Nanako 3.determination
◇
鍵をあけてわたしを部屋に入れると、ナツは玄関にあったビニール傘を掴んだ。
「風邪ひくから、シャワーあびて髪乾かしなよ。俺コンビニ行ってくる」
「え?」
まだどしゃ降りなのに、ナツはあっという間に外に出てしまった。
ナツがいると、わたしがシャワーをあびにくいと思って、たいした用事もないのにコンビニに行ってくれたんだ。
病み上がりなのにこんな雨の中出て行って、ぶり返したらどうするつもりなんだろう。
そうしたらわたし、また看病ができるのかな。
ナツの近くにいられるのかな。
お言葉に甘えて、わたしはシャワーを浴びて、髪を乾かし、乾いた服に着替えた。
洗面台に置きっぱなしの私物をまとめる。
コップに二本ささった歯ブラシを一本抜き取る。
こんな私的なものをこんな私的な場所に刺していたんだ。
意識の大半がナツの熱にいっていたからって、これじゃ恋人同士だよ、と、ちょっと泣き笑いのような顔になってしまったと思う。
歯ブラシはその部屋の心の鍵みたいなものだと思う。
ナツはわたしを自分の心の部屋に入れてくれた。
そこをわたしは出て行こうとしている。
何もしないまま、ナツに思われ続けた勝ち戦のままここを出て行く?
遠くへ。ずっと遠くへ。
そうしたら、ナツはわたしを忘れないかな?
身体にいつまでも残る傷があるように、君の心に傷でもいいからわたしを刻むことができるのかな。
それともぼろぼろになっても、ナツに自分の本当の気持ちを告げるべき?
そのほうがナツは苦しまないですむんだろうな。
そんなことを、歯ブラシを見ながら、ぼんやりと考えていた。
「ただいま」
だいぶ時間がたってからナツが帰ってきた。
すっかりまとめられたわたしの荷物をちらっと見て、俺もシャワー、と呟き、バスルームに消えていった。
ナツにコーヒーを入れてあげようと、キッチンに行って、いい匂いがするのに気づいた。
お鍋の中をのぞくとシチューが作ってあった。
コーヒーメーカーでコーヒーを落とし、ロックアイスを大きめのグラスに入れる。
ナツはブラックのアイスコーヒーが……好きだった。
もう何を見ても今日で最後なんだと感じてしまい、涙が出そうだ。
そこで後ろから低い声が聞こえた。
「めし作っといた。って言っても、ただの市販のルーのシチューだけど。俺、これとカレーしか作れねえから」
「ありがとう」
わたしはナツの顔を見ないでお礼を言った。
「これ、俺のぶん?」
ナツがわたしの背後から、アイスコーヒーのグラスを掴み取る。
筋張った大好きな、大きな手だ。
ナツの気配が遠のくのを寂しく思う。
ナツは食卓テーブルに座ると、ありがと、と小さく呟き、一口アイスコーヒーを口に含む。
わたしは何をすればいいのかわからず、ただナツの端正な横顔をじっと見つめていた。
どこか張り詰めた空気の中、グラスを両手で囲うようにして、ナツは動かなかった。
長い沈黙のあと、ナツが静かに言葉を紡ぐ。
「今日、俺が一日、何考えてたか、わかる?」
「え?」
「一分、一秒でも長くあなたをここに留まらせるには、どうしたらいいのかなって」
「………」
「せっかく来てくれたのに、もうこんなチャンスないかもしんないのに……俺の熱、簡単にひいちゃって」
「………」
「知らなかっただろ。俺、途中から薬のんでなかったの」
「ナツ……」
「晩飯つくったら、それ食ってる間はここにいてもらえるかな、とか、菜々子さんが前、見そこねたって言ってた映画のDVD、借りてきたら、それ一緒に見てくれっかな、とか」
ナツは部屋のすみを顎でしゃくった。
そこにはレンタル屋さんの袋が置いてある。
「どうかしてるよな俺」
「………」
「俺、自分で自分がどうなっちゃってんのか、まるでわかんねえ。彼女でもないのに。好きで、好きで、好きすぎて……。もう自制心に自信がない」
「………」
「もとの健康体にもどって、そんでこんな不安定な精神状態の俺といないほうがいいのかも。菜々子さん」
「………」
ナツが痛いほど強い視線、思いつめた視線で、わたしを捉える。
「なあ、なんで俺んちに来てくれたの? 熱だしたのが相原とか枝川とかほかの男でも、菜々子さん、出かけていった?」
「ナツだから………」
「……え?」
覚悟を決めるとか決めないとかの前に、もう走り出したわたしの気持ちにブレーキはかけられない。
もういいんだ。
どうなってもかまわない。
心が壊れるほどの辛い別れが待っていようとも、もうわたしにこの気持ちをとめる術はない。
「ナツじゃなかったら、こなかった」
ナツの目がスローモーションのようにゆっくりと見開かれ、それにつられるように、唇もわずかに開く。
「それ……どういう意味?」
「ナツが好き」
自分の中だけで封じ込めておこうと思った想い。
告げることが終焉への序章。
「ナツが……大好き」
わたしの両目から、とめどなく涙があふれた。
その場に崩れ折れそうになる身体を、すごい速さでキッチンに入ってきたナツの強い腕が支えた。
「これは……夢?」
ナツがわたしを引っ張りあげ、抱きしめる。
ナツの両手はわたしの頭をかき回し、背中を撫で回し、最後には骨が砕けるような力で身体をしめつけた。
「いまさら、冗談でしたじゃすまされねえぞ」
「冗談じゃないよ」
「……菜々子……」
わたしの名前をあえぐように呟くと、ナツは身体を離し、両手でわたしの顔を挟みこんで、唇を重ねた。
路地裏で最初にされたときのような、なんの技術もない、余裕もないキスだ。呼吸もできなくなりそうだった。
一通りわたしを翻弄させると、ようやくいたわりを感じられる優しい抱きしめかたにかわった。
「みっともねえな俺。夢じゃないって確かめるのに夢中で……」
「うん……」
「なんで……もっと早く言ってくんなかったんだよ。俺の気持ち知ってただろ。辛かった。ホントに辛かったんだぞ」
ナツを失いたくなかったからだよ。
「認めるのが……恐かった」
ナツはもう一度わたしを強く抱きしめた。
「ごめんなごめんなごめん……。もうあなただけだから。大事にするから。もう絶対にどこにも行かせない」
嘘のない、今この瞬間のナツの言葉。心に刻んでおこうと思った。
「うん」
しばらくそうやって、わたしにキスを繰り返し、抱きしめていたナツが、思いつめたような顔でわたしのおでこにおでこをくっつける。
「抱いても……いい?」
「うん」
カウントダウンが始まる。でももう止まらない。
ナツはわたしを横抱きに抱き上げた。
「子供じゃないってとこ、みせてやる」
「子供?」
「俺が熱出したとき言ったろ? 子供は寝なさいって」
「そうだっけ?」
「二度と子供なんて言わせなくしてやる。俺、余裕ないから容赦できないぞ? 泣くなよ」
「泣かない」
泣かないよナツ。
ナツはわたしを抱いたままベッドルームに入り、後ろの足でそっと蹴飛ばして扉をしめた。
わたしをベッドに降ろすと、ナツはシャツを脱ぎすてそこにあがってくる。
菜々子。菜々子。菜々子。
吐息のようにかすれた声で何度も名前を呼ばれる。
俺の名前を呼んでくれ。ちゃんと俺を見てくれ。
口調は柔らかいのに、ぞっとするほど真剣な目でナツはそう言った。
ナツナツナツ。
好きだよ大好き。
全部覚えておこう。
わたしを強く抱くときに現れる、斜めに走る上腕二頭筋のきれいな隆起。
何度か組み替えられながら握り合う指の感触。
ぶつかってこすれる膝や足先の温度。
ナツの額に浮かぶ汗粒の光……。
かすれ、うわずった声で、菜々子、とわたしの名を紡ぐ時の咽仏の動き。
ふわりとした髪が鼻先をかすめ、まだ湿った頭皮から匂いたつメンズ仕様のシャンプーの香り。
バスルームにあったクリアブルーの固形のボディソープは、ナツの肌の上で、ムスクに似た独特の香りに変化する……。
全部全部、記憶の欠片まで、残さず綺麗に切り取って、わたしの脳の海馬に深く刻みこむんだ。
果てる瞬間、両腕をわたしの顔の横についていたナツが、かみ締めていた唇から、耐えかねたようにわたしの名前をこぼした。
◇
閉じたカーテンからもれる朝の光のなか、目覚めたとき、ナツの腕がわたしの背中を抱くように上に乗っていた。
枕に半分顔を埋めて眠るナツの横顔に手のばし、散らばっている髪をかき寄せた。
汗で張り付いた髪をどけてあげると、目を閉じたままのナツは、小さくわたしの名前を呟き、探るようにこっちに手をのばす。
しっかりその手を握ると、面白いように力をなくした。
ベッドからするりとぬけだして、散らばっている服をそのまま身に着ける。
まとめてあった荷物を手に、ナツの眠るベッドに近づき、顔を寄せる。
「ナツ、帰るね」
反応がない。
病み上がりでまだ本調子じゃないんだ。
「バイバイ」
そっとベッドルームを抜け出すと、わたしは玄関で靴を履いた。
振り返ってくすりと笑いがもれた。
昨日、夜中に二人で食べたナツの作ったシチューを思い出す。
にんじんもたまねぎもじゃがいもも、全部”乱切りのようなカンジ”に捌かれていて、ホントに料理しないんだな、と思った。
にんじんにはいまいち火が通っていなかった。
わたしのことを想いながら、あのシチューを作ってくれたんだと考えると、くすぐったいような、誇らしいような幸福感が心に満ちる。
なのに……。
涙がでるのはどうしてだろう。
ナツに抱かれて、彼のわたしに対する興味はどのくらい減ってしまったのだろう。
わたしは平凡だ。
ナツがつきあってきた今までの女の子に勝てるものなんか……しいて言えば料理くらいだ。
でも今はおいしいものなんかいくらでもあるし、だいたいナツのお母さんだってかなりの料理上手だ。
料理でひきつけておくのは無理だろう。
でもいい。
こうなる道をえらんだのは他でもないわたし自身なのだから。
わたしから連絡をしなければ、そう時間がかからないうちに自然消滅になるんだろう。
ナツが好きだと言ってくれている間は、わたしの全身全霊をかけて、彼を愛していくよ。
エレベーターホールでそんなことを思いながら、エレベーターを待っていた。
バタンとすごい音がして、エレベーターからそう遠くないナツの部屋の扉が開いた。
「ナツ……」
そこには下だけパジャマを着たナツが、ものすごい形相で立っていた。
ナツは裸足のままつかつかとエレベーターホールまでくると、わたしの手首を掴み、自分の部屋に連れ戻した。
玄関で、すごい力で抱きしめられる。
「なんで……?」
ナツがうめく。
「昨日、無茶な抱き方したから、もう俺が嫌になった?」
「え?」
「ひどい。あなたは鬼だよ。二度も俺を天国から地獄に突き落とすのか」
「ナツ、落ち着いてよ。気持ちよさそうに寝てたから、そのまま帰ろうと思っただけだよ」
そこで、ナツはようやく腕を緩めてわたしの顔を見た。
「バイバイって言ってったよな?」
「え? だってそんなの」
「別れるって意味じゃないの?」
「違うよ……ただ帰るから」
ナツは両手で頭を抱え込んで、しゃがみこむ。
「もうっ!! バイバイとかさよならとか言うな!! 俺トラウマんなってんだぞ。いきなりあなたに前、さよならって言われたろ? 居酒屋の前で」
「だって、じゃなんて言えばいいの? 起こしちゃ悪いと思ったから」
「起こせ! 送っていくって言ったろ? それにもうこれからはバイバイもさよならも禁止。別れ際は、またね、わかった?」
「うん」
「ずっとだぞ」
ずっと?
そっぽを向いて小さな小さな声でナツが呟いた。
聞き間違い?
わたしは、今日はオレンジの練習に出ようと思っていた。
いくら目的のためでも、ここまで英語づけもきつい。
「オレンジに久しぶりに出ようと思ったのよ。ウエアもラケットもないでしょ? だから早く帰らなきゃと思って」
「……よくそういうことが考えられるよ」
「え?」
「俺なんて朝方まで眠れなかった」
「どうして?」
「眠ったら全部消えそうだった。俺の願望がつくったいつもの夢かと……」
「ナツ!! いつもあーいう夢みてるの?」
ナツはわたしの脇に両手をあてると、リビングの端にあるはしご状の階段に持ち上げて座らせる。
ナツの顔がかすかに下にくる。
「そうだよ。恐い?」
「………」
「菜々子を見るたび、俺のものにしたくてしたくて、おかしくなりそうだった」
恐い。恐いほど真摯な瞳。
「じゃこれでもう満足?」
声が震える。
「手に入れたら手に入れたで、失うのが恐い。もう、二度とあんな思いはご免だ」
ナツの手がわたしに伸びてくる。
いつもと高さが逆のナツはわたしの頭を押さえ込み突き上げるように唇を重ねた。
重ねられただけで離れていった唇。
ナツはわたしをそっとひきよせた。
「大事にする。あなたにふさわしい男になるから、もう二度と別れの言葉を口にするなよ」
胸がしめつけられる。
覚悟していたのに。覚悟ができていたから、わたしは眠れるのに。
そんなに思い詰めた瞳で見つめられると、もっと、ずっとナツの近くにいたいと願ってしまう。
いられるのかと勘違いしてしまう。
失望されたくないよ。
ナツもオレンジの練習に出るという。
そんな寝不足で出て、そのあとジムに行ったらまた倒れてしまうと思い、オレンジだけは今日は休んでもらうようにお願いした。
そこだけはどうしても、引いてくれず、ナツは車でわたしを家まで送ってくれた。
その車内での会話だ。
「今日、高宮さんに、休むってライン入れる時、俺らのこと報告するぞ」
「え?」
「つき合うことになったって」
「い、いいよ。そんなのわざわざ言わなくたって」
「夏合宿過ぎたら、恋愛関係解禁なんだろ? ったく変なサークルだよな。そこんとこ」
「や、それは、その、大学にありがちなカレカノ探しサークルと分けるためじゃ……」
「まあ、テニスが目的のやつらばっかだってのはわかるよ。だけど、こうやっていくつもカップルできていくんだよな実際。男女のサークルって」
「そうだね」
「だから心配なんだよ。俺らのことは公表する。菜々子に変な虫がつかないため。そうしないと俺、心配で寝れねーよ」
「虫なんてつかないから!!」
「あなたは自分のことぜんぜんわかってねーんだよ!! ライバル風間……じゃなくて風間先輩だってあなたのこと好きじゃん」
「せめて十一月まで待って」
「やだ」
「お願い」
「なんで十一月?」
「……それは、そのー……。そのへんになればお互いの気持ちもちょっと落ち着く、から?」
「俺は落ち着かねー」
「あっ。そうだっ! ほら、夏合宿でさ、ナツとわたし、朝、二人で試合したじゃない? あの時負けたほうが勝ったほうの言うこと聞くって約束したじゃない? 覚えてる? ナツ、負けたじゃない!! あの約束、今行使する」
その車内での会話だ。
「今日、高宮さんに、休むってライン入れる時、俺らのこと報告するぞ」
「え?」
「つき合うことになったって」
「い、いいよ。そんなのわざわざ言わなくたって」
「夏合宿過ぎたら、恋愛関係解禁なんだろ? ったく変なサークルだよな。そこんとこ」
「や、それは、その、大学にありがちなカレカノ探しサークルと分けるためじゃ……」
「まあ、テニスが目的のやつらばっかだってのはわかるよ。だけど、こうやっていくつもカップルできていくんだよな実際。男女のサークルって」
「そうだね」
「だから心配なんだよ。俺らのことは公表する。菜々子に変な虫がつかないため。そうしないと俺、心配で寝れねーよ」
「虫なんてつかないから!!」
「あなたは自分のことぜんぜんわかってねーんだよ!! ライバル風間……じゃなくて風間先輩だってあなたのこと好きじゃん」
「せめて十一月まで待って」
「やだ」
「お願い」
「なんで十一月?」
「……それは、そのー……。そのへんになればお互いの気持ちもちょっと落ち着く、から?」
「俺は落ち着かねー」
「あっ。そうだっ! ほら、夏合宿でさ、ナツとわたし、朝、二人で試合したじゃない? あの時負けたほうが勝ったほうの言うこと聞くって約束したじゃない? 覚えてる? ナツ、負けたじゃない!! あの約束、今行使する」
「……ずっりーの」
「お願いナツ。ナツの好きなもの、なんでも作る。何食べたい?」
「……ビーフシチュー」
「うんうん」
「……わかったよ」
「ありがとう」
「でも忘れるなよ。俺がいつもいつもいつも心配で心配でたまんないってこと」
「……うん」
「これ、渡しとく」
ナツがわたしの手のひらに握らせたもの、それは、鍵。
ナツの家の鍵だった。
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