Nanako 6.decision
◇
「菜々子、高橋教授の推薦、断ったってホントなの?」
大学の中にある学食の一角、わたしと千夏は向かい合って、A定食を食べている。
はす向かいには百合がいる。
千夏がカフェじゃなくて学食でランチを食べようなんて提案してくるから、どうせこの話じゃないかな、と思っていた。
「うん、でもどうして千夏が知ってるの?」
「高橋教授に授業のあと呼び止められたんだよ。佐倉さんと、仲良かったよね、君、って」
「君だよ君。二年目なんだから名前くらい覚えろっつーの。菜々子とつるんでることは知ってるのにね」
「はぁー。そういうヒトだからね」
「せっかく交換留学行けるのに。奨学金までつけてくれて。英文で2人だよ? いままでなんのためにがんばってきたの?」
「そうなんだけど……」
「一之瀬君のせい?」
百合が遠慮がちに聞いてくる。
「う……」
「それっきゃないじゃん バカナツ! 行くなって言ってきたの?」
「違うよナツには話してない。ナツは知らないの。っていうか、百合、知ってたの? わたしとナツがつき合ってること? ごめん、つい最近なんだよね。話そうとして……タイミング逃してた」
「うーん。知ってるっていうか……」
「ナツの態度がバレバレなのよ。どーだ菜々子は俺のもんだ!! みたいな口ぶりで、男連中牽制してるから。とくに風間っちのことね」
はぁそうなんですか。頭痛い……。
そうこの一年。
うちの大学と姉妹校にあたるイギリスの大学に、英文の生徒が毎年送られる交換留学。
その制度をつかってわたしは留学しようとがんばってきた。
本当なら留学期間は一年。
でもわたしはこの学校と姉妹校のTransfer編入制度をつかって、イギリスの大学を卒業しようとしていた。
そうすると、単位の関係でわたしはもう一度イギリスで二年生をやることになり、少なくともあと三年は日本に帰れない。
でも、それが確実とまではいかなくとも、わたしがやりたい、イギリスの児童文学の翻訳という道に大きく近づくことになる。
だけど……。
わたしは目の前に来て、その橋渡し役である高橋教授にこの話を断った。
「どうしてなのよ。菜々子」
「人を好きになるって、どういうことだと思う?」
わたしは呟いた。
「は?」
わたしの話の趣旨がわからないといった具合に千夏は、イライラした様子だ。
「自分のことより、相手のこと、考えちゃうよね」
おっとりと百合が答えた。
「うん」
「菜々子はいつもそう。自分の気持ちに蓋をしてでも、好きな人を優先する。だから高志ともすんなり別れたんでしょ?」
わたしはびっくりして、百合を見た。
「えっ! 百合知ってたの? わたしと高志のこと」
「最初は知らなかったよ。でも半年くらい前かな、高志の部屋で、二人がつき合ってる頃のプリクラ見つけたの。高志にとって菜々子は、自分の歴史の一部で……。今でも大事な妹なんだよ」
「百合」
「わたし、でも引く気なかったよ。なんでわたしが引く気がなかったかって、それはね、わたしが高志を好きだから、じゃなくて、高志がわたしとつき合うことを望んでたからだよ」
「ちょっと百合」
千夏が言葉を挟む。
「いいのよ千夏。わたし、百合の言うこと、よくわかるから」
一見、自慢話に聞こえてしまいそうな百合の言葉の真意が、わたしにははっきりと理解できる。
スキニナルト、ジブンヨリダレヨリ、アイテヲ、ユウセンシテシマウ
「でもね菜々子、一之瀬君は本当に、菜々子の交換留学をやめさせたいと思ってるのかな? 菜々子を夢から遠ざけてでも手元に置くこと、それが一之瀬君の希望? それが一之瀬君の望むこと?」
「だって……だって一緒にいようってナツが……。せっかくそう望んでくれてるのに」
そう囁いてわたしの左手の薬指に優しく触れてくれたのに。
ここで三年も離れたら、ダメになっちゃうかもしれない。
国内じゃないんだよ?
イギリスなんだよ?
「もう決めたの!」
わたしはランチプレートを手に、立ち上がり、二人を残して返却口に足を向ける。
「好きなら、逃げないで一之瀬君の気持ちを一番に考えてみて。菜々子!」
切実な色を持った百合の声が追ってくる。
「そうだよ、菜々子。このことあとから知ったら、ナツはどう思う? 相談もしてもらえない彼氏って悲しくない?」
ナツの気持ち?
ナツはわたしと一緒にいたいよね?
ずっと一緒にいようって言ったもん。
それは……わたしの夢をつぶしても?
そう。
ナツに相談すれば、きっと彼はわたしが決めた選択とは別の答えを口にする。
寂しさに笑顔で蓋をして、わたしの長年の希望を最優先にする事を勧めてくるだろう。
ナツのせいにして……離れたくないのは、わたしのほうなんだ。
お父さん、お母さん、わたしが交換留学生の候補に上がっていると知らせたとき、泣いて喜んでいた。
『今日、そっちへ行ってもいい?』
千夏と百合と離れ、学食を出てから、わたしは震える手でナツにラインをした。
『今日、飲み会。蔵』
相変わらず、絵文字も顔文字もない一行ライン。
『待ってちゃダメ?』
『いいよ』
ナツ……。
◇
飲み会だというから、ご飯を炊いて、お茶漬けの用意だけをしておく。
食卓テーブルに頬杖をついてキッチンのほうを見ると、炊飯器から上る白い湯気が視界に入る。
けっこう勢いよく上がるもんなんだな……。
ここに来てナツを待っている間、頬杖なんかついていたことがない。
いままでは寸暇も惜しんで英語と格闘をしてきたからだ。
もうレポートは書かなくていい。
わたし、断ってしまった。あんなにがんばってきたのに。
イギリスに行くのが小さい頃からの夢だった。
大好きなファンタジーの宝庫。
アリスを生んだ不思議の国。
秘密の花園や嵐が丘に出てくるヒースの花や荒野をこの目で見たい。
ロンドン塔の血塗られた歴史。歴史の国でもある。
ひとつひとつ思うと自然に涙があふれた。
わたしはナツを選んだんだ。
未来になんの約束もない今この瞬間の恋を。
でもそれは、本当に正しい選択なんだろうか……。
わたしは、未来永劫、後悔しないと言える……?
ガチャガチャと鍵を開ける音がして、ナツが入ってきた。
どうしたんだろう? まだ九時前だよ。
「ただいま」
「ナツ、飲み会は?」
「なんか俺、今日モテモテでさー、オレンジの女の子から話があるって。連続で二人も。飲み会行けなかったよ」
「え……? 告白?」
「そう。告られました」
そうか。わたしとのこと、オレンジに隠してって言ったのはわたしだもんね。一年生だよね。わたしがいなくなったらきっとすぐ………。
「………」
「菜々子来いよ」
ナツはわたしの手を握り、ベッドルームにむかう。
ベッドに上がると両足を大きく開いて背もたれに寄りかかって座り、自分の膝の内側を叩く。
ここに来いってことだ。
わたしはナツに背中をむけてそっと彼のつくった囲いの中に入った。
「そうじゃなくて」
ナツはわたしの身体を反転させ、向かい合わせになると長い足を交差させて囲いを閉じる。
「ナツ……」
ナツのほうを向いて座らされると、顎を持ち上げられ、至近距離で顔を見られる。
ナツの親指がわたしの目の下をそっとなぞる。
「俺に内緒で泣くなよ」
「泣いてない」
「嘘吐き。化粧とれてほっぺたにスジできてるもん」
恥ずかしくてナツの胸に顔を埋めた。
「菜々子……」
ナツは胸に何かがつまったような、思いつめたような声を出して、わたしの身体を強い強い力で抱きしめた。
「ナツ……話があるの」
「うん」
胸がキリキリと痛んだ。
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