4 死に至る慕情

 今日もミンミンと蝉が鳴いている。そして今日もあたしと稀雨くんは絵を描いている。描いているというより最早、混乱の渦に堕とされて、二人仲良く絵の具まみれになっているようだった。先に音を上げたのはあたしだった。


「あーもう全然駄目! どうしてカッチリ決まらないんだろ? 稀雨くんは?」

「同じ。どの色をのせても変。どれも違うって思う……こんなんで俺は将来、画家になれるのかな」


 その言葉にあたしは、いいなぁ、と思わず零してしまう。稀雨くんが不思議そうに首を傾げる。あたしは苦笑して答えた。


「本当はさ、あたし美大行きたいんだけどウチお金無くて。妹もいるし、普通の文系の大学めざしてるんだ。本当は稀雨くんみたいに、画家になりたかったけど……」


 自然と暗い沈黙になってしまって、慌ててあたしは言葉を継ぐ。


「でも大学にも絵を描くサークルだってあるだろうし。まあ、完全に絵を描く生活から切り離されるわけでもないんだけど」


 でも、ちょっと寂しいな、とあたしは笑う。本当はちょっとどころじゃない。凄く寂しい。もっともっと絵を描きたい。絵の勉強をして、沢山吸収して、絵で何かしら生計をたてられる仕事をしたい。あたしの生活に、一欠片も絵を取りこぼしたくない。

 稀雨くんは黙って、何か考えているようだった。気を遣わせてしまっただろうか。そう思って声をかけようとすると、


「それなら、俺がなる」

「え?」


 どういう意味だろう。訳も分からず稀雨くんを見れば、稀雨くんはまっすぐあたしを見て言った。


「あんたが画家になれないなら、俺がなる。世界中で活躍するような、そんな画家に」


 稀雨くんは本気で言っているようだった。けれど思わずあたしは笑ってしまう。


「稀雨くんがなっても仕方ないじゃない」


 そう言えば稀雨はくんは真剣な表情で言う。これ以上ないくらい、真剣な表情で。


「俺がお前の意志を、継ぐんだ。……嫌か? こんな考え」


 意志を継ぐ、とあたしは繰り返す。そっか、継いでくれるのか。すとんと、その言葉があたしの中に落ちる。あたしが今抱えていること。夢も葛藤も絵を描く喜びも苦しみも全部。すべて稀雨くんが引き継いでくれるのか。それこそ、命のリレーのように、親から子、そしてその子から生まれた子と命が紡がれるように。

 なんだかそれが酷く恥ずかしいことのように思えた。告白、されているみたいな感じがして。


「それは……稀雨くんが、私の果たせなかった夢を、叶えてくれるってことだよね」


 稀雨くんは静かに頷く。その瞬間、どうしてか分からないけれど未来にあった鬱屈

とした影が、晴れ空のように広がって消えていった。

 稀雨くんになら、全部託したっていい。託すなら稀雨くんがいい。

 どうしてかそんなふうに思ってしまった。それ以外の人は、嫌だ。そこで、ふと気づく。

 いつからあたしは稀雨くんにこんなにも、心を許してしまうようになったのだろう。理由は、やはり絵を描く者同士だからだろうか。少なくともあたしにとってこの関係は心地よく、あたたかくて、ひどく嬉しいものには違いなかった。


「……うん。いいかも。稀雨くんなら、なんか、いいかなって思える」


 それじゃあさ、とあたしは絵筆の先を稀雨くんに向ける。稀雨くんは不思議そうにこちらを見る。あたし自身も馬鹿なことしようとしているなぁと思いながらも言った。


「指切りならぬ筆切り。画家の約束なら、画家っぽくていいでしょ。あたしの筆の先の色から、稀雨くんの筆の先の色を託すの」

「……アンタ、凄い発想をするな」


 でも、と稀雨くんは笑う。


「いいかもな。やろう。色は何にする?」

「そりゃあ今、あたしたちを悩ませている空の青に決まってるよ」


 あたしは青に染まった絵筆を見せると、稀雨くんは、そうだな、と苦笑した。絵筆の尻の分を持って腕をいっぱいに伸ばす。そうでないと届かない。稀雨くんも同じようにした。

 絵筆が、交わりあう。少し違う青と青が交わされて、あたしの青は稀雨くんの青に託される。なんだか、くすぐったいような気分だ。お互いに絵筆をそっと退く。


「楽しみだなぁ」


 あたしは笑ってしまう。


「何がだ?」

「だって稀雨くん、これから世界で有名な画家になるんでしょ? その過程に、あたしが関わっているなんて、面白いじゃん。ねぇ、テレビに出ることになったら、今のエピソード。絶対に語ってね」

「まぁ番組としては美味しいエピソードだろうな。ドラマ性があって」


 でも、と稀雨くんは意地悪な笑顔を浮かべる。


「言わない。約束ってものは、胸にしまっておきたいんだ。俺は。特に、アンタと過ごした日々とか、約束は」

「なんで?」

「アンタは……その……難しいな。少なくとも綺麗な場所を他人に知られたくないような、そんな感じなんだ。アンタとのこの時間は、もしかしたら青春なのかもしれないな」


 遅すぎる青春かもしれないけど、と稀雨くんは言う。あたしは、ぷは、と噴き出して笑ってしまった。


「稀雨くんって意外とロマンチスト? それに二年生なら、まだまだこれから青春できるじゃん?」

「俺が誰かと青春しているようなタイプに見えるか?」

「見えない、ごめん」


 あたしがけらけら笑うと、稀雨くんは怒るかと思いきや、ふっと目を細めて笑った。


「アンタくらいの変人が丁度いいんだ、俺は。一緒にいて楽だしな」

「あ、それはあたしも同じ。稀雨くんって一緒にいると楽」

「またお揃いだな」


 稀雨くんがゆるりと唇に弧を描く。あたしも微笑む。


「本当にそうだね。あーあ、もっと早くに出会ってれば良かったのに。稀雨くん、一年から入部してくれていたら良かったのに」


 そう言うと何故か、稀雨くんに悲しそうな影が落ちる。その顔を見ると、あたしもどうしてか、悲しくなる。悲しませたくなくて、どうにか稀雨くんに笑ってもらえるよう言葉を探す。明るい内容、明るい内容。けれどちっともあたしの脳は働いてくれない。これまで人じゃなくて絵とばかり向き合ってきた所為だ。


「俺も」


 けれど先に口を開いたのは稀雨くんのほうだった。


「もっと早く出会いたかった。そうしたら、きっと楽しかったんだろうな」


 稀雨くんは少しだけ俯いて言う。昏い影が差し込む。ああ、あたしは無力だな。大切な人を笑顔にさせてあげられないなんて。あたしはそこまで思って、はたと気付く。何度も思った。稀雨くん、いつからこんなにもあたしにとって大切な人になったんだろう?

 急に――顔に血が上って赤くなるのが分かった。

 夏の青空が打ち消してくれれば良いと思うのに、夏の日差しはそれを許してはくれない。

 大切なひとって、どういう意味で大切なんだろう。

 友達として? 絵描き仲間として? それとも、と疑問符を重ねる。


「三崎さん?」


 久々に名前を呼ばれてあたしはびくりと身体を跳ねさせる。そして慌てて稀雨くんから視線を逸らしてキャンバスに向かった。


「なに?」


 心の騒ぎを知られたくなくて押し込めたら、自然と無愛想な声になってしまう。どうしよう。そんなつもりはないのに。稀雨くんが怪訝そうに問いかけてくる。


「……? 俺、何かした?」

「なにもしてない、なにもしてない。ただその、例えば……人が悲しい顔をしていたら、笑顔にしたいとか、一緒に悲しくなるとか、そういうのも恋なのかな?」


 稀雨くんは怪訝そうに眉根を寄せる。


「俺にそういうこと聞いたって分からないと思うぞ」

「まあ、その、一般的な話」


 そう言えば稀雨くんの口から溜息がひとつ。


「そういうのはアンタの方が詳しいんじゃないか? 体験していないとはいえ、女子はそういう話が好きだろう? 最初の方も言っていたじゃないか。胸が苦しいだの何だの」

「他にもあると思うんだけど? どうかな?」

「……アンタ、恋について描きたいの?」


 よっぽどあたしが食い下がるのが、おかしいと思ったのだろう。稀雨くんは溜息交じりに「どうしたんだよアンタ」と言う。


「今描いているのでよっぽど恋に関するものが必要なのか?」


 見当違いの稀雨くんの答えにあたしは、ほっとしながらも、苛立った。なんだよ。なんで理解してくれないかな。そんな理不尽な感情がじわじわと沸き上がってくる。


「違うよ。単に知りたいだけ。それじゃ悪い?」

「悪くはならないけど」


 稀雨くんはどうしてかそこで言い淀む。あたしが首を傾げると、稀雨くんの、きれいな瞳と目が合った。どきりとする。鼓動が早い。熱が上がる。なんだろう。分からない。


「アンタ、好きな人でもできたの?」


 その問いに、あたしの心が一気に甘くざわめいた。

 そのざめきは全身を巡って、その場から逃げ出したくなるほどだった。

 何も言わないあたしに気付いたのだろう。稀雨くんは少し笑って、そうか、と言った。


「……何で笑うのよ」

「いやべつに」


 けれどそう言う稀雨くんの顔は楽しげだ。そしてどうしてか、嬉しそうだった。


「そんなに可笑しい?」

「可笑しくはないよ」


 ただ、と柔らかい眼差しであたしを見る。やっぱりその目に、あたしはどきりとする。心臓の音が早くなる。稀雨くんは絵筆を置いて言った。


「よかったじゃん、と思った。これで、描けるものも増えたんじゃないか?」


 それは確かに、とあたしは思う。体験したことのない、この感覚は、浮遊感でいっぱいで足元が覚束ない感じですらある。

 幸せだ、と思って、あたしはようやく気付く。

 そっか、あたし、稀雨くんのことが好きなんだ。

 じわじわと心の中にあたたかいものが広がって、それは気恥ずかしさに繋がっていく。あたしは稀雨くんに悟られないよう、絵筆を取った。取って、作業をするふりをした。

 けれどそこで、あ、とあたしは気付く。


 ――稀雨くんも、恋、してるんだった。


 さっきまで柔く暖かだった柔らかい心が鋭利な針で刺されるようにずきりと痛む。そっか、そうだった。稀雨くんの初恋。苦しいと言った恋。初恋は実らないと言うし、稀雨くんは自分の恋は実らないと言っていた。じゃあ、あたしは?

 あたしの初恋も、実らないのだろうか。

 嫌だ。

 そんな声が胸に響く。

 あたしじゃ、稀雨くんの好きな人の代わりになれないんだろうか、なんて馬鹿なことを考える。それが稀雨くんに対して失礼なことだと分かっていても、あたしは、稀雨くんとのこんな幸せな時間を誰にも奪われたくない。稀雨くんのそばにいたいし、稀雨くんの笑顔が好きだし、悲しい顔をしている時はその哀しみを拭ってあげたい。

 でもそんなのは、初恋がもたらす甘ったれた横暴だ。

 夢見がちな、幼稚な夢。あたしは自分が惨めで笑っちゃいそうになった。稀雨くんに以前、実らない恋にも意味があるなんて偉そうなことを言ったけど、本当にあるのかって自答自問しちゃうほどだった。ちなみに、自答の結果は、あんまりよろしくなかった。


「稀雨くんはさ」

「なに?」


 聞き返す稀雨くんの声は心なしか明るい。あたしの心とは裏腹に。

 あたしは無理矢理笑って、稀雨くんに訊いた。


「稀雨くん、前に好きな人がいるって言ってたじゃん? それで恋は苦しいものだって。あたしも今、それが分かる気がするよ」


 だって今、こんなに苦しいから。

 それなのに稀雨くんは満足そうに頷いた。


「だろ? アンタはこれからどうなるか分からないけど……お互い、苦しみだけで終わることがないよう祈ろう」


 その声は穏やかなのに、内に秘めるものは何処か寂寞としていた。


「初恋は実らない、だもんね。そうだよね、苦しいだけじゃ、嫌だな」


 あたしはぐっと強く唇を引き結んで、色を取り始めた。恋を知る前はあんなに無垢だった色は、今は感情でぶれて、全くつかみ所がなくなってしまった。まるで縁日で掬う金魚のようだ。ゆらゆらと、はなやかで、すくうにむずかしく、手に入れたと思えば絶える。

 今日も絵の扉の先の景色は描けない。ただの空なのに恋と一緒だった。恋というのが、こんなにも色々な色彩を見せてくれると知ったのに、それが今、途方も無いくらいに切なくて痛い。稀雨くんはこんな気持ちを抱えているのか。そう思ったら、稀雨くんの言う通り恋なんてしなくても良いものだったのかもしれない。

 でも。


「三崎さん」


 そうやって呼ばれるだけで、嬉しくなる自分がいる。稀雨くんの声、好きだな。どうしてあたしだけに向けられないんだろうって思ってしまう。けれどそれをあたしは隠す。


「なに?」

「良い絵、描けそう?」


 稀雨くんにそんな事を言われて、なにそれ、と笑ってしまいたくなった。今あたし、恋を知って、恋のよろこびを知ったばかりなのに、失恋しているんだよ? そんなふうに言いたくなった。泣きそうな気分になった。

 けれど、稀雨くんにとって、それは重要なことじゃない。あたしが親しくても、恋している相手じゃなくて、稀雨くんにとってあたしはただの絵画仲間なのだ。

 あたしは首を横に振った。


「全然。むしろ、もっと分からなくなっちゃった」

「恋を知った所為?」

「そうかもね」


 すると何故か稀雨くんは、暗い顔になる。自分を責めているようにも見えた。その理由が何でか分からなくて、けれどあたしはどう問いかけて良いか分からずに黙っているしかなかった。


「……何事も愛しすぎるのは、死に至る」


 突然、そんなことを言い出した稀雨くんは、見たことも無い表情をしていた。

 怒りとも哀しみとかつかない、複雑な色彩をした感情の揺らぎ。

 死に至りそうなほど苛烈な恋をしているという意味だろうか。

それとも愛について、全く違う意味で死に至ると言っているのだろうか。

 脈絡の無い言葉にあたしが頭を悩ませていると、稀雨くんが「ごめん」と謝る。


「変なこと言った」

「そんなこと、ない、けど……」


 言葉が詰まってしまう。だって、稀雨くんの表情も声も変だ。あたしは悩む。この場で彼を手放すことが優しさなのか、それとも、あたしの身勝手な「好き」で引っ張って、稀雨くんの心奥を知るべきなのか。悩んだ。

 けれどあたしは醜い愛の欲望に抗えず、稀雨くんに尋ねた。


「その……何でそんなこと、言ったの?」


 あたしが尋ねると稀雨くんの表情が一瞬だけ強張った。だがそれも緩やかに弛緩していき、細く細く息を吐き出した。


「理由は色々あるけど、一番大きかったのは……」


 言いかけて稀雨くんはあたしを見た。


「……聞いて気分が良い話じゃないぞ。それでも良いのか?」


 まるで冥府へと連れ出すような声音だった。けれどあたしはその手を取ることは怖くない。だって、稀雨くんのことが好きだから。この恋が実らなくても、好きだから。


「大丈夫。じゃなきゃ訊いてないよ」


 場違いかと思ったけれどあたしが少し笑えば、稀雨くんも少し安心した様子で少しだけ笑って、そうか、と言った。それから懐かしむように目を細めた。


「……アンタと出会った時、俺は自分のことを名前で呼べと言ったよな」


 懐かしい記憶だった。空の青を背にした、きれいな男の子。あたしはそんな、初めて出会った時の稀雨くんの姿を思い起こしながら頷く。


「うん。そうだね。言ってた」

「それで俺には……『真柴』って言われたくない理由があって」


 一呼吸を置いて、稀雨くんの瞳が空の向こうへと向けられる。あたしはそんな稀雨くんを見ていた。蒼い憂いがそこにはあった。


「親父も画家だったんだ。俺が小さな頃は、真柴さん真柴さん言われる、有名なアーティストだったけどさ。――壊れたんだ」

「壊れた……?」


 どういうことか分からなかった。けれど稀雨くんは笑った。笑い飛ばした。憎々しく。


「そう。ぶっ壊れた」


 稀雨くんは、見たことも無い類いの笑みを浮かべたまま続けた。


「自分が傑作と思ったものは低い評価で、凡作と思ったものは良作と言われ。正しさが分からなくて、愛し方が分からなくなって、それでも親父は絵を愛したくて……だから親父は命を賭して一枚の絵を描いた。命を賭した絵だ。でも笑えることにそれは、愚作と言われた。親父は、世界の美から自分を全否定された気持ちだったんだろうな」


 遠い目をして稀雨くんは言う。朗々とした声が、なぜか悲しい。


「俺、見たんだ。というか第一発見者が俺だった。親父はさ、その絵の前で首吊ってた。愛していたんだろうな、よっぽどその絵を。でも――馬鹿だよな、本当に」


 そんな事で心を折るなんて、と。嘲るように稀雨くんは唇に弧を描く。目は、少しも笑っていない。その冷笑にぞっとした。美しいものは恐ろしい。そんな言葉が脳裏に過った。


「だから、俺は真柴と呼ばれるのが嫌だ。親父を取り巻いた人々を思い出して嫌になるんだ。そして否定されたからといって、心だけじゃなく命も折った親父が、俺は許せない」


 吐き捨てるように稀雨くんは言う。

 あたしは、そんなに重いものを稀雨くんが抱えているなんて知らなかった。夏空の下に黒く伸びる影。その影の黒さは夏の強さに比例する。


「だから恋を知ったアンタが親父みたいに愛に悪い意味で振り回されるのは……嫌だ。そう思った。恋は苦しい。その程度でいい。だから、せめてこの夏は――」


 そこまで言って稀雨くんは口を噤んだ。理由は分からなかった。本当は、あたしは稀雨くんの昏い底まで泳ごうとしたかった。けれど、何もできなかった。

 だからただあたしが思ったのは、


「稀雨くんは、お父さんが好きだったんだね」


 というものだった。

 理解不能、という視線が稀雨くんから向けられる。

 自分自身、本当に幼稚な発言過ぎて、あたしは苦笑して答える。


「あたしの気のせいかもしれないけど、稀雨くんはお父さんが憎いんじゃなくて、お父さんを否定した現代の美術の世界が憎くて報復したいだけで……お父さんのことは、愛していたからこそ、憎いんじゃなくて、置いて逝かれたから寂しいんじゃない? 見当違いかもしれないけれど、絵画の楽しさを教えてくれたのは、お父さんだったんじゃないかな」


 そう告げれば稀雨くんは目を見開き、あたしを見ていた。その目がゆっくりと伏せられ、長い睫毛の下に薄らと淡い影が落ちる。


「報復、か……そうかもしれないな。ただ……愛しすぎると死に至るものは必ずある。その死が肉体か、心か。どちらにせよ愛しすぎることは、怖いことなんだ」


 自分に言い聞かせるように稀雨くんは言う。


「それって……稀雨くんの恋のこと?」


 あたしはついその場の勢いで尋ねてしまう。尋ねてからしまったと思った。この話題は薄い氷上を歩くようにそっと、踏み出さなければならないというのに。

 けれど稀雨くんは気にしていない様子だった。


「そうだな。俺の恋もそうだ。愛しすぎて、怖い」


 怖い、とあたしは言葉を繰り返して味わう。確かに、あたしも怖い。実ることも無く腐り落ちる恋だと分かっていても、完全に落ちてしまう瞬間はきっと、怖い。稀雨くんに好きな人がいて、その人はあたしじゃなくて。それでも、もしあたしが稀雨くんに気持ちを告げたとして拒絶されたら。

 実は落ちて崩れ腐る。

 それは、怖い。

 心がどうにかなってしまうんじゃないかと思うくらいに。


「……あたしも、怖いな。拒まれるのは」


 そう言えば稀雨くんは目を細めて笑う。


「アンタは、大丈夫だろ」


 そのどこか確信に満ちたような答えにあたしは首を傾げる。


「何でそう思うの?」


 すると稀雨くんがまるで我に返ったように目を瞬かせ、昏い表情へと変わった。


「いや……悪い。アンタの方が、ずっと酷かもしれない」

「どっちよ。ねぇ、何が言いたいの?」

「……その時が来れば分かるさ」


 そんな意味深なことを言って、稀雨君はじっとキャンバスを見詰めた。その目はどこか、恋する人を見るような目に見えた。

 実際、あたしはこれまで恋する女子の目をみたことがある。甘さを含んでいて、それなのに苦くて、痛くて、幸せ。そんな相反するものが複雑に入り乱れるくせに、恋はいつだって、神聖化される。実際、そんなこともないのに。

 けれど今、キャンバスを見詰める稀雨くんの目はとても綺麗で、ああ本気で、純粋にその人が好きなんだろうと思った。そこに一滴の淀みはない。

 それが――羨ましい。

 あたしは、稀雨くんとは違う。恋を認めた途端、失恋の味を知って、そこから蛆が湧くように悪い感情が次々と溢れていく。一体、誰が稀雨くんの心を奪ったのか。どうして稀雨くんはその人の事を好きに成って、いつ恋に落ちたのか。

 小さな疑問符の重なりは重い「どうして」という苦しい感情になる。ああ、まるで取り憑かれたみたいだ、と思う。


「……確かに、愛しすぎると、死に至るかもね。特に、心が」


 稀雨くんと同じことを口ずさむと、筆を取りかけた稀雨くんの手がぴたりと一瞬だけ止まった。そのあとは何事もなかったかのように絵筆を持って、色を取る。


「……だな」


 青、水色、蒼、空色。正しい「あおぞら」を探してあたしたちは、今日も絵筆を動かす。

 もうすぐ、夏が終わる。




 そしてこの日を境に、次第に稀雨くんは、おかしくなっていった。




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余命1ヶ月の初恋 一時匣 @hitotoki

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