2 好きなひと


 それから稀雨くんは言っていたように毎日美術室にきていた。稀雨君は最初に出会った時に、絵を見ないでくれとお願いしてきた。だからどんな絵を描いているのか当然分からなかったし、分かっても絵筆の動き程度。それが妙に私の気を引いて仕方なかった。

 あんな綺麗な男の子が、どんなふうに絵に向き合って、どんな絵を描いているのか。

 勿論、最初に言われた「絵を見ないでくれと」という約束は、ちゃんと守る。あたしは稀雨くんが見せてくれるまで見ないし、最悪見なくてもそれは仕方ないと思っている。

 ただひとつ言えることは、やっぱり稀雨くんの絵が知りたかった。絵は人の心を映すとあたしは思っている。だからあたしは、知りたい。

 真柴稀雨という青年の心という、絵を。

 その理由はよく分からないけれど、浮世離れしたこの青年の心の内が気になった。

 稀雨くんとはぽつぽつと何か喋ることがあった。大抵が夏の風で揺れて消えていくような些細なものだったけれど、あたしはそれが心地よかった。稀雨くんと一緒にいると、真夏の熱も苦しくないくらい、自然に、滑らかに呼吸できているような気がした。


「そういえば稀雨くんはいつから絵を描いているの?」

「物心つく頃には。家でも幼稚園でもずっと描いてた。アンタは?」

「あたしも同じかな。というか、全く一緒。ご飯とかお風呂の時間以外はずっと」


 くすりと笑った音が向こう側から聞こえてきた。


「俺も。それでよく親に怒られた。なかなか風呂入らなかったり、メシ食わなかったりして、一時期絵を描くもの全部隠されたな」

「え、本当に?」

「本当」

「あたしもなんだけど」


 稀雨くんが不思議そうな顔をしてこちらを見た。


「同じって何が?」

「画材、取り上げられたの。妹に呆れられたくらい没頭してたから」


 思わず笑ってしまう。あんまりにもそっくりで。

 稀雨くんも眼を細めて笑っていた。


「俺は一人っ子だけど、同じだな。同じくらい、絵ばっばりだ」

「そうだね。本当に」


お互い小さく笑い合って、稀雨くんが楽しげに尋ねてくる。


「なぁ、アンタ。高校入りたての頃も家で描いてた?」

「当然。稀雨くんもでしょ?」

「ああ」


 そこで稀雨くんの眼が、どこか挑発的なものになる。


「家でも描いているって言ったけど、デッサン? クロッキー?」

「そりゃクロッキーでしょ。基礎中の基礎じゃん。早く描くには必要でしょ?」

「それじゃ俺と勝負」


 勝負、と言われて首を傾げる。稀雨くんは言う。


「毎日クロッキー、何枚描いてたか。せーの、で言おうぜ」


 挑発的な稀雨くんの笑みに、あたしも乗る。


「なるほど。受けて立つ。じゃあ……せーの!」


 三十枚、という言葉が重なる。

 お互いに目を見合わせる。じわじわとくすぐったい気持ちが上っていって、やがて笑いに変わる。

 声をあげて笑うあたしに、稀雨くんは少し悔しそうな顔をしていた。


「俺の方が多いと思っていた。せいぜいアンタは十枚くらいだって」

「十枚なんてすぐじゃん」

「確かに」


 稀雨くんはキャンバスに向き合いつつも笑う。本当に絵が好きなんだな。あたしもなんだけど、これくらい同じなんて、初めてだ。


「俺、今日からは五十枚に増やす」


 急に、ふて腐れたみたいに稀雨くんが言う。あたしはけらけらと笑ってしまう。


「無理でしょ」

「アンタに負けたくない。……というか、負けちゃダメなんだ」


 そう言う稀雨くんは何故か少し悲しげで、急にあたしは何も言えなかった。

 やっぱり変だ。稀雨くんは時々、どうしてそんな顔をするんだろう。分からなくてあたしはいつだって戸惑ってしまう。絵筆で想いを伝えられたら良いのに、そんなことは夢だ。

 暫く、二人の間にぎくしゃくしているような沈黙が落ちる。稀雨くんがあんな顔をするせいだ、なんて責任転嫁したくなる。それでもあたしはこの状況を打開したくって、頑張って明るい声で話しかける。


「そういえば出会った時いきなり恋したことはあるか、なんて恋の話していたけどさ。稀雨くん、どんな人が好きなの?」


 稀雨くんの絵筆が止まった。稀雨くんはあたしをじーっと見て、呆れたように溜息を吐きだした。

 

「……そんなこと聞いて何が楽しいんだよ」

「いーじゃん。女の子は恋バナが好きなんだよ」

「俺、女子じゃねーし」


 そう言ってまるで話題から逃げようと、再び作業しようとする稀雨くんに、あたしはしつこく食い下がる。


「年上? 年下? 同い年?」


 稀雨くんは何も答えない。


「いつ出会った人? どこで出会った人?」

「…………」


 あたしが問いを投げかけても、稀雨くんは無視だ。

 なんだよ、生意気な小僧め。心の中であたしは悪態をつく。無言の稀雨くんに対し、あたしは益々火がついて、稀雨くんにぽいぽいと質問をなげつける。


「美人? 可愛い系? 背は高い? 低い? 性格は元気な子? それとも――」

「うるさい。アンタ、大人げないな」


 ようやく根負けしたように稀雨くんがこちらをじとりと睨む。けれどあたしはそんなの全然怖くなかった。悪びれもせず、あたしは言う。


「大人じゃないもん。まだ子どもです。それにさ、気になるじゃん。稀雨くんみたいなクールな子が、どんな女の子を好きになるのかって」


 あたしは自然とにまにました顔で言う。

 それを見た稀雨くんはげんばりした顔をしていた。たぶん、あたしの質問攻撃に大分精神参ったのだと思う。そうだとしたら成功だ。

 稀雨くんは長い長い溜息を吐いたあと、睨むようにあたしを見て答えた。


「中肉中背、絵が好きで、多分それしか考えてない。美人というか小綺麗。以上」

「え、それだけ? 年上とかは?」


 また睨むように稀雨くんはあたしを見る。よっぽどこの会話を終わらせたいらしい。


「……同い年」


 とだけ言うと今度こそキャンバスに完璧に向き合ってしまった。でもあたしは、へえ、と内心思った。同い年で、小綺麗な、絵の上手い人。

 想像を膨らませる。でも同い年で絵が好きなのにどうして美術部に入らないんだろ。絵画教室派かな。でも稀雨くんの口から「小綺麗」って単語が出てきたのは、新鮮なのに同時にすごく納得ができた。

 綺麗なひと、とか、美人とか、そういうんじゃなく、小綺麗。朝露のような、清廉とした人がきっと好きなのだろう。見たことがないけれどお似合いなんだろうな、なんて。想像上の彼女を思って、あれ、と思う。


「もしかしてこの前言ってた【彼女との秘密】の【彼女】って、稀雨くんの好きな人のこと?」


 名探偵さながらにあたしが言えば、沈黙が吹き込んでくる。何か、言っちゃ悪いこと言っちゃっただろうか。あたしは不安になる。

 けれど稀雨くんの声のトーンはいつも通りだった。


「いや、関係はあるけど彼女は、俺の好きな人じゃない」


 少し複雑な答えにあたしは、そうなんだ、というしかなかった。

 また落ちた沈黙。蝉時雨が埋めてくれるはずなのに、あたしの心を、どうしてか掻き乱す。秘密って何だろう。稀雨くんはどんな表情を、好きな人に向けるんだろう。考えるとたまらない気持ちになる。だからあたしは、あたし自身のこころを騙す為にも、クラッカーみたいに軽い調子で尋ねる。


「稀雨くんはその人以外、誰か好きになったことはないの?」


 ぽい、と。宙に投げた問いを、意外にも稀雨くんは受け取ってくれた。


「ない」


 はっきりと言う。あたしは、そうなんだ、と微笑ましいような気持ちになる。

 けれど同時に何故か、ちくり、と痛む。我が子が恋してしまったような、寂しさだろうか。分からない。けれど分からないままあたしは会話を続ける。


「それじゃ初恋だ?」


 笑って尋ねてみると、稀雨くんは少し口をへの字にする。


「……何笑ってるんだよ」

「別に。たださ、いいなって思って。うらやましい。うまくいくといいね」


 恋を一度もしたことのない私には、恋をするということは、すごく羨ましい体験だと思っている。だって恋を知っているのと、恋を知らないのでは、描ける絵の幅も変わってくる。あたしはそう考えている。あたしはそういう意味で、恋をするひとがうらやましい。

 ただやっぱり、稀雨くんが恋しているって聞くと、何故か少し寂しい。


「ねぇ、恋ってどんな感じ?」

「どんな感じって」

「その……ふわふわした心地とか、甘酸っぱいとか、胸が苦しいような感じとか。そういうの。映画とか小説とかでは見るけれど、実際どんな感じなのかなって思って」


 稀雨くんは作業の手を止める。思案に耽っているのが見えた。

 あたしはぼんやりと稀雨くんを見る。本当に、絵筆を持つ指先まで綺麗な子だ。羨ましい。初めて出会った時に思ったように、絵のモデルにしたいな、とも思う。どこまでも絵のことばかりだ。あたしは。

 一生きっと恋なんてできそうもない。あたしは一人小さく苦笑してしまう。

 稀雨くんは虚空を見詰めていた。それからぽつりと零した。


「……苦しいかな」


 淡々と稀雨くんは続けた。


「それしか俺は感じない。今の所」


 さらりと言う稀雨くんからは苦しみの欠片ひとつも感じ取れなかった。ただの「無」。いや、違うかもしれない。そうやって無という絶対的な色で塗り潰さないと辛いくらい、本当に苦しいのかもしれない。


「……本当に、それだけ?」

「それだけ」


 稀雨くんは視線を伏せた。


「俺は今、恋が苦しいことしか知らない。世間では甘酸っぱいだの、喜びを得るだの言うけど、俺が持っている恋は違う。違って……当然、なんだけどな」


 寂しげに笑う稀雨くんを見ていると、どうしてかあたしも痛くなった。あたしは稀雨くんのこころに刺さった棘をどうにかしたくて、問いを重ねる。


「なんで当然だって?」


 稀雨くんは少しの間のあと、


「最初から叶わない恋だから」


 はっきりと、言った。この先も無いのだと稀雨くんは完全に諦めきっていた。


「この事実は絶対に、変わらない。初恋は実らないって言うけれど俺の場合は違っていて、意味なんて少しもなくて、意味だってなにも」


 言いかけて稀雨くんの声が止まる。沈黙が流れた。

 あたしは、迷った。これ以上踏み入れてはいけないような気がしたからだった。

 稀雨くんの繊細な、それこそ硝子のような部分に足を踏み出したら、割れてしまうような気がした。でも、そう思うのに、稀雨くんの棘をどうにかしたくて。あたしは自分でもおかしなくらい勇気を振り絞って踏み出した。


「そんなこと、ないよ」


 あたしは自分が恋なんてしたことがないくせに、自分の事を棚に上げて稀雨くんに言う。


「ゼロパーセントの恋で、たとえ実らなくてもさ……意味なんてなくない。その恋には絶対に何か意味があるとあたしは、そう思うよ。今は苦しみしか感じないと言うそれも、時間が経てば色彩も変わってくるかもしれない。あの時はあんなふうに捉えられ無かった色彩も、こんな色が置いてあったのか……とか。時間って、不思議だね。違う色彩みたいに考えを変えてしまうんだから。だから、恋もきっと同じだよ。今苦しくても、時間が経てばそれは穏やかな花のような色になるかもしれないじゃん?」


 あとさ、とあたしは身勝手な言葉を続ける。


「これはあたしの我が儘なんだけどさ稀雨くんに、そんな悲しい顔してほしくないな」


 ごめんね、とあたしは言う。

 上から態度の目線のあたしに対して、怒ると思っていた。不愉快になると思っていた。けれど稀雨くんは、ぽかんとしていた。それから、くつくつと笑い初めてあたしを見た。


「……そうだな。意味は、きっとあるのかもしれない」


 その柔らかくなった面差しを見てあたしはほっとする。ほっとしたら急に気が抜けて、へにゃりと笑ってしまった。


「でもやっぱり羨ましいな」

「恋が?」

「うん、一度も恋したことないから。あ、笑わないでね。高校三年生にもなって、恋のひとつもしたこがないなんて。ちょっと恥ずかしい」


 あはは、とあたしは笑う。実際、恥ずかしい。恥ずかしいことなのに何で稀雨くんに言ってしまったのだろうと思った。けれど稀雨くんは笑わなかった。


「別にいいんじゃない? 恋ができなくても。さっきも言ったけど、苦しいだけかもしれないぞ」

「そうかな。恋すれば、見えないものも見えて、描けるものも増えると思うけど……だから、稀雨くんがやっぱり羨ましいよ」

「恋すれば描けるものも広がる、か……」


 ふと稀雨くんが緩やかに微笑む。


「……そうだといいな。俺も、そうなりたい」

「そうなれるよ。その子がどんな子か分からないけど、稀雨くん。顔はいいし」


 冗談半分、本気半分で言えば稀雨くんは何とも言えない表情を作った。


「顔はって……アンタ、俺のことそういう目で見てるわけ?」

「うーん、実を言うとデッサンのモデルにしてもらいたい位には、稀雨くんは綺麗だと思うよ」

「俺が?」


 目を丸くする稀雨くんにあたしが「そう」と頷くと、「なんだよそれ」と稀雨くんは可笑しそうに笑った。ああ、やっぱり笑った顔も綺麗だ。


「アンタ、変なヤツだな」


 笑いながら言う稀雨くんに、失礼だなぁ、とあたしは言う。稀雨くんは笑いをどうにか鎮めながら言った。


「綺麗なんて男に言う台詞じゃないだろ。だったらアンタの方が綺麗って単語が似合うんじゃないか? いや綺麗というか……」


 そこで言葉を詰まらせる稀雨くんに、あたしは苦笑いをする。


「いいよ、無理して褒めようとしなくて。それよりそろそろちゃんと作業しよっか」


 そう言うとあたしは稀雨くんの答えを待たずにキャンバスに向き合った。

 本当は何て答えてくれるか気になったけれど、なんとなく、傷つくのはいやだ。稀雨くんに無理に「綺麗だ」なんて気遣われるのも、嫌だ。

 不思議な気分だった。今まで誰に何て思われようと気にならなかったのに、稀雨くんの答えは、気になってしまった。



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