第四章 情愛の小説

 恋愛小説というと若さというイメージがぬぐえない。

 中年や老人は恋愛小説の対象にはならないのか、と文句が出そうだが、私のイメージにはそぐわない。

 恋愛の響きには、軽はずみな衝動性や感傷的な愚かさを感じるが、それをいい年齢の人には感じない。

 現実のことではなく、これはあくまで小説の話である。


 なので、私は情愛の小説と呼ぶことにする。

 その方がしっくりくる。

 恋は別にしなくてもいいものである。にも拘わらず、してしまう感じがある小説は好きだ。

 典型的な物語でありながら、それをステロタイプにしない技量というものが、小説に描かれる「情愛」というものの表現にかかっている。


 私が好きなそうした小説の一つに立原正秋の「四月の雨」がある。

 立原は情愛の物語をいくつも紡いだ作家だが、これは珍しく若者の純愛を描いた作品でありながら、立原の持つ美学が貫かれている。

 先に書いた裂くことができない「情愛」を感じさせるがゆえに読後に胸に迫るものを感じさせる。


 これまで海外の小説は上げてこなかったが、ここで上げたいのがオスカー・ワイルドの「幸福な王子」である。

 この小説の中の王子と燕の交情、特に燕にはやはりやむにやまれぬ感じがあり、その言葉のやりとりには、美しく儚い情愛が感じられる。

 「心を失う」という言葉がこれほどわかる物語はない。


 古い小説の章で書いた近松秋江の「黒髪」などは、当時の意識高い系の評論家には情痴文学などと言われたらしいが、今でいうところのフェミやポリコレのようなものだろう。

 当時は大人の恋は情痴と言われたのである。

 今でいうところの風俗や水商売の女に血道を上げたり、不倫で身を亡ぼしたりするような内容の小説である。

 今のようにまだ似非ピューリタニズムはないから、道徳というよりは、いい年の人間がそういうもので身を亡ぼすのはどうかというようなものである。


 戦後この血脈を細々とつないだのが、吉行淳之介である。

 「驟雨」「娼婦の部屋」などは読めばその世界に行けるので、よく読んだ。そういう夢をまた見たいという時に見れるようなそんな話である。

 吉行の話はちょっとそんなところがある。

 

 それを言うなら永井荷風じゃないのか、という声が聞こえる。

 永井荷風も好きでよく読んだし「濹東綺譚」は高校時代に授業をさぼって図書室で椅子を並べて寝転びながら読んだ記憶がある。

 ただ、どこか永井荷風は情緒が勝って、愛に欠けるところがあるが、それは本人も意識して書いているところがある。

 むしろ森鴎外の「舞姫」の方が情愛を感じる。

 女を捨てる話だが無情に捨てるにしても、結局そこには男がなにがしか喪失するところに情愛の香りが漂うので、そういうところは漱石より鴎外の方が色っぽい感じがある。

 

 近世の中にはいろいろあると思うが、上田秋成の「雨月物語」にある「浅茅が宿」が好きである。

 女を捨てた男が時を経て女と再会を果たすが、という話だが目に浮かぶという意味ではやはり夢のような一夜の話である。

 夜が明けた後の段は、男の方の女に対する情を追いかけていて、これはこれで余韻が残る。

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