余命1ヶ月の初恋

一時匣

1 出会い


 扉を開いた。

 開けばそこはあたしの楽園。夏の日差しに照らされた美術室の匂いが香ってくる。

 外は蝉時雨。蒼天。熱。太陽。光。

 暑いのは苦手だけど夏は好きだ。そういうひとは多いと思う。あたしも暑いのは少しだけ苦手だけれど、夏は好きだ。夏は色彩のコントラストがはっきりしていて、何もかもが、鮮やかだ。だから普段から見える四階建てコンクリートの校舎の一室からでも、青い空はいつもより濃く、近く感じた。

 その青を背景に、蒼い薄影を纏った青年がそこにいた。同じ制服だ。


「……あなた、だれ?」


 あたしが尋ねると、青年は静かな、けれど透きとおった声で答えた。


真柴稀雨ましばけう。……二年」


 そういうと青年は当たり前のように、何か描きかけのキャンバスの前に座って、絵筆を握った。浮世離れしている。それが第一印象。随分ときれいな顔をしているなとも思った。こんなにきれいな顔なのに見たことがない。なんて思ったら、そうか。二年なら納得だ。だって同じ学年だったら、きっとこんな子は話題になっている。黒い髪は少し長め。目元を少し隠していたけれど、それでも端正な顔を隠すには役立っていなかった。それどころか、長めのその黒髪がミステリアスな雰囲気を誘って、彼の美しさを尚際立たせていた。

 容姿だけでなく名前も珍しい。


「……けう」


 つい復唱すれば、真柴青年は「稀な雨と書いて稀雨」だと答える。


「アンタは?」


 丁寧に答えたけれど、口調はタメ口。なかなか生意気そうだ。あたしは腕組みした。


「三崎夏子。美術部部長三年。それで真柴くん。どうしてあなたがここにいるの?」

「新入部員だから。それと、真柴で呼ばないでほしい。稀雨でいい」

「え?」


 間抜けな声が出る。新入部員? うそ。そんなの聞いてない。

 けれど稀雨くんは堂々としている。まるでこっちが何もしらないバカみたいに。でも、あたしの代で美術部は終わりじゃなかったっけ? 最後の部員になるはずだったのに、稀雨くんがいるならどうなるのだろう。


「美術部、廃部になる予定だけど……」


 あたしが恐る恐る訊けば、


「廃部にならないよ」


 稀雨くんは淡々と言う。


「俺がいるから」


 なるほど。確かに、美術部は部員がひとりでも成り立った。


「そう、そっか。真柴、じゃなくて、えっと……稀雨くんがいるから、そうなるのか……全然知らなかった」


 なんだかあっさりしている。寂寥感みたいなものをずっと感じていたのに、それが

こんな形であっさり霧散してしまうなんて思いもしなかった。ちょっと拍子抜けだ。


「夏生まれ?」

「は?」

「夏子って名前だから。夏生まれかと思った」


 脈絡の無い発言だったけれど、頷けば、稀雨くんはふうんと鼻を鳴らした。興味あるのかないのか、よくわからない。稀雨くんはあたしの困惑なんて放っといて、またキャンバスに向き合った。ここからだと何を描いているのか見えない。けれど見に行くのも気が引けた。だって、まだ出会って数分だし。未だに新入部員なんて信じられないし。


「言っておくけど」


 稀雨くんはこちらを見ないまま言った。


「絶対に俺の絵は見ないでほしい。お願いだから、それだけは守ってほしい」


 切実に訴えてくる稀雨くんが意外だった。もっと傲岸不遜といった感じで命令してくると思ったのに。あたしは素直に頷いた。


「分かった。絶対見ない。あ、それじゃああたしの絵も完成まで見ないでね」

「ああ。そうする。……ありがとう」


 その「ありがとう」さえも意外だった。よく分からない。図々しいかと思ったら、変なところ控えめで。変わった男の子だなって思った。容姿も、性格も、名前も全部、変わっている。けれど悪い意味では無い。

 あたしは半円状に広がって鎮座しているイーゼルのなかの、ひとつ。稀雨くんとほぼ対岸のイーゼルの前について、木炭と食パンを準備した。目の前には昨日からちっとも進んでいない、秋の学園祭に向けて描いている素描がある。小さくためいき。それでも戦うしかない。だって、これがあたしの学生時代最後の作品になるから。


「三崎さん」


 やる気になったところで、それを手折るように稀雨くんが話しかけてくる。半円状だから、キャンバスは見えなくても顔だけは斜め横に見えた。


「なに?」


 視線をやってみたけど、声をかけてきた稀雨くんのほうはキャンバスしか見てない。稀雨くんはもう彩色に入っているみたいで、その絵筆の動きには迷いがないようにみえた。稀雨くんは手を動かすのを止めないままに、


「恋ってしたことある?」

「ええっ」


 心臓が跳ねるような問いかけをしてきた。なんでもないふうに、さらりと。実際、稀雨くんにとっては気まぐれとか、たちの悪い思いつきのようなものなのかもしれない。でも、上級生の、しかも初対面の異性に対して振る話題じゃないでしょ。あたしは問いを問いで返すことにする。


「そう言う稀雨くんはどうなの?」


 稀雨くんの答えは早かった。


「ある」


 短い答え。恥ずかしげもなく答える稀雨くんがあたしを見る。


「そんでアンタは?」


 瞳の強さに一瞬負けそうになるが、なんで初対面のやつに言う必要があるのか。視線を逸らしてキャンバスに向かい合う。木炭をぐっと持って向きあう。そう、あたしが今向き合うべきなのは人じゃなく、絵なんだ。


「それ、キミに関係ないことじゃん」


気持ち素っ気なく言ってみる。だって相手が経験あるのに、自分がないなんてことを悟られたくない。ちっぽけなプライドだ。そもそも恋なんて、どうやったらするんだろう?

 あたしには分からない。あたしは、そんなものより絵を描いていたい。


「確かにアンタにとっては関係ないな」


 稀雨くんはあっさりと引いて、視線をキャンバスに戻した。一体なんなんだ。

 でも、恋か、とあたしは口の中で転がしてみる。飴玉みたいに。けれど何度ころがしてみても、結局あたしにはわからない。とりあえず、甘酸っぱい味がするんだろうな。そういう歌とか小説とか多いし、兎に角、人は「恋」というものに惹かれるのだろう。それこそあたしが絵に惹かれるみたいに。

 沈黙が流れる。みんみんと蝉が鳴く音がその沈黙の隙間を縫って、そよ風のように流れこんでくる。でも何でだろう、とあたしは不思議に思う。他人といて気まずい沈黙なら今まで何度も体験したことがあるのに、今は嫌いな沈黙じゃない。

 正直、あたしは初対面の人って苦手だし、基本的に他人ってものが苦手だ。人とのコミュニケーションに苦しむくらいなら、絵の中に浸っていたい。そうやって今まで生きてきたし、そのスタンスを崩す気もならなかった。

 けど、何でだろう。稀雨くんは変な言い方だけど、きれいな容貌と同じように、あんまり普通の人間じゃないみたいだった。そこにいても苦にならない。存在感はあるのに、空気みたいに透明で、清涼としていて、まるで岩清水みたいな。そんな感じがした。


「三崎さん」


 凜とした声に、あたしの背筋がぴんと伸びる。


「なに?」

「今、何描いてるんだ?」


 敬語というものがどうやら使えないようだ。でも、あたしも敬語は苦手だから気持ちは分かる。だから許しておくとしよう。そう思った。あたしは木炭で形作ったものを整えて、少しだけ消していく。汚れたパンくずが落ちる。

 描いているのは決まっている。けれど不安なのが、彩色だった。

 開いた扉の外にある空のヴィジョンが、未だに定まらずに不安だった。どうしたらいいのだろう。分からない。形は決まっている。けれど重要な空が分からない。必然的に何を描いているのか、と言われても不透明だ。


「んー……なんだろう。扉っていうのは、分かるんだけど……」


 困っちゃったな。痛いところを突かれた気分だった。水の中の魚を素手で掴むよりも、今のあたしの絵画は掴むのがむずかしいように思えた。


「悪い」


 急に稀雨くんが謝る。見遣れば稀雨くんは筆を止めていた。


「困らせたみたいだから」


 意外だった。あたしは首を振った。べつに気にしてないよっていう意味を込めて。


「稀雨くんは何を描いているの?」


 尋ねた途端、びくりと、なにかを恐れるように稀雨くんの身体が微かに震えたように見えた。でもそれは一瞬のことで、稀雨くんの表情は変わらないままだった。


「……俺にもよく分からない」


 よく分からない、分かっているように見えたのに、と思う。けれど分からないという感覚はすごく理解できた。出会って間もないのに共通点が見つけられて少し、嬉しいようなくすぐったいような、変な感じがした。


「そうかあ。じゃあ、あたしと同じだね」

「そうだな」


 稀雨くんの視線がキャンバスへと向かう。儚げに睫毛を伏せる。薄い影が落ちる。何かを憂うその表情に、どきりとする。鼻筋のすっと通った端正な顔立ちは、物憂げな表情を見せるだけでまるで芸術作品みたいだった。そういえば肌も深雪みたいに滑らかで白い。あたしも色白のほうだけど、彼には及ばないなと思う。きっと稀雨くんみたいにきれいなひとをデッサンしたら楽しいんだろうな。そんなこと初対面だし言えないけれど。

 いつもは一人で黙々と作業していた空間に、もうひとり、誰かがいる。不快に思うかと思ったのに、全然そんなことない。稀雨くんは本当に不思議なひとだと思う。

 あたしは改めてキャンバスに向き合う。扉。あたしがこの夏で、最後に描こうと思っているのは、扉だ。そしてそのうつくしい扉の先の、空の世界。けれどその扉は頭のなかにはあるのに、その先にあるはずの空の形も色彩も想像できない。

 いつもだったら頭の中に色も形も全部揃っていて、それをあたしは現実世界に描き出すだけなのに。どうしてだろう何で、うまくいってくれないんだろう。


「……スランプってやつ?」


 で心を読んだみたいに稀雨くんが言ってくる。スランプ、なのかな。あたしは苦笑する。


「よくわからない。そもそもスランプってなんだろ?」

「辞典には確か一時的な心身の不調とか書いてあったな」

「そういうことじゃなくって……なんていうのかな。あたしが今手が止まっているのって、不調だからとかそういうんじゃなく……そう、きっと時間とか、そういうのが必要。よく作家がアイディアが降ってくるとか言うじゃない? それと同じ。降霊術に似ているのかもしれない」

「降霊術って。俺たち画家は、イタコか何かかよ」 


 稀雨くんが笑う。あ、笑うんだ。笑うと少し幼くなる。

 その発見が少しだけ、嬉しい。


「イタコというかさ、あたしはだけど……落雷みたいに降ってくるときもあれば、桜吹雪がざあーって流れて込んでくるときがあるかな。稀雨くんはどう?」

「どうって?」

「絵を描きたいって思う瞬間、というか……こう、降ってくる瞬間、みたいな」


 自分でも何を言っているのか分からなくなる。言葉にするのは難しい。でも稀雨くんは、そんなあたしの問いかけにも真剣に考えてくれているみたいだった。描きたい瞬間、と形の良い、少し薄い唇で反芻して、それから何度かまばたきをしたあと、言った。


「……描きたい瞬間というか、俺は、描いてないと、頭がパンクしそうになる」


 そう一言置いてから、稀雨くんは視線を伏せた。ゆっくりと考えて、涼やかな声で。


「俺の頭のなかは、美術館みたいな……いやもっと雑然としているか。色々転がっていてそれがどんな絵か分かるはずなのに、脳から視神経を通っていくあたりでポンコツになる。更にそれが指に辿り着くころには、頭の中にあったものが泡になって消えてしまう。そういうとき、頭を掻き毟りたくなる。そういうこと、ないか?」


 稀雨くんの黒い瞳がまっすぐにあたしを捉える。その澄んだ瞳には、あたしの姿が映っているような気がした。それにあたしはなぜか、安堵する。


「うーん、そうだね。分かる気がする。稀雨くんが言っていること」


 たとえば、とあたしは絵筆をくるりと回す。


「あたしの場合は普段はきれいに決まっていて、それを描き出すだけなんだけど今は違う。一番重要な部分の形も色も曖昧だからつかめなくて、もどかしい。でも稀雨くんはきっとその逆で、色々なものがごっちゃに転がり過ぎて掴めないんだよ。多すぎて」


 同じ絵を描く人間なのに、感じる世界は違って、そのくせ感じる一種のもどかしさのようなものは同じなのだろう。それを今あたしは初めて知った。こんな話をする相手なんて今までいなかったから。


「なんか変な話しているね、あたしたち」

「そうかもしれないな」


 ちょっとだけ稀雨くんが笑った。あたしもつられて笑う。


「こういう話を誰かとするのは、初めてだなぁ。意外と楽しいかも」

「俺も初めてだ。……悪いもんじゃないな」

「そうだね。あ、でも稀雨くんだから、なぜか分からないけど、話しやすいのかも。初対面なのに、こんなに人と喋れるの初めて」


 新鮮だった。いつも独りで絵に向き合っていたし、それを寂しいと思ったことはなかった。だって、あたしには絵があったから。絵を描く、というのは不思議な行為だ。絵を外側から自分が描いているはずなのに、いつの間にか吸い込まれて絵の中にいる。

 没入する、て言葉。まさにそんな感じなんだろうな。

 うまい単語があるもんだと思う。


「稀雨くんはさ」

「うん」

「どうして美術部に入ったの?」

「外で通うような絵画教室に入りたくなかったし、俺、一人で描く方が向いているから。それで先生に聞いたらもう美術部は人がいないって言うし、だから入部した」

「いやいや、あたしがいるじゃん」


 失礼だな。そんな気持ちを込めてみれば稀雨くんは絵筆を動かしながら言う。


「アンタは夏過ぎたらいなくなるじゃん」


 確かにそうだ。秋の学祭のための作品をこの夏描き上げて、あたしは退部する。受験戦争に本格的に挑まなくてはならないからだ。


「そうだけど……なんか言われた方は複雑な気分」

「あ、そう」


 ちっとも興味がないように言う。

 けれど続く言葉は予想していなかったものだった。


「でも、アンタみたいな変わった人と描くのは、楽しいかもな」


 稀雨くんは少し笑う。その笑顔と言葉に、あたしの心が跳ねる。


「失礼だなぁ。稀雨くんのほうがもっと変わってるよ」


 でも、とあたしは続けた。


「一緒にいて絵が描けるのが楽しいって、すごく稀で……何て言うか運が良いよね、あたしたち。……って言っても夏にはいなくなるんだけどさー」


 ああ本当にこの絵、この夏で仕上がるんだろうか、と思っていると。


「俺もこの夏の間に、描き上げないと」


 なんて稀雨くんが不思議なことを言った。あたしは首を傾げる。


「どうして? 稀雨くんはまだ二年生で、これからもまだ絵が描けるじゃん」

「約束しているから、彼女と」

「約束? 彼女って誰と? 恋人?」


 すると稀雨くんは絵筆をぴたりと、一瞬だけ止めた。

 何を言うのだろう。期待して待っていると稀雨くんはちらりとあたしを見て、それから複雑な表情をして言った。


「……秘密」

「秘密って……そこまで意味深なこと言って?」

「よく考えたら秘密にしなきゃいけないことだったから。危なかった」


 そう言うと稀雨くんは作業を再開する。もうこの話題はこれ以上、話しませんよ、というように。またキャンバスに向き合ってしまった。

 その態度にあたしは何だかモヤモヤする。最後まで教えてくれたって良いのに。

 でも彼女との約束ってことは、すごい大切な約束なんだろう。うらやましい、とあたしはちょっと思う。あたしはそういう大切な人っていない。もちろん家族や数少ない友達はいるけど、もっと特別な存在――それこそ恋人なんて今までできたこともなかった。それどころか好きな人もできたこともない。だから恋ってものが分からない。

 分からないからこそ、稀雨くんのことが、気になった。あの硝子みたいな瞳で見詰める愛しい人は、どんな姿をしているんだろうって。


「ねえ」

「なに」

「明日も来る?」


 問えば目が合う。ああそう、この目が好きだ。きれいな目をしている。

 言葉では形容しがたい。色彩でも表しきれないほど、稀雨くんの瞳は神秘的にきれいだった。

 稀雨くんは表情があんまり出にくいように見えて、その目だけは、雄弁に見えた。


「来るよ。夏休みの間は毎日来る」

「そう。熱心だね」

「……アンタもいるだろ?」


 最後の夏になるし、と稀雨くんは付け足した。少し寂しそうに見えたけれど、あたしの願望のようなものだったのかもしれない。

 いずれにせよ、最後の夏になるから、だなんてなんだか寂しいから、その言い方止めて欲しいとも思った。でも否定しようがなかったからあたしは頷いた。


「もちろん。記念すべき平成最後。八月三十一日までに仕上げるよう、ちゃんと来るよ」


 稀雨くんはちゃんと聞いているか分からなかった。蝉時雨が夏を報せていた。

 


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