3 もどかしいもの

 相変わらず夏の熱の籠もる美術室で、あたしと稀雨くんは向き合って互いの作品に没頭していた。雨のように蝉の音が落ちていって、外を見れば青空に真白い雲。彩色にとりっかったあたしは、外の世界ほど描写するものが難しいものはないと思っている。

 得に空は難しくて、どんなに感動する青さでも、写真や絵に映し起こしてみると、途端に狭苦しく感情のないものになる。それがあたしはもどかしい。感動や感情をそのままに絵に描き出せたら、と夢想する。


「稀雨くんはさ」


 もうすっかり話しかけることにも慣れた男の子の名前を呼べば、なに、と短い返事が返ってくる。けれどそれが興味がないとか、鬱陶しいからとかではないと分かっている。あたしは勝手に話を続けた。


「描いていて、もどかしいものってある?」

「もどかしいもの?」


 稀雨くんが少しだけこちらを見た。


「描くのが苦手なものってことか?」

「んー……近いけど、そうじゃなくて。自分の想いが入らないというか、そうだな……感情が入らないようなモチーフってある?」


 そう伝えると納得したように「そういうことか」と稀雨くんは言う。


「あるよ」

「何?」

「空」

「えっ」


 思わず驚いて声が跳ねてしまう。稀雨くんは怪訝そうにこちらを見る。


「何かおかしいこと言ったか?」

「そうじゃなくて。私も空が、一番もどかしいもので……同じだったから驚いた」


 すると稀雨くんも驚いたようで微かに目を見開いた。


「そうなんだ。アンタ、クロッキーもそうだったけど俺と似ている所、多いな」


 そう言うと稀雨くんは窓の外に広がる空を見た。なぜだろう。

 あんなに単純ともいえる「青」なのに、あの夏の「青」さに震えるこの心を、あたしの絵筆は描き出せない。


「……俺が」


 ぽつりと稀雨くんが言う。


「ずっと、詰まっているのは、そこなんだ」


 聞いたこともない、稀雨くんの藍色に沈んだ声だった。どうしてだろう。恋の話と同じくらい、苦しそうな声だった。


「稀雨くんは今、空を描こうとしているの?」

「……そうだけど」


 稀雨くんの声が淀み、あたしのほうへとその声は向けられる。


「アンタは結局何を描いているんだ?」


 尋ねられてそういえば言ってなかったな、と苦笑して答える。


「簡単に言うと扉と空。扉が開いた先に、空があるの」

「……アンタもその空に詰まっているのか?」


あたしは苦々しく頷く。


「そう。稀雨くんと同じ。でも、どうしてこんなに難しいんだろう。目に映るものを描くだけなのに。特別なものでもない筈なのに……あ」


 ふと気付いたことに声を上げれば、稀雨くんが眉根を寄せる。


「なに?」

「いや……その、空って感情を描くのと同じくらい難しいなって。なんでだろう。あたしの中で、理想の空ってものが無いからなのかな」

「……もしかして、ありすぎるからじゃないか」


 正反対の言葉に、あたしは「え」と声を上げる。

 稀雨くんは、たぶんだけど、と言う。


「空は、人の心みたいに移ろって、色んな表情を見せるから……だから難しい。どれを捉えるべきなのか、どれがどの感情なのか、ぐちゃぐちゃになる。だから、すっと絵筆が正しく求めるものを描き出せない。……多分、だけど」


 そう言うと稀雨くんは作業を再開した。そうか、感情の揺れ動きと、空の動きは似ているんだ。きっと。あたしはそこで作業の手を止める。


 ――あたしはどんな空が、どんな感情が、描きたいたいんだろう。


 窓の外を見る。夏空は、きれいだ。でも、「きれい」というのは、「きれい」でしかない。心は動くけど、そういうことじゃない。

 あたしが描きたいのは、何かを思って見詰める「きれい」な空だ。けれどその空が見つからなくて、結局、開いた扉の先の彩色にいつまで経っても取りかかれない。

 溜息をつく。だめ。無力感が背後からのし掛かってくる。絵を描くことは大好きなのに、どうしてこんなにも胸を締め付けるほど苦しく、難しいのだろう。


「迷ってる?」


 あたしの心を感じ取ったみたいに、稀雨くんが話しかけてくる。


「うん。稀雨くんは順調?」

「全然。順調だったら詰まっているなんて言わないだろ」

「ああ、確かに。空で苦戦中、だもんね」

「そうだな」


 稀雨くんは絵筆を置いて、深く溜息を吐きだした。


「どうしてもうまくいかない……どんな色を載せても、違う」

「どうして違うと思うの? あたしも人の事は言えないけれど」

「……これは」


 稀雨くんは言おうか迷っているようだった。けれど迷った末に、告げた。


「──俺のものじゃないから」


 予想だにしない台詞だった。


「……え?」


 思わずあたしは稀雨くんを見遣った。稀雨くんは視線を逸らす。


「……気にしないでいい」


 一歩、頑なな線を引かれたようだった、それに繊細さはなかった。くっきりとした線で、踏み込むことなんてできない線だった。拒絶ではない。頼むから、入ってこないでくれ、という悲痛な嘆願だった、少なくともあたしにはそう感じられて、わかった、とだけ言った。それでも心の中は疑問符ばかりだった。


 俺のものじゃない絵? 

 だったら、誰の絵なの? 


 その誰か分からない人のものを、何で稀雨くんが描いているの? 

 ――全部が全部、わからない。

 分からないことが、もどかしい。

 いつからだろう。あたしは何で、こんなにも稀雨くんが気になるのだろう。

 それさえも、あたしにはよく分からなかった。

 

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