第五章 嗜好品的小説
決まった銘柄のコーヒーや紅茶、酒や煙草のような小説がある。
人のことはわからないが、私にはそういう嗜好品として楽しむ小説があるので、今回はそんな小説について書いていく。
レイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」もそういう作品の一つだ。
とはいっても、そうは頻繁に読むというわけではない。
数年に一度、無性に読みたくなるという感じだ。
そしていっぺんにというのではなく、だらだら読む。
何度も読んでいるの別にストーリーを追う必要はないし、結末はわかっているのだからそう急く必要はない。
気儘に列車に乗って、なじみの宿まで行くような感じだ。
最近はちょっと読んでいないが、以前よく手に取ったものを上げると、サリンジャーの「ナインストーリーズ」がある。
「バナナフィッシュ」も当然読むが、私が衝撃を受けたのは「笑い男」である。
どこをどうしたらこんな話が生まれてくるのかと今でも不思議だが、読むたびに言葉にならない感情が湧いてくる。
こういう小説が書けたら、と今でも憧れる作品である。
書いていて気が付いたのだが、おそらくそうした気持ちが幾度も読ませる気持ちにさせるのかもしれない。
憧れという意味では、ヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」もそうした作品の一つだ。これもいい気分にさせてくれる小説である。
他、「清潔で明るい店」「世の光」「雨の中の猫」「スイス賛歌」「橋のたもとにいた老人」は好みの味である。
同時代の作家ではフィッツジェラルドも好きで、だいぶ昔、文庫で「雨の朝パリに死す」をタイトルが気に入って買った。
それ以来、いくつか短編作品を中心に代表作を読んだが、その中では「カットグラスの鉢」が好きである。
哀しく涼しい気持ちになる。
日本の作品では、山本周五郎の「あとのない仮名」がいい。
これはもう耽溺したといっていい。
救いのない話だが、人間の心をこういう存在で描いた作品はあまり見ないし、職人技と言っていい文章で、見事というよりほかない。
腕の立つ作家がこういう主人公を書くのはある意味卑怯だが、もしかしたら山本周五郎は、その誘惑に勝てなかったのかもしれない。
彼の作品では異色作と言われるが、こうした作品は二つは書けないだろうと思う。
短編で切れが良く、余韻が残り、幾度も足を運んでしまう店のような小説に矢作俊作の「複雑な彼女と単純な場所」がある。
舞台はバー、人も少なく、会話と限りなく少ない動きだけで、描かれた作品で、読むたびに参ったなあ、と嘆息するしかない小説である。
もっと気楽につい手が出るのは片岡義男の「給料日」。
若い男の給料日の夜に気前よく遊ぶ話で楽しく、最後の女の子のセリフがまたいい。
思いつくままに書いたが、これらの小説は何の気負いも抵抗もなく、読み始めることができる。
嗜好品はいつも楽しむものだから、期待よりも力を抜いて楽しめて、しかも安らぎがある。
だから手放せない。そういう小説は必要だ。
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