視界に入る。

 (医者?の仮装した男のヒト?..)

 もう二本の脚は細い。白いパンティストッキングを穿いてて、白い膝下までのスカァト。卑猥さなど一切感じさせない本物の気品を感じる。

 (看護婦?の仮装した女のヒト?..)

 アカネ、残念ッ!彼等は正真正銘、男性医者と女性看護師。そしてアカネ、お見事ッ!確かに此方の女性看護師さんは、白いパンティストッキングの色に合わせて『リィボック クラブC 八十五』の白色を履いて居る。雰囲気で何となく察したアカネ、如何やらコノ四本の脚はコノ場から動く気配が無さそうだ。完敗したアカネと観念したアカネ。

 (あぁ面倒臭い..顔を上げて挨拶しないと..)

 アカネは頭を「ユゥゥゥ..ックリ」持ち上げては、其の四本の脚の持ち主の二つの顔を少しずつ、上眼使いで見詰めて見た(ア..そうだった、忘れてた。私、今病院に居たんだっけ)。

「アカネさん、こんなに長く待たせてしまって申し訳在りませんでした..」 

 男性医師サトウは、椅子に座った状態で自身の顔をマジマジ窺って居るアカネに深々と頭を下げた。そして彼の隣に立つ女性看護婦のサトウも続いて頭を下げて、男性医師のサトウの吐いた台詞を感情移入せずに繰り返す。

「アカネさん、こんなに長く待たせてしまって申し訳在りませんでした..」

「医学的に如何しても、“見込み”の在る患者の方を優先的に診なくてはいけなくて..」

 男性医師のサトウは言った。

「イイエ、謝らないで下さい。此処は緊急病院ですから其の点の兼ね合いは充分に理解はして居ります。」

 着席したままでの応対はチト失礼、椅子からスッカリ立ち上がって直立不動のアカネは取り乱す事無く、不規則な時間帯を働く二人に対して、深く感謝の意を伝えた。

「ゴロウさんの件に付いては私の部屋で御説明させて頂きます。では、此方になります。」

 サトウの二人が待合室にやって来た渡り廊下の右側では無く、渡り廊下の左側の方向に二人のサトウは歩き出した。細長くて静かな渡り廊下の世界。天井には蛍光灯が点いては居るがチト世界は暗め。巨大総合病院体内を、毛細血管みたく網羅しては全ての階、全ての病室を繋げる沢山の渡り廊下。偶然にも真っ赤な洋服を着て居たアカネ。差し詰め、一本の毛細血管を流れるアカネは赤血球。アカネの前を姿勢正しく歩く白衣のサトウの二人は白血球。三人の血液が細長い毛細血管を只ひたすらに歩くと云う描写。臨場感がヒシヒシ伝わって頂けたらコレ幸い。

 

「アカネさん、此方になります。どうぞお入り下さい。」

 長い渡り廊下を何度も曲がっては、又新たな長い渡り廊下を只ひたすらに歩いた。男性医師サトウの部屋が其処に在った。戸は開かれて居て、渡り廊下よりはチト明るい灯りが部屋から漏れて居る。其の部屋入り口で直立する男性医師のサトウに促されて、部屋の中に入ったアカネ。其の後で男性医者サトウが入室して、自身の机の椅子に座った。女性看護師のサトウは部屋の入り口で立って居る

「アカネさん、椅子に腰掛けては?」

 男性医師のサトウに諭され、アカネは軽く会釈をしてから彼の真向かいの椅子に座った。一〇畳程のコノ部屋には原寸大の人骨全身模型や、様々な人体の部位の写真が壁に貼って在ったり、視力検査の際に使用する『視力検査表』が壁に貼り付けて在ったり、謂わゆる只の一般的な医師の個室。其の中にも、生真面目そうなサトウの人間らしい部分を発見したアカネ。一枚の家族写真が収められた写真立てが、サトウの机の上に置かれて居るのをアカネは見付けた。満面の笑みの父親サトウと彼の妻、そして丁度アカネの息子のイチロウと同じ位の年頃の男の子。二人の真ん中に挟まれ、緊張混じりの面持ちで直立不動して居る写真。

 (..そうか、この鉄仮面サトウ先生にも子供が居るんだ..)

「..では早速、此方の写真を見て頂けますか?」

 其れ迄はアカネを直視して居たサトウは、座って居た椅子を「クルリンコ。」実は廻転式の椅子を、机の真上のレントゲン写真を確認する装置のシャウカステンの方に一八〇°回転。視線をソコに移した。何枚かのレントゲン写真がソコに貼られて居た事は、コノ部屋に入った時点で知って居たアカネ。

「ゴロウさんの死因は出血性ショック死です。」

 サトウは淡々とした口調でアカネに告げた。

「発見が早ければ、未だ助かった可能性が在ったかも知れませんが、ソレはあくまでも希望論にしか過ぎません。ゴロウさんが当病院に搬入されて来た時には既に心臓は完全停止して居ました。背後から何度も包丁の様な物で刺されて居て、何箇所かは骨と骨の間を器用にもスルリンコ擦り抜けて、重要な器官まで達して損傷が酷い状態でした。」

「スルリンコ..ですか..」

「エぇ..ものの見事にスルリンコでした。私も医師としてはチト経験豊富且つ年数も豊富なのですが、これ程迄のスルリンコは今迄でも見た事が在りません..アカネさん?チト申し訳在りませんがサングラスを掛けさせて下さい。私、実は眼がチト光に弱いもので..」

 サトウは右胸ポケットから『レイバン社アヴィエイター 俗名ティアドロップ』のサングラスを取り出して、顔に掛けた。そして其の後、シャウカステンの電気を点けて、ソコに吊られて居た数枚のレントゲン写真をアカネに見せた。まさか写真の主がゴロウだったのはチト意外だったアカネ。疲労困憊の表情を見せながらも、眉と眉の間に皺を作る程の顰め面。上半身を前屈みにして両眼に『意識』を最大限に注入。其れから漸くレントゲン写真を「ジックリ..」凝視し始めるアカネ。サトウは右手に指差し棒を持ちながら、淡々とレントゲン写真の内容を説明する。ゴロウの事件現場で、アカネに事情聴取を行った警察官のミタの心情と同様、医師のサトウも遺族に死因を告げるコノ瞬間が嫌いなサトウ。このサトウの告白の後で、十中八九この一〇畳程の小さな空間を襲う、遺族達の黄昏れる無音地獄。更に「シクシク..」啜り泣きを聞いてしまったが最後、自身の精神が殺られてしまい、暫く食欲が失せるサトウ。状況説明をする時の重厚で漆黒の時間。一生慣れる事など無いし、慣れたくも無い。俺は決してソンナ冷たい人間何かじゃ無い。だけどコノ瞬間だけは逃げ出してしまいたい..コノ時だけは違う職種の人間だったら..と自己逃避してしまう事シバシバの男性医者サトウだが、こんな時はアカネと同様、思いっ切り妄想に耽る。

 (あぁあぁあと..良し!今日の勤務が明けたら、録画してた『アンパンマン』子供と一緒に観よっと!..けど俺的には『ドラえもん』の方が俄然好きなんだけどな。ン?..ってか、てかチョット待てよ..?ジャイアンの本名は“剛田武”だろォ?..だったらさぁ、ジャイ子の本名って一体何だったっけ..?アァ..考えろ!考えろ考えろ..大丈夫。大丈夫、焦んな俺。ゆッ!くり考えろ?!大丈夫、ジャイ子は何処にも逃げないから。そんな小っちぇえ女じゃ無え..だから良いから深く考えろよ、俺ッ!)

 死因とは、実は遺族にとって如何でも良い個人情報の一個にしか過ぎない。“死因”を知ったからと云って、ソノ大事なヒトが息を吹き返す事でも無い。だが哀しみは一瞬で通り過ぎ、其々の遺族の深層世界の中では“遺産相続”に『全意識』は集中。偶に殺人事件に発展する事もシバシバ。サトウが淡々と語る簡潔な説明の後、このアカネも例外では無く、確かに束の間の沈黙が一〇畳の個室に流れた。当事者のアカネが辛いのは当然、だが二人のサトウも決してアカネを独りにはしない。三人で苦痛の無言を分かち合う事、約二〇秒。

「..アカネさん?何か質問は在りますか?」

 口火を切ったのは先手、男性医師のサトウ。極度の緊張で声が裏返って無いか?チト心配なサトウ。如何やら裏返ってなかった模様だ。後手、未亡人アカネは頸を縦に振った。投了。アカネの意思表示を確認したサトウは、机の右側一番上の引き出しを開き、其の中から一枚の紙を取り出した。

「此方がゴロウさんの死亡診断書です。」

 サトウはアカネに手渡した。アカネは其れを受け取って一通り目を通してみた。

 (何だか履歴書みたい..)

 人生で初めて見る内容の書類。それは其の筈、死亡診断書などアカネの若い年齢で見る事など滅多に無い経験だろう。

 (この紙の内容を丸暗記出来たからって、ゴロウが生き帰って来る訳でも無いし..つい昨日の朝までは、家族の皆で一緒に家に居たのに..ゴロウはコノ紙切れ一枚になっちゃったんだ..。)

 アカネは何時の間にか、キツく両指で握り締めて居た死亡診断書を見詰めながら想った。死亡診断書に皺が入る。

「では霊安室へ案内致します。」

 少しの間を置いて、部屋の入り口に立って居た女性看護婦のサトウ。彼女の口から『霊安室』と云う言葉を聞いて、アカネは改めて(ゴロウは本当に此の世には居ない)事を思い知らされる。本当は病室に通されるものだと思って居たアカネ(いきなり霊安室か..)大きな誤算。

「ここから先は、このサトウが案内しますから。」

 男性医師のサトウは椅子から立ち上がり、それと同時に女性看護婦のサトウが左手を翳して、部屋の中に居たアカネに退室を促す様な仕草を見せた。アカネは死亡診断書を持参して来た手提げ鞄の中に折らず、丁寧に滑り込ませてから立ち上がった。アカネは部屋を出る前に後ろを振り返り、椅子から立ってアカネの後ろ姿を見詰めて居た男性医師のサトウに向かって、もう一度深いお辞儀をした。男性医師のサトウも最後まで決して緊張の手は抜かない。彼女が部屋から完全に出て行くのを見送る迄が自分の仕事。すっかり気を抜いて、鼻イジリをして居た矢先に患者が思わず振り向いた時の気まずさと云ったら..(これは若かりしサトウの経験談)、だから患者や其の家族がコノ部屋から完全に退室するまで、アカネの後ろ姿をズット凝視して居た男性医師のサトウ。不意打ちで振り向いたアカネ。お互いに眼が合った。アカネの御辞儀に対して、男性医師のサトウも御辞儀で応酬。男性医師のサトウの視界から完全にアカネが消え去った後、「ドスっ」と云う効果音を激しく立てながら医師のサトウは椅子に堕ちた。机の上に在る家族写真を見詰める男性医師のサトウ。

 (今この惑星の地球上で、一体何人のヒトがアカネさんみたいな経験してんだろ?そして何時かはコノ医者の俺だってアカネさんの立場になる日がやって来るんだよな..ソレが遺族だったり、死亡診断書の当事者だったら..人間って面倒臭ぇ。只死んでお終い!って云う風にはナラナイんかな?人生って..一体何なんだろ..?)

 ふと考えた。

 

 ———今度のサトウは女性看護婦のサトウ。アカネとは同性。今迄の男性医師のサトウとの遣り取りに比べると、やはりチト気が抜けて気持ちが落ち着くアカネ。お酒を呑んで軽くホロ酔い気分になった錯覚がする。

「ではアカネさん、私の後に付いて来て下さい。」

 男性医師のサトウの部屋の表で待って居た女性看護婦のサトウは、部屋から出て来たアカネに促した。無言で歩き出した女性看護婦のサトウの後ろに続くアカネ。

 (実はサトウ先生の部屋から地下の霊安室までの距離は、徒歩で五分も掛からない。ゴロウさんが霊安室でアカネさんを待ち望んで居るのは確か。私の後ろを歩いて付いて来るアカネさんと、ゴロウさんとの念願の再会の鍵を握って居る私。彼女達の気持ちをモット盛り上げる為、敢えて病院内を「グルグル」遠回りして、焦らしながらユックリと歩いてあげよう。その方がキット彼等も喜ぶに違いない..)

 医師のサトウ然り、看護婦のサトウ然り。医療関係の仕事とて結局のトコロは水商売。患者と云う客が存在して、初めて彼等の商売は成立する。患者は即ち御客様。実は医師も看護婦も只の一介の演者にしか過ぎないのだ。無心でサトウの後を歩くアカネ。時間稼ぎの為に意図的に屋上に出たり、病院のオモテに一度出たりを何度も繰り返すサトウ。アカネには自分の前を歩くサトウの思惑など知る由も無い。只サトウの後を無心の境地、空っぽの精神状態で追って歩くだけ。今の時刻は分からない。如何でも良い情報。其れ以前に腕時計をする習慣の無いアカネ。人生の中で時間を知ると云う事は、実は然程大して重要な事では無い。“今”が全てのアカネの哲学。その“今”を生きるアカネは、彼女の目の前を歩くサトウに、そのアカネの“今”の時空を弄んでは霊安室まで遠回りされて居る。もしもアカネが腕時計をしていればコノ異変に気付いた事だろう、だがアカネはして居ない。だから黙ってサトウに付いて行く。

 (そうそう..それで良いのアカネさん。時間なんて気にしないで「ジックリ..」悲壮感に“今”は浸って欲しい..再会は別れの始まり、そして別れは又新しい出会いのキッカケでも在る..)

 病院にとって霊安室とは恥部。病院の定義とは“人間を治療して完璧に治癒させる特殊な工場”。患者から治療費を頂いては又、再び彼等を地球上の戦場へと送り出す役割りを担う。だが既に亡くなった患者からは医療費を毟り取る事も儘ならず。即ち只の巨大な生ゴミ。如何なる名料理人も、人肉を美味しく調理する事が出来ない程に生臭い人肉。死体。病院から逸早く出て行って欲しい食材。霊安室は病院の地下に在った。女性看護師サトウの余計な演出で、敢えて霊安室に遠廻りで向かった事は周知の事実。彼女の策略で大病院の中を右往左往したアカネ。額にはチト汗が滲む。それはサトウも同様(チト張り切って焦らし過ぎたみたい、私の両脚の脹ら脛もパンパンだわ..)。

「アカネさん、此方が霊安室になります。」

 霊安室の扉は観音開き。しかも其れ等の扉は鋼鉄製で重厚感が在る。サトウは其の前で立ち止まり、アカネを焦らすかの様に「ユッ..クリ..」時間を掛けて霊安室の左側の扉を開けた。霊安室の室内から、光が廊下に漏れる事は無かった。死人に過剰な“生”を思い起こさせる様な神々しい光など一切無用。後は省エネ。サトウが開けた霊安室の扉の向こう側は暗い。サトウに諭され「オドオド..」霊安室の中に脚を踏み入れたアカネ、「うわァ!」驚いた。アカネが想像して居た霊安室とは、精々が二〜三〇畳程の部屋の中に、広く間隔を置いてベッドが四〜五台位?其のベッドの上で遺体が寝かされて居る..では無かった。学校の体育館程の面積を誇る巨大空間、其れが観音開きの扉の向こうには広がって居た。圧巻のアカネは思わず足が竦んでしまい、暫く其の場で立ち尽くす程。

 (何だが足下が冷たい..)

 アカネが地面を見て見ると、何とドライアイスの煙がアカネの足下を覆っては、彼女の肉眼でも床が全く見えない状態。コレは霊安室で遺体と再会する遺族の気持ちを盛り上がる為の病院側の粋な演出の一つ。照明をチト抑え気味にした霊安室内(実は省エネ)、かなりの量のドライアイスの煙が霊安室全体に漂って居ると云う本格的な演出。遺体用ベッドも、アカネが数える事が馬鹿らしく思えるホド空間トコロ狭しに展開。「置けるだけ死体を詰めろ。」拝金主義の経営方針が故に、各ベッドの間隔がチト狭し!しかし殆どのベッドが遺体で埋まって居る。だが唯一、体育館らしく無い造りが一点。其れは天井が低い事。それ故にアカネはチト圧迫感を感じたが、確かに死人には天井の高低差の問題は不必要。霊安室の概念を「グルリンコ」ひっくり返されては呆然とするアカネに、背後からサトウが声を掛けた。

「アカネさん?ゴロウさんのベッドは一番向こう側、端の北側のベッドから南に数えて九百八十五番目。そして其処から左に数えて六百十五番目。即ちアカネさんの目の前のベッドの方がゴロウさんです。お顔の上に“打ち覆い”が被して居ますから、流石に分かり辛いですよねぇ..フフフ..」

「キャアぁぁっ!」

 アカネは恐怖で思わず叫んでしまった。そして此のアカネの叫び声も広い霊安室内で更に大反響。

「キャアぁぁっ!キャアぁぁ!キャアぁ!キャア!..キャぁ..キぁ.. . 」

 心臓が高鳴るアカネの興奮が収まるのを待って、サトウがダメ押しの一言を彼女に告げた。

「アカネさん、ごゆっくりとドウゾ。私は暫くの間ココから離れますので..」

 アカネが後ろを振り返ると、既にサトウの姿は其処には無かった。

「. .. 」

 堪らず沈黙する描写が出てしまった程、チトよりも更にチト恐怖心が宿る。この巨大な霊安室の中に独りボッチで置き去りにされたアカネ。この広い霊安室の中に果たして何体の遺体が安置されてるのか?

 (私は料理が好きだ。様々な食材を包丁で無慈悲に殺害しては、最後は一皿の美味しい料理に仕上げる事を常に心掛けてる。其れが食材に対する供養だと信じてる。ゴロウとイチロウは私の手料理の虜だ。赤唐辛子とかピィマンとか茄子とか金目鯛とか豚肉とか..当たり前の様に私は包丁で刻んで来た。私には人間を調理したい願望などは勿論無い。私、今何だか魚屋さんの前に立ってる感じ。だけど此処で売られてるのは人間。魚のゴロウも私の目の前に並べられてる..)

「彼等は死んだ魚、死んだ人間じゃ無い..」死人を魚に置き換えて妄想してみると、少しずつ其のアカネの恐怖心は小さくなっていった。

「ふゥゥゥ..」アカネは、自身の目の前のベッドに眠るゴロウの“打ち覆い”を捲る前に、自身に言い聞かせるかの如く、深い決心の深呼吸を一個。そうしてアカネは、ゴロウの顔面を覆う“打ち覆い”を「ユックリ..」捲った。アカネの肉眼に映った真っ青な肌色のゴロウ。アカネが今迄に見た事の在るドンナ青空よりもモット青いゴロウの肌。美しい青空を見た瞬間の清々しさは勿論皆無、死人の肌の青空が醸し出す不快感。ゴロウの両眼は完全に閉じて居て、顔面には感情は一切無くて鉄仮面。まるで夜店で売られて居る“お面”の様。

 漸くゴロウと再会出来たアカネ。昨日の早朝の時点では確実に生きて居た筈のゴロウは、今ではベッドの上で全く表情を変えず両眼を瞑り横たわる。左右の鼻穴には白い綿の詰め物。

 (ねぇゴロウ..私を笑わせる為にソンナ綿何か詰めてるの?..落花生を詰めてた方が私的にはウケたのに..)

 その瞬間、アカネは地面に崩れ落ちた。両膝を思いっ切り硬い床に打ち付けてしまった感が在る。痛い?イヤ、そんな一時的な痛みなど、ゴロウを失った事を痛感させられた“今”に比べたら何でも無い。両膝を床に付けて上半身をベッドの上に起こしたアカネ。両腕をゴロウの胸元に置いた。冷たい体温のゴロウの右頬に、アカネは思いっ切り自身の顔面を押し付けては号泣した。死体に触れる恐怖心など無い、だって私のゴロウなんだから。確か待合室でも思いっ切り泣いた筈..だけど涙が止まらない。これ程の量の水分が私の小さな体内には未だ残ってたのか..?人体の摩訶不思議。全ての水分が人体から抜け落ちてしまうとヒトは確実に死ぬ。私も此処で命尽きてしまうかも..良いわ、構わない。私もゴロウと一緒に逝く。息子のイチロウよりも私にはゴロウの方が遥かに大事。ゴロウ?私も貴方と一緒に行きたい..。

 女性看護婦のサトウは病院の音響室に居た。彼女の趣味はディジェイ。マイクロフォン越しに喋り捲るディジェエでは無くて、音楽を繋ぎ合わせて会場を盛り上げるディジェイ。この総合病院の全ての部屋には、小型スピィカァが天井部分に埋め込まれて居て、もしもの災害の時にはコノ音響室を通じて、各部屋に避難警報が流される仕組み。霊安室の天井部にも勿論スピィカァは在る。一度死んで居る人間が二度死ぬ事は無いが、たまたま霊安室を訪れた遺族の防犯対策の為だ。音響室には本格的なディジェイブゥスが完備されて居て、一面の壁の大きな棚には沢山のレコォド盤も収納。患者が快方を目指して、日々ひたすら身体を酷使して再起に励む日には、其のリハビリゼェション室の天井スピィカァから『ロッキィのテェマ』を流して、患者を叱咤激励。出産間際の妊婦さんに対しては、分娩室の天井スピィカァから『中島みゆき ファイト』を流して、赤ん坊に人生の厳しさを叱咤激励。そして出産中の修羅場、分娩室の天井スピィカァから『梓みちよ こんにちは赤ちゃん』を流して、妊婦さんを取り敢えず激励。昔とは違って何の努力もせず、無条件で病院に患者(客)が訪れる時代は既に過去の事。顧客サァヴィスに徹底しないと、病院とて直ぐに潰れてしまう昨今。因みにコノ音楽サァヴィスは無料。そしてサトウの選曲と、上手い“繋ぎの技”も関係して、患者達の評判は上々。巨大な霊安室に佇むアカネと、彼女の側のベッドで横たわるゴロウ。霊安室内には隠しカメラ等は設置されては無いが、長年の経験から、アカネとゴロウが霊安室のダンスフロアの中、今一体どの様な気持ちを抱いて?今一体どの様な行動を起こして居るのか?

 (全ては私の頭の中。今回もガンガンに霊安室を揺らしてあげるわ..モォ、そろそろ..ね)

 ディジェイブゥスにてサトウがフロアに落とした一曲がコチラ。

『エリックサティ ジムノペディ第一番』

 天井が低くて壁も薄いと云う、本来ならば『箱』向きでは全く無い霊安室。その空間で厳かに流された『ジムノペディ第一番』。そもそもの楽曲の完成度が高い事も在って、否が応でもアカネの気持ちは無意識にも盛り上がる。勿論ディジェイサトウの手腕も在るのも確か。ディジェイミキサァの沢山のツマミやエフェクトを巧みに弄り、ツマミは音源に強弱を付けて、エフェクトは音源に色気を加えてはフロアのアカネを煽る。霊安室の硬い床を重厚なピアノの旋律が重低音を持って揺るがす。「ブゥゥゥん、ブゥゥゥん..」振動がベッドの上の遺体達の身体も揺らす程。依然ドライアイスの煙が「モクモク」とフロアを覆って居ては、俄然アカネの気持ちは盛り上げる。両手の人差し指を、高く真っ暗な天井に突き上げるアカネは「ガンガン!」号泣しながらも、全身をビッショリ汗で濡らし「ガンガン!」ビィトに身を任せては踊り狂う。裸足で。気が付くとアカネは靴を脱いでいた。

 どれ位のトキが過ぎただろうか?霊安室で泣きじゃくったアカネの両眼は真っ赤に腫れて、其の涙を拭う為に何度も擦った衣服の両腕の裾もグチョグチョ。満足したのか?踊り疲れたのか?スッカリと正気を取り戻したアカネ。ゴロウのベッドの傍らに散乱して居た靴を先ずは履き直し、汗で乱れた長い髪の毛を整えた。霊安室の程良く保たれた冷房の風が、冷静さを取り戻したアカネの着て居る汗塗れの洋服の上下を過剰に冷し始めた。

 (チト寒い..)

 もう充分に泣いた。現実に戻ろう。真っ青な肌色のゴロウの顔面に、アカネは自身の顔を近付けてはマジマジと見詰めてみた。更にゴロウの顔面の臭いも「クンクン..」嗅いでもみた。無臭だ。嘗ては深夜、アカネの子宮を熱く燃えさせてはベッドの中、アカネを狂わせたゴロウの男臭い体臭は既に無かった。この時には音楽も無くなって、ドライアイスの煙も何処かに消えて居た。無音の霊安室の日常。パァティは終わった。

 (又ね、ゴロウ。私、もうソロソロ行かなくちゃ..)

 



 第一.二話 食卓の視点。「豚カツを巡って、一家崩壊の危機か?!」

  

 ———その夜、一家の主人を失った家の食堂の卓上には、ゴロウの大好物の豚カツの山盛りの大皿が中心部に鎮座。揚げ物ばかり食べると健康に悪い、アカネは七品の野菜の惣菜も用意して居た。ゴロウ家の食事の掟は“大皿料理”。予め各自に盛られた皿で食事を摂るのでは無く、皆で大皿料理を分け合って摂る仕組み。家族意識や仲間意識が俄然高まる効果と、譲り合いや施しの精神が自然と養えるのが理由。だがゴロウはアカネが揚げる豚カツには全く目が無く、過去には一家全員分の豚カツの殆どを光速の速さ、無意識の内に完食した事もシバシバ。

「ゴロウの箸の動きが速過ぎて、逆にスロォモォションに見えたんです!」後のアカネ談。

「ウワァァンっ、お父さんが僕の豚カツ全部食べたぁぁッ!」今回、イチロウからの証言は、彼が号泣した為に泣く泣く断言。豚カツは子供にとって正義の揚げ物。

「もぉゴロウっ!貴方、今年で一体何歳になるんだっけッ?!」こっ酷くアカネに叱られた苦き経験も今となっては良き想ひ出か..。

 こんな和気藹々な食卓風景舞台の食堂(台所と共有。広い)正方形型食卓テェブルの上の三人分の箸、御飯茶椀、大きな取り皿。そして味噌汁のお椀が並ぶ。因みに食器を準備するのは息子のイチロウが担当。『働かざる者食うべからず』が一家のスロォガン。

 豚カツはゴロウの亡くなった母が、貧しいながらも彼に不憫な思いをさせたくないと云う想いで、良く作って貰った幼少期時代からの想ヒ出の御馳走。だが当時のゴロウ家の家計は、失踪した父親の借金の返済等も在って慢性的に悲惨なモノ。母親が閉店間際の生肉店の値引き商品で購入した豚肉のヒレ。母親は其の一枚を、更に包丁を使って何重にも薄切り。そして周りに衣を何重にも絡めて油に投入。見た目は分厚い豚カツだが、実情は“チト高級薄切りハム油揚げ”。翌る日の激しい胸焼けもシバシバの母子、懐かしい想ヒ出。だが両名共に絶命して居るのは此処だけの話。

 

 ———ゴロウ家の食卓の豚カツは、時間が経って油がすっかり廻ってしまい、肉の方も既に冷え切って居る。家の各室の明かりは灯って居るものの、無人の家は主人の死を弔って居るのか、恐ろしい程に無音の世界、アカネが病院から帰宅するまで続いた。無音。と描写しても辛うじて各部屋の壁時計の「チッ、チッ、チッ..」と云う二本の針が、数字盤の上を歩く足音が哀しく家中に響く。この足音が実は、人間が人差し指を口元に寄せて「チッチッチッ」其の人差し指を“振子”の様に左右に揺らしては、ゴロウが二度とコノ家には帰って来ない事を強調して居る様にも捉える事が、精神が病んで居る今のアカネならば充分に可能。そしてソコからモシカシテ彼女も絶命してしまうかも知れない。精神疾患と云うモノは、実は『精神の解放』を意味する。アカネが病院に居て良かった。今もしも彼女がコノ家に独りぼっちで居たら恐らく気が狂ってしまう事だろう。イヤ。狂う。確実に..

 

 ..だが彼女は死なない。イキル事に『意識』を全集中。絶対にアカネは殺さない作者。何故ならば、彼女がココで後追い自殺してしまうと『ペロ』が未完で終わってしまうからだ。印税が途絶える事で生活が困窮、最後にはコノ作者が首吊り自殺を選択する事を先読みするアカネ。

「大丈夫..確かに立ち直る迄、チト時間は掛かるかも知れないけど、私は死なないし、作者も絶対に自殺なんてさせない!ハッピィエンドで『ペロ』はお終い。」

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