Natsuya 1.red rope


学校が終わってから、今日は健司たちと飲み会の予定が入っていた。


授業がびっちりあって、大学の近くでやる飲み会だからここから離れるわけにもいかず、研究棟のカフェに誰かいるかな、とそっちに足を向けた。


菜々子は図書館で勉強しているか高橋教授のとこだ。邪魔はしたくない。


「ナツ!!」


この超上から目線の呼び方。反射的に敬礼して振り向きそうだ。


「へいへい」


俺が兵士ならな。


「先輩にむかってなにその態度?」

「なんすか? 千夏先輩」

「話がある!! スタバに行くよ」


「えー! 俺、今日、友達と飲むんだけど。学校の近くだから学校離れたくない」


「あたしが話があるっていうの、ことわるって自分のためにならないと思わない?」


思う。

千夏先輩が俺に話といったら、菜々子のことしかないもんな。


「へいへい。わかりました」


歩き出そうとした千夏先輩に声をかける。


「なあ、スタバはやめようよ。めんどいよ」


スタバは駅のほうで、しかも反対側だ。

なんであんなところまでいくかな。


「あんまり、人に聞かれたくない話なのよ」

「お! 近くていいとこ知ってる」

「そう?」


まあ飲み会までには終わるだろう。


俺はそうタカをくくって、千夏先輩のちょっと前を歩き出した。


何も言われることなんかねぇよな。


俺と菜々子は超うまくいっている。

俺は今、幸せでたまらない。


菜々子だって俺といると楽しそうだ。


……ただ、この間、外で待ち合わせたとき、菜々子が先についていて、浮かない顔で外を見ていた。


もう以前みたいに、しゃかりきになって英文の原書を読んでるわけじゃなく、珍しくボーっとしていた。


菜々子だってボーっとしたいときくらいあるだろう。その後はいつもと変わらずに楽しそうにしていた。


でも後から、俺はなぜかすごく、すごく不安になった。


あのとき、『どうした?』って聞いた俺に、またつまらない嘘をはいて隠しやがった。


話したくなるまでそっとしておいてやろう、と思ったけど、ああいうことで菜々子をそっとしておくと、結局気がかりが増えて俺の体調によくない。


今日、俺の家で待っているって言ってたよな。


原因聞きだしてやる!!


そんなことを思いながら、大学から駅に向かう並木道から俺は細い横道に入る。


連れて行った中華料理屋のドアをガラガラとあけると、千夏先輩はもの珍しげに外観を見上げていて、なかなか入ってこない。


「千夏先輩、ほら」


開けたままのドアに手をかけ、千夏先輩を促す。


「あーうん。でも別にご飯は……」

「コーヒーもジュースもあるよ。メシ頼まなくっても問題ない」



俺があんかけカニチャーハンを短時間で食うと、待ってましたとばかりに、千夏先輩が口を開いた。


千夏先輩の前には、コーヒーだけだ。


「菜々子、交換留学でイギリスに行く話を、あんたのために断ろうとしてるの知ってた?」


それこそ寝耳に水で、俺は誰の話をされているのかわからなかった。


「菜々子が、交換留学?」


千夏先輩がため息をつく。


「そう。英文科の二年で成績優秀者は、学校がすべて費用を負担してくれてイギリスに交換留学ができるの。一年も前から菜々子は準備してて、最近だけど菜々子は何人かいたその候補の中から決定したの」


「そんな話、菜々子一度も――…」


「二度目につき合ったときは、菜々子、あんたにすぐ飽きられて捨てられる覚悟だったんだと思うよ。そんで、イギリスに行こうとしてた」


「は? なんで俺が? 話がぜんぜん見えない」


こんなに菜々子が好きで好きで好きで………。


「傍から見てると笑っちゃうけど、菜々子、自信なかったんだよ。ナツにはわたしなんてつりあわない、って言ってた」


「はぁー? つりあわないのは俺のほうだろ?」


「うん。あたしもそう思ってた。あんた、かっこいいけどバカそうだし、女にだらしないって過去を持ってるし」


あいかわらずはっきりモノをいう姉ちゃんだなー。


「今は菜々子だけっすよ」


「わかってるよ。たぶんね、菜々子にそのあんたの誠意が伝わったんだと思うよ。ナツがわたしの側にずっといたいと思ってくれてるから、っていうのは建前で、菜々子、怖いんじゃないかな。イギリス行って、あんたを失うのが」


「……何年?」


「普通は一年。でも菜々子はがんばって向こうの大学卒業しようとしてたから、そうなると三年」


三年……。

三年も菜々子と離れてすごす?


「行かせない? 菜々子のこと」


俺は混乱した頭でようやく口を開いた。


「俺にそんなこと言う権利ねぇ」

「権利あったら言うの?」


菜々子。

翻訳家になって、養ってくれた両親に楽をさせてやりたいって言っていた。

それにイギリスは菜々子が大好きな国だ。


俺がいるから菜々子はこの話をことわった?


「冗談じゃねぇ」

「行かせるの?」


「行かせるも行かせないも、菜々子が決めることだ。でも俺のせいで、菜々子の夢がつぶれるなんて、そんなの俺ぜんぜん望んでない。俺たちは離れて住んだって、別れたりしない」


「でも菜々子、ことわっちゃったよ?」

「まだ、間に合う?」

「たぶんね」



俺は立ち上がった。

立ち上がって千夏先輩の腕を引っ張って立たせる。


「千夏先輩、一緒に来てよ。どこ? その高橋教授の研究室って」

「いいよ」


会計を済ませると俺と千夏先輩は大学にもどった。


語学系の研究室が集まっている第三研究部と呼ばれる建物に千夏先輩は俺を案内した。


「ここの五階。エレベーター降りて左から二番目が高橋教授の研究室。わたしも一緒に行こうか?」

「いい」


見送る千夏先輩に軽くうなずいて、行ってきます、の合図を送りエレベーターに乗り込んだ。


俺は乱された思考を整理する間もなく、高橋教授の研究室のドアをノックしていた。


考えている間に、イギリス留学を誰かに持っていかれてしまいそうな気がしたから。


「どうぞ」


年配の男の人の声がした。

俺は部屋に入るとドアを後ろ手に閉めた。


「はじめまして。自分は、経済学部一年の一之瀬夏哉と申します。佐倉菜々子さんの交換留学の件についてご相談にきました」


「ああ、彼女は断ってきたが、ここまで頑張ったのにもったいなくてね。どうにか考え直してもらえんもんだろうかと思案してたところだよ。君は、彼女の……?」


「おつき合いをさせていただいてます」

「ほう、佐倉さんにそういう人がいたのか」


「自分も今、彼女が留学を断った件を知りました。というか、交換留学の件も今知りました。話し合います。イギリスは彼女の一番行きたい国です」


「そうだね、彼女はイギリスが大好きだよ」


「たぶん、一時の感情でお断りしてしまっただけなんだと思います。他の候補に変えるのを、あと少しだけ待っていただけませんか?」


「来週の頭にはわたしも推薦状を書かねばならん」

「じゃ、せめてあと一日」


「ああ、いい返事を待ってるよ。佐倉さんは勉強熱心だし素直だ。わたしもぜひ、彼女に行ってもらいたい」


「ありがとうございます」


俺は安堵と嬉しさで、頭をさげるのもそこそこにドアに手をかけた。


「幸せだな。佐倉さんは」

「はい?」

「君たちなら、何年か離れてもやっていけるような気がするよ」


おお! いい教授だなー。


「自分もそう思います!」


やった!! 

よかった!! 


菜々子、これでイギリスへの切符、確実だよな。


研究室から廊下に出ると、閉じた扉を背に深呼吸をし、片手でガッツポーズをした。



菜々子の留学は確実……そう思うと、嬉しい反面、いいようのない寂しさに襲われた。


初めての恋が、半端ない距離の遠恋。


ちゃんと聞いていないけどイギリス行きっていつなんだろう。


もう菜々子は俺の家にいるかな、早く会いたい。会って確かめたい。


俺たち、何年離れても大丈夫だよな?




「一之瀬くん」


エレベーターを降りたところで、ふんわりした声に呼び止められた。


百合先輩だ。

今日はよく女の先輩に呼び止められる日だな。


「はい?」

「このエレベーターから降りてきたってことは、もしかして、菜々子の留学もどしてくれって、教授に直談判?」


「そうです」

「大丈夫そう?」



「たぶん。菜々子は今日、説得します」

「よかった。ちょっと座らない?」


すぐ側のベンチを指さされた。


ホントは早く家に帰って菜々子の顔が見たい。


でもこのふわふわした百合先輩のペースに飲まれたのか、俺はベンチに腰を下ろした。


『百合は超天然なの』


自分だってかなりの天然だと思うけど、菜々子が前にそう言っていた。

菜々子のかつての恋敵だ。


テニスをやっている時まで、こういうふわふわした雰囲気なんだよこの人は。


シャカシャカ走り回って豪快に打ちまくる菜々子のテニスと違って、いつのまにか走ってベストなポジションをとり、どこにも力が入っていないような優雅な打ち方をする。


それでも菜々子より強いから、わからない女の子ではある。


「わたしに感謝してる?」

「は?」


「だって、わたしが高志の前にあらわれて、高志がわたしを好きにならなかったら、今頃、まだ菜々子は高志とつき合ってたかもよ?」


綿菓子みたいな柔らかい雰囲気でヤなことを言う女だな。


「なーんてね。それはない」

「なんで?」

「わたしね、特技があるんだ」


いったい百合先輩は俺を呼び止めて、なにがしたいんだろう。

超天然っていうよりはもしや不思議ちゃん?


「糸が見えるんだよ。小指の赤い糸」


そう言って、自分の手を空に向かってかざしてみせる。


「はぁ……?」

「わたしの糸はあっちにつながってる」


研究棟のカフェのほうを指さす。


「一之瀬くんのは、あっちにむかってる」


俺は息を飲んだ。

百合先輩が指差したのは俺の家の方角だった。

俺の家にはそろそろ菜々子がついているはずだ。


この子、俺んち知らねえよなあ。


「わたしと高志の糸がつながってるのが見えたの。まだ菜々子と高志がつき合ってる頃。でもね、ちゃんと、菜々子の小指にも糸がついてた」


そこでぷっと百合先輩は吹き出す。


「糸っていうよりロープ?」

「ホントっすか、その話?」


手足を前に伸ばしながら、うーん、と声に出して伸びをしてから百合先輩は告げる。


「どうかなー。菜々子はさ、わたしに高志をとられたことで、恨み言なんて言わないけどさ、どっかで、自分はダメな人間なんだと思っちゃってるとこがあってね」


「………」 


「そんなことないのにね。たまたま、高志には菜々子よりわたしのほうが合ってただけ。菜々子にだって、いつか、高志よりずっと合ってる彼氏が現れると思ってた」


「だよな」

「ありがと。一之瀬くん」


おもむろに立ち上がりながら、百合先輩は俺に笑顔を向けた。


「なにが?」

「菜々子とつき合ってくれて。だって高志、菜々子のこといっつも陰でこそこそ気にしてるんだもん。もう兄の役目も終わったなって、この間言ってた。やっと高志がわたしだけの高志になった」


「は?」

「ばいばーい」


ひらひらしすぎで流行おかまいなしの少女趣味なスカートの裾を翻し、ニコっと笑って研究棟のほうへ走り出した。


やっぱありゃ、天然じゃなくて不思議ちゃんだな。

そのへんのアイドルと遜色がないくらいかわいい顔をしてんのに、超残念。


人ってわからないものだな。


あんなにかわいい顔をした百合先輩に、俺はなにも感じない。

でも高志先輩はきっと、強烈な何かを感じたんだろうな。


俺が菜々子に、どうしようもないほど強烈に惹かれているように。


糸じゃなくて、ロープ。

ロープか………。


本当に見えないロープがあったら、指につないでおくだけじゃ不安で、俺は菜々子をぐるぐるまきにして、自分の側においておきたいよ。


俺を好きだと言ってくれても、何度身体を重ねても、不安でたまらない。


二人で歩いているとき、俺らの前を自転車で横切った男が、あからさまにチラっと菜々子を見る。


それだけで、そいつを追いかけていって殴りつけたい衝動に駆られる。


俺はおかしいんだろうか。菜々子を好きになってから、どれほど変わったのだろう。


結婚という制度も、エンゲージリングも、男が好きな女を縛り付けておくために考え出したもんじゃないかと思う。


所有の証。

俺も、それがほしいよ菜々子。

お前の心は永遠に俺のものだという証がほしい。



こんな状態の俺なのに、俺は菜々子をイギリスに行かせるしかない。

菜々子につりあう男でいるために。


太陽に自分の右手をかざす。

ロープでつながれてる、か。


ふーん。


「エロっぽくていいじゃん」


俺は少し気分が晴れていることに気づいた。


菜々子。

俺たち、見えないロープでつながれているらしいぜ。

だから、イギリスと日本に別れて住んだって大丈夫だよ。


お前に追いつくために、俺も早く自分の未来を見つけなきゃな。


いまでも俺にとって菜々子は謎だ。

なんで俺に声をかけた? 

どうしていきなりつき合おうなんて誘ってきた?


この話をすると菜々子は必ず、照れ笑いをしてはぐらかす。


逆ナンなんかする女じゃないのにな。

でもそのおかげで今の、大きく改革された俺があり、二人の関係がある。


菜々子。

俺、まだまだお前のことが知りたい。

本当は行くなって言えたら、どんなに楽だろうな。


















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