Nanako 5.happiness


ナツの車を降りて、とぼとぼ公園にむかって歩いていると、後ろから、どんっと肩を押された。


千夏だった。


「千夏……」

「めでたくもとのサヤに収まったわけね?」

「うん……」


「なんでそんな浮かない顔してんの?」

「………」 


「あんた……まさかまだ、ナツにあのこと言ってないの?」

「………言ってない」


「どうして? つき合いはじめたならまっさきに打ち明けるべきでしょ?」


「ナツは……きっと、もうすぐわたしに飽きる……予定」


「どうしてそう思うの? ナツがいままでの彼女とすぐ別れてきたから?」


「うん」

「すぐヤられちゃってもうポイされそうなわけ?」


「ちょっと!! そういう言い方やめてよ」


「でもようするに菜々子はそうなると思ってるんでしょ? それを望んでたんじゃないの? そうなる兆しがもうあるの?」


わたしは静かに首を横に振った。

そう、つきあいはじめてまだ何日か。

今が一番楽しい時かもしれない。


それでも不安におののくわたしの気持ちを包もうと、ナツは一生懸命になってくれている気がする。


ナツはホントに優しくて、明るくて、わたしに触れる手に愛おしさがあふれている、と思うのは自惚れだろうか。


誤算だけど……喜んではいけない誤算なんだ。


「すぐ、振られようと――……」


ナツは、わたしを抱けば興味なんか半減だと思っていた。

でも不自然にそういうことを強要することは絶対にない。


我慢も……していると思う。


「菜々子……」

「近くにいたいよ。覚悟はできてたはずなのに……なんで」


ナツなんだろう。

なぜ別れなくちゃいけないのがナツなんだろう。


ナツといるとどうして楽しいか今わかった気がする。


同じものを見て美しいと思い、同じものを見て感動する。


好きじゃないものや感覚に合わないものは、悪口を言うのではなく、ただ見ない。


ナツの生き方を好きだと思う。

ナツの性格をとても愛しく思う。


さりげないおしゃれも、コーヒーが好きなところも、腰にフォルガの刺青タトゥーがあるところも、フォルガの刺青を喫茶店の隅でわたしに見せるところも、ダヴィンチとダーウィンを変わらないというところも、わたし一人にプリンの類を五個も六個も買ってくるところも。



わたしの心がナツの手のうちから少しでもこぼれていると、決して触れようとしないところも……。



友達を大切に思い、家族を大切に思い、自分の気持ちに嘘がつけず、全く素の自分を飾ろうとしない。



欲しいものにはがむしゃらにつっこんでいく。


ナツ。

わたし、一日中でもあなたの好きなところを喋り続けることが出来るよ。


ナツ。

君はわたしが持っていないものをたくさん持っている。


それでもなお、わたしと君は同じ風景を見て綺麗だと思うんだ。


わたしとナツは同じ石から切り出されて加工された、男ものと女もの、二つのアクセサリー。


どうしてここまで思うんだろう。

思い上がりだろうか。

錯覚だろうか。


ナツはやっぱりわたしに飽きるのだろうか。


「菜々子……。大丈夫?」


いつのまにかわたしの頬には涙が伝っていた。

いつからこんなに泣き虫になったんだろう。


オレンジの練習が終わり、ナツはわたしを含めた何人かを最寄の駅で降ろし、ジムにむかった。


わたしは家庭教師のバイトにむかう。


ナツの病気で休んでしまったぶん、家庭教師の振り替えをしなければならない。


でも、もう、家庭教師センターから、連絡はいっているはずだ。


わたしが今月いっぱいで授業を打ち切り、他の人が派遣されてくることを。


高橋教授のレポートの指導もあと一回。


すべてがわたしの未来にむかって進んでいく中、わたしはただ一人の人のために思い悩みはじめていた。


ラインの通知を開く。


『今日、来る?』

『行く。でも今日は帰るよ』

『じゃあ早く来い! マッハで来い』


スマホの画面を見つめるわたしの唇に笑みが浮かんでることに気づく。


きっとわたし、傍からみたら幸せボケしてるみたいに見えるんだろうな、とぼんやり思う。

 


大学に向かう途中の並木道で、先がごくごくうっすらと色づいているプラタナスの葉を拾い上げる。


その葉を手にしたまま、抜けるような晴れ空を背景に、悠然と、青々と繁った葉を揺らす並木道を見上げた。


夏の終わりを告げる境界線はまだ引かれない。

でも季節は確実に動いている。


「菜々子、次の日曜オレンジないだろ? どっかでかけようぜ? やっと菜々子のレポートも終わったしな」


「でもナツ、土曜日ボクシングの試合じゃない。無理しないでよ」


「たかだかクラブ内の対抗試合。無理じゃねーよ。俺が行きたいの!」


わたしをバイクで家まで送ってくれたナツは、そのまま家に上がりこんで、ベッドの上でゴロゴロしている。


「でもそれが終わったら、ジムやめるんでしょ?」

「うん」


うん、と答えた一瞬、ナツはちょっとだけ寂しそうな目をした。


わたしはとりあえず、豆をひき、コーヒーを落としてアイスコーヒーを作り、ナツに出す。


あれから、ナツの家に泊まることはほとんどなくなって、彼はきちんとわたしを家まで送ってくる。


時には遠回りをして湾岸や夜景の綺麗なスポットに連れて行ってくれる。

深夜デートだ。


「あー、これ飲んだら帰んなきゃ! 今日、健司たち泊まりにくるって」


忙しい男だ。


「そういえばさ? ナツが熱だしてわたしが泊まりに行ってた間、一度も友達から連絡なかったの? 誰もこなかったね? ご家族もいつ海外から帰ってきたの? おみやげとか持ってこないんだ?」


「うーん、そうだな」

「考えてみれば超不自然じゃない?」

「そうでもないよ」



「ナツ!!」


「……あーホントは、誰もうちに来んじゃねえって、グループラインに投下した」


「……家族の海外は?」


「嘘です。ヒカリにラインして、母ちゃんが俺んちに来そうだったら、阻止しろって」


だから充電器を貸した時にあんなにスマホをいじっていたのか。


「ナツのばかっ!! どんだけわたしが心細かったか!!」


わたしはベッドの上のクッションを手にとってナツに思いっきり投げつけた。


「なっ、菜々子落ち着けよ。俺だって必死だったもん。あんなチャンスもうないと思えばなんだってすんだろ」



「だからって!! 熱が40度越してるのに!! 死んだらどうすんのよ!?」


「俺だって医者の息子だぞ? 40度台はまだ大丈夫なんだって」


「もっと上がるかもしれなかったんだよ……」


「……すみませんでした。もうしません」

「それ、前も聞いた気がする」


「おーもうこんな時間じゃん、俺帰んねえと!! じゃ、また電話すんなー」


ナツはぬいでた半そでのシャツをつかんで、玄関にむかった。





土曜日、ナツの試合を見に行くことはできなかった。

同じジム内だけでやるらしく、部外者は誰もこないから。


一回くらい、ナツがボクシングをやってるところを見たかったな。




日曜日はいい天気だった。車で迎えにきてくれたナツは、鼻の頭によくみないとわからないくらいの擦り傷があるだけで、いたって元気だった。


「どこ行くの?」


『弁当作って』


そういうラインが昨日きた。


「自然が多いとこに行きたくなったな。箱根は? すすきが綺麗だぞきっと」

「うん」


ナツと街をぶらぶらする以外のデートははじめて。

すごく嬉しい。


お気に入りの音楽をかける。

ナツは信号まちのときに手を握ってきてキスをする。

二人で必要以上にハイテンションだったかもしれない。



車でうろうろしているだけで楽しかった。

そのうち誰もいない穴場的な、すすきがたくさんはえた野原のような場所を発見した。


「ここで弁当にしよう。今度はきっちりな」


「前のはみんなで飲み会のおつまみにしたでしょ?」


「食ったよ俺一人で。ナベが見つけて勝手に卵焼き食いやがってよー、どついといた。俺、考えてみれば、あの頃から充分、菜々子にまいってたんだよなー。健司に初恋遅すぎって、あきれられた」


持ってきたピクニックシートを広げながら、ナツがそう言った。


「うまいー。菜々子の料理、大好き」


ナツの子供みたいな表情をみると、がんばってよかったと思う。


食後に、ポットに落としてきたコーヒーをナツに渡しながら言う。



「無理しないで」

「なにが?」


「今日のデート、すごくすごく嬉しいよ。でも、ナツ、試合で疲れてるのに試合の次の日に遠出なんてありえないから。あんまりがんばらないでほしい。これからも無理はやめて。部屋で会えるだけで満足だから」


「やだよ」


ナツはすすきの原のほうを見ながら、珍しく真面目な顔でコーヒーを一口のんだ。


「え?」


フッと手元に視線を落とすとまたもとのとおり、前を向いた。


「高校の頃のラグビーさ、練習、毎日遅くまであったんだよ。みんな彼女と会うのは練習の後少しだけ。土日の練習はどっちかが半日のことが多かった」


「うん」


「疲れてるだろうから行くよ、ってたいていの彼女が部屋まできてくれたらしい。親の目を盗んで抱き合って帰っていく。男はそれでそれなりに満足なんだよ」



「ナツの話は入ってないの?」


「入ってない。俺の高校時代の女関係は…今から思えば反省以外のなにものでもないから」


「そう……か」


「みんな、いきなり振られるんだよな。もう疲れた、とか、エッチするのが目的なんでしょ?とかいわれて」


「そうなんだ」


「女側からすりゃ、そりゃ疲れもするだろうし、身体目的だと思われてもしょうがないよな。みんな遊びたいさかりの女子高生でさ、流行のスポットでデートだってしたかったにきまってるもんな」


「うん」


「振られた翌日なんてすげー荒れるやつもいるし、放心状態のやつもいる。俺、そういうの横で見ててさ、次があんのになんであんなに落ち込むかな、って思ってた。ホント、ガキだったよな俺。今の俺に次なんてないように、あの頃のあいつらにだって次、なんてなかったのにな」


「………」


「今の俺らのつき合い方ってさ、あの頃と似ちゃってるんだよ。俺がジム終わって、菜々子が家庭教師終わって、うちにくる。菜々子は凝った料理作って待っててくれる」


「うん」


「しょっちゅう抱きたがるなんて最悪、って思うのに、顔見れば触りたくなって、触ればキスしたくなって、もうそこまでいくと自分で制御ができないんだよ。これでも俺、昔は自分のこと、淡白だなとか、草食系だな、とか思ってたのに」


ナツの口から淡白とか、草食系とかいう単語が出るからおもわず笑ってしまった。


「そこ、笑うとこじゃねぇだろ」


「だって」


あんなに情熱的で感情むきだしの抱き方するのに。


「菜々子が帰ったあとさ、一人のベッドですごく恐くなる。また俺、菜々子抱いたな。菜々子、どう思ってるかな。また身体が目的とか思われたらどうしよう。泣いてたらどうしよう。またいきなりさよなら、って言われたらどうしよう。って」


「そんなこと思ってないよ」


「うん。でも、俺恐い。菜々子といられて幸せなのに、幸せなら幸せなほど、恐えぇの。別れたくないんだ。こんなに惚れた女は初めてで、まともにつき合ったのも初めてで、大事にしようと思ってるのに、どう大事にすればいいのかわかんなくて」


「大事にされてるよ」


「でも、がんばる。夜、バイクで海とか連れてくと、菜々子、すげえ嬉しそうなんだもん。ああいう顔がめっちゃ見たいから。好きなスポーツするのも男友達とつき合うのもやめないけど、菜々子を外へ連れ出すのもやめねぇよ」


「ナツ……」


「俺もめちゃくちゃ楽しいし、菜々子とこうやって外でデートすんの」


「それは嬉しいよ」


「だから言えよ。行きたいとこあったら、ちゃんと言え。俺に文句があるならちゃんと言え。ためこんでためこんでいきなり別れるっていうのは、もう勘弁してほしい」


「ナツ……。ありがとう」


「俺、菜々子みたいに将来の希望とか、はっきり決まってるわけじゃなくて、どういう自分になればお前とつりあうのかまだわかんねえ。でも、努力する」


「いいよ。ナツはそのままで。いままでだって充分努力してきたし。そのままがいい。そのままのナツが好きなの」


「菜々子」


ナツは手に持ってたカップを静かに置くと、わたしの後ろにまわった。


「どうしたの?」

「目、閉じて」

「え?」


言われるままに目を閉じる。

ナツの両手が肩のあたりにあるのがわかる。


「いいよ、目あけて」


わたしの胸元にダイヤでできたイビツなハートのネックレスが輝いていた。


ナツの両腕が前で交差され、すぐにそのネックレスを隠してしまった。


「渡せる日がくるなんて、夢みてぇ」


「………」


表参道のあの店のネックレスだ。


「これ、菜々子にいきなり別れられて、自分の気持ちにはっきり気づいたあと、うちあけに行ったときに持ってったの。バッサリキラれて、出番がなかったネックレス」


「………」


「必死だったよなー。あんなに必死になったことないかも」


ナツがわたしの顔に後ろから強く頬をすりよせてくる。

見た目じゃぜんぜんわからないヒゲをそったあとがちょっと痛い。


「ナツ……」


交差されていたナツの腕がゆっくり解かれ、わたしの手の中に、あの時みつけた小さな封筒が置かれる。


「こんくらいの英語は書けるぞ」


照れたように笑うナツ。


ごめんナツ。

中身はもう見てしまった。でもすごく嬉しい。


封筒からそっとカードを抜き取り、二つ折りのそれをひらく。



Nanako I love you

   I want to live with you

           By Natuya



え?


あの時、かかれていなかった文字。

あとからつけたしたように、無理やり真ん中に割り込んで書かれている文字に視線が張りつく。


I want to live with you


あなたとともに生きたい



「ナ……」


「これはさすがにめっちゃ照れるだろ?」


ナツはわたしの手の中の手紙を、上からたたんで押さえつけた。


でもわたしの脳内にもう今の文字は強く焼き付けられてしまったよ。


あなたとともに生きたい。

あなたとともに生きたい。

あなたとともに生きたい。


思考がまわらない。ナツが、わたしとの未来を考えているの?


ナツがまたわたしを後ろから抱きしめる。


「不思議なんだよ」

「え?」


「菜々子とつき合い始めたとき、これ以上の気持ちはないって思ってたのに、どんどん好きな気持ちが深くなる。お前に夢中だった。片思いだった頃。でも、今は本気。本気で好きになった相手なんだと思える」


「ナツ」


「お前と俺は、二つしかピースのないパズルなんじゃないかと思う。二つが合わさったときひとつの景色ができあがるの」


ナツは風がつくるススキの原のうねりを見ながらしずかに言った。


「めちゃくちゃ簡単なパズルだね」


「ちゃかすなよ。俺のもうひとつのピース、見つけるまで遠回りだったと思うぞ」


「でもね、わたしもナツに対して似たようなこと思ってたんだ」

「なんて?」


「わたしたちは、ひとつの石から切り出された男ものと女ものの二つのアクセサリーなんだって」

「………」


「ナツ?」

「ちょっと感動するなそれ」


「わたしも。えへっ、これもめちゃくちゃ恥ずかしいね」


ナツに後ろから抱きしめられるのが、好き。

たぶん、ナツもわたしを後ろから抱きしめるのが好きなんだ。


耳を優しく噛みながら、ナツが囁く。


「ずっと、一緒にいよう?」


「うん」


「俺、うんと努力するから。お前を守れるように。並んで歩けるように。だからいつか……」


ナツはわたしの左手の薬指の根元を、そっとこすった。


すぐに振られると思っていたのに、今は、ずっと一緒にいよう、と言うナツの言葉を当然のことのように聞いている。


ナツの、わたしを呼ぶ呼び方が、菜々子さんから菜々子に変わり、あなた、からお前に変わった。


そんな距離の縮まり方をすごく、すごく嬉しく感じる。

大好きな……愛するナツのために、わたしは何ができるだろう。































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