Nanako 2.resolution-2
そっとナツの手をはずそうとする。
無意識なのか目を閉じたまま、ぎゅっとわたしの手をにぎる。
何回もそんなことを繰り返した。
ナツの手から力が抜けてきたと思ったから手をはずそうとすると、ぎゅっと握りしめてくる。
「……菜々子……」
何回目かにわたしが手をはずそうとしたとき、ナツはわたしの名前を、呼び捨てで呼んだ。
合宿で、酔っ払ってわたしがナツに、抱いて、とせまった時、ナツは何度かわたしを呼び捨てで呼んだ。
こう呼ばれるのが好き。
すごく好き……。
『あなたを抱くのは、あなたが心から俺に抱かれたいと思ったときだけだ』
あの言葉が胸にひっかかっている。好きだと言えばわたしを抱く?
そして終わりがくるの?
ナツはもうわたしに執着することがなくなって、わたしがおかゆを作ったあのミルクパンで、他のだれかがミルクをあたためるの?
ナツの手が完全に弛緩した。
わたしはそっとナツの手の中から自分の手を引き抜く。
きっと今日は泊まりになる。今のうちに、シャワーをかりよう。
わたしは着替えを持って、バスルームにむかった。
シャンプーやなんだかこだわりのありそうな固形のボディソープまで、全部クリアブルーで統一されたメンズ仕様だ。
バスルームに女の子を連想させるものはないけれど、何を見てもここに入ったかもしれないナツの前の彼女のことを思う。
大学に入るときに、家を出たと言っていた。
知るかぎり、わたしとつき合って、そして別れてからナツに女の子の影はない。
だとしたら、ちょうどこのマンションに移ってきた頃につき合っていた子。
その子、その子があのミルクパンを買ったんだろう。
そして、新歓コンパの時、わたしが勢いで「つき合って」と迫ってしまった時にはすでに別れていた?
わたしが部屋にもどると、まだナツは寝ていた。
額に手を当てるとまだかなり熱が高い。
「う……ん」
ナツがわたしの手をさぐって掴む。
寝ているのに、今この瞬間は、わたしを求めてくれるナツが愛おしかった。
「ナツ」
小さな声で呼びかけると、ナツは静かに目をあけた。
「もうお昼だよ? なんか食べて、また薬飲まなきゃ」
「じゃあ、さっきのおかゆ」
「それはいいけど、だんだん熱が下がってきたら栄養のあるもん食べなきゃ。買い物行かせてよ」
「だめ」
「餓死? 二人で」
くすっと笑ってナツが視線を机の方に動かす。
「ネットスーパーで買って。そこにパソコン……あるでしょ。母ちゃんが勝手に登録してった」
それからナツはおかゆを食べ、薬を飲んでまた眠ってしまった。
ネットスーパーか。
どうしてもわたしをここから出さない気らしい。
レポートをどうしよう。
仕上げてFAXで送ろうと思っていたけど、ナツの家にはFAXはないみたいだ。
パソコンにつないであるプリンターに、コピー機能しかついていないように見える。高橋教授はもうお歳のせいかとにかく紙にこだわるのだ。
わたしはスマホから高橋教授に連絡をとって、友達が高い熱を出したこと、二、三日分のレポートはまとめて、近くのコンビニから送ることの、了承をとった。
ナツの机をちらりと見た。
ノートパソコンだけがドーンと乗ってる。
「勉強なんてしないくせに、いっちょまえに机なんて!!」
ローテーブルで勉強しているわたしのほうがよっぽど必要だ。
わたしはナツの机に座り、パソコンを開いた。
これかな、ネットスーパー。
机の透明のカバーの下にネットスーパーのIDとパスワードを書いた紙が挟まっている。
「ふうん。面白いじゃない」
なんでもある。わたしも今度使ってみよう。
一通り注文を終えると、わたしはパソコンを閉じた。
ここで、英文レポートもやらせてもらおう。
リビングのテーブルでもいいけど、熱の高いナツが心配だった。
そんなのは口実で、本当はただ純粋に近くにいたいだけなのかもしれない。
リビングから、勉強道具を持ってきて、ナツの机の上に広げ、わたしはレポートにとりかかった。
どのくらい夢中で英語と格闘していただろう。
「ふぅ……」
一息つくと振り返ってナツの様子を伺うと、わたしに背を向けて眠っているようだ。
肩甲骨だけがとびでた平たい背中が大きく上下に動いている。
まだ息が相当に荒い。
ナツを見ていて、ふっと思いついた。
ナツはさっき、どうしてわざわざ保険証を自分で机の引き出しからとったんだろう。
もしかしてわたしに見られたくないものが入っている?
エッチな本とか……。
だめだめだめだめ、だめ……かなあ。
好奇心がだめをどんどん食い尽くしていく。
ちょっと……ほんのちょこっと覗くだけならいいよね。
なんちゃって。失礼しまーす。
わたしは一番上の引き出しを、音がしないようにそっとあけた。
え?
目にとびこんできたのはプリクラだった。
わたしと水族館に行ったときのものだけど、拡大コピーで写真くらいの大きさに引き伸ばしてある。
何回もくりかえして拡大したのか、二人の顔がぶれぶれで恐い。
ナツ……なにやってんの……。
もうこんなものはとっくに捨てられてると思っていた。
そのプリクラの上には、上品な水色の包装紙につつまれ、リボンのかけられた小さな箱が置いてあった。
取り上げてみる。
包装紙をとめるシールに店の名前と住所がローマ字で書いてある。
一点で目がとまった。
Omotesandou.表参道?
まさか、あの、ナツとつき合っている頃にいったあの店?
あの店は確か名前に表参道ってついていた。
アリスモチーフの女物のジュエリーは最低でも10万円以上したはずだ。
まさかね。
箱をもどそうとしたとき、箱と同じくらい小さな封筒が置いてある事に気がついた。
封筒にはジョン・テニエルのアリスの挿絵が小さく入っている。
あの店のオリジナルだ。
手が震える。
それでもわたしは、それに手をのばさずにはいられなかった。
封のしていない封筒からそっとカードを取り出し、二つ折りのそれを開く。
Nanako I love you. By Natuya.
わたしはカードを取り落とし、両手で口をおおった。
ナツ。ナツ。ナツ。
……これをいつ買ったの?
ずっとこれを持っていたの?
わたしの目から涙があふれ、あやうくカードを汚すところだった。
ナツありがとう。
勘違いでも思い込みでもいい。
プリクラのコピーをして、あの店に足を運んで、あのナツがあんな文面をカードに書き付けてくれた。
ナツがそうしてくれたその時間だけは、間違いなくわたしだけのものだよね?
ありがとう。ナツ。
ありがとう。神様。
もう、充分です。
一時にしろ、わたしは太陽の申し子みたいな男の子に愛された。
もう充分、本当に充分です。
その夜、ナツの熱は40度を越えた。
解熱剤を使うと一時さがる。
その間におかゆを食べさせて水分をとらせ、薬を飲ませる。
でもすぐに熱は高くなってしまい、ビニールに氷を入れて作った氷嚢で腋や足の付け根を冷やしても、なかなか熱は下がらなかった。
苦しそうに寝ているナツを起こさないように、すぐにとけてしまう腋の氷嚢を何度も取替えた。
氷を作るのが間に合わない。
わたしはロックアイスを買うために寝ているナツを置いて外にでた。
十二時を過ぎていたけどコンビニなら開いてるはずだ。
恐いよ。
どうしてこんなときに、ナツの家族は海外なんかに行っているの。
ナツのお父さんはお医者さんなんだから、入院だってなんだってさせてもらえるはずだ。
コンビニの場所がわからない。
人通りもほとんどない。どうしよう。
ああ、神の救いか、前から、サラリーマン風のスーツを着たおじさんが歩いてくる。
このへんの人で、きっと帰宅途中なんだ。助かった。
「あのっ。友達が高い熱を出してるんです。ロックアイスが欲しいんです」
「え?」
「コンビニは近くにありませんか?」
その人はていねいに道を教えてくれた。
道を走りながら思い出した。
そうだこの道、来た道だ。
健司くんが書いてくれた地図にコンビニが載っていた。
もう完全に気が動転してる。
助けて。助けて。ナツを助けて。
ぼろぼろこぼれる涙が左右に散ってゆく。
闇に灯るコンビニのマークが砂漠のオアシスみたいに神々しく輝いている。
わたしは大量のロックアイスとクール枕を抱きかかえ、走ってナツのマンションに戻った。
玄関をあけて、腰を抜かしそうになる。
「ナツ! なにやってんの!?」
ナツが柱につかまりながら、ゆっくり玄関のほうに歩いてくるところだった。
「どこ行ってたんだよこんな夜中に。危ねえだろ!!」
「危ねえのはあんたのほうよ!! 何度熱があると思ってんの? ベッドにもどりなさい!」
ナツはわたしの剣幕にぎょっとしたように目を見開き、その後おとなしくベッドにもどった。
「よかった。ぶ、無事でもどって。心配でよけい熱あがったぞ」
「ば……か」
なんでナツの顔がこんなにぼやけるんだろう。
わたしを心配してくれているナツの顔を、ちゃんと網膜に焼きつけておきたいのに。
「美人がだいなし……」
なぜか嬉しそうなナツがわたしの目の下を指でぬぐった。
ナツが指についた水滴をなめ取る。
「甘い」
「嘘……やめてよ……」
「いいだろ。この涙は俺のもんだ。……やっと……」
またわけのわかんないことを言う。
ナツはわたしの手を手繰り寄せ、ぎゅっと握りしめる。
「氷嚢、替えなきゃ」
「もう離さないよ。また外に出られたら、こ、こ、今度こそ、俺の心臓止まる」
「出ないよ。ロックアイスたくさん買ってきた。クール枕も。明日になればネットスーパーから食材がいっぱい届くから」
「……だ、…め」
「絶対でない。氷嚢替えたらすぐもどる」
返事がない。
ナツはもう苦しそうな寝息を立てていた。
一晩中、わたしは氷嚢を替えたり、クール枕を替えたりしながら、夜をすごした。
まぶしい光が瞼の裏側をちくちくと刺す。もう朝?
この寝室、朝日が直撃するんだね?
ナツ……。
ナツのベッドの上に手をのばした。
「ナツ……」
返事はない。
「ナツ……?」
わたしは跳ね起きる。
低いベッドに両腕を枕にして、わたしは横すわりの格好で眠り込んでいた。
飛び起きた反動で、わたしの肩に掛けられていたタオルケットが滑り落ちる。
ナツがいない。どうしよう。
「起きた?」
リビングから、コーヒーの匂いと一緒にナツがひょこっと顔を出した。
「ナツ……」
「もう十一時だよ。ネットスーパーから宅配届いたし」
「ナツ。熱どうしたの?」
「だいぶ下がったよ。今、37度5分くらい。昨日ホントにありがとな。菜々子さんほとんど寝てないんだろ? 俺のベッドに入れようかと思ったけど、動かしたら起きちゃいそうだったから」
「そうか……よかったー」
わたしはその場にへたりこんだ。
「カフェラテあるよ」
自分のコーヒーとは別に、わたしの好きな飲み物を入れてくれたらしいナツは、キッチンに行って、ミルクパンからマグカップにカフェラテをそそいで、持ってくる。
「ナツ、お腹すいたんじゃない?」
わたしも立ち上がってリビングに行く。
「朝ネットスーパーから品物届いて、パン入ってたから、それ食った」
「コーヒー飲んだらまた寝てなよ。わたしご飯作るから」
「うん」
いつもの柔らかい笑みでナツが笑う。
よかった。
ローテーブルの上にはナツがわたしのために入れてくれたらしいカフェラテが、まだ湯気を立てている。
好きな人が好きな飲み物を用意してくれるって、なんて温かいんだろう。
わたしはナツの向かい側のソファに腰掛けた。
「ねえ、菜々子さん、もしかして充電器って持ってきてる?」
「え、うんあるよ」
「貸してくんない。俺、熱だした日、ジムに充電器だけ忘れてきちゃってさ。菜々子さんと話してる時に充電切れたままなんだ。俺の携帯」
そっか、それであの時、何度電話をしても出なかったんだ。
わたしは鞄からごそごそと充電器をだしてきて、ナツに手渡した。
ナツはそれを持って立ち上がる。
ふわっとシャンプーの匂いがした。
「ナツまさか、シャワー……あびたの?」
「寝に行こう……」
「シャンプーの匂いがする!」
「だってさー、好きな子の前で汗くさいって最悪じゃん。髪だってちゃんと乾かしたし、大丈夫だよ」
「まだ熱、下がってないんでしょ? 病気治すのに真剣じゃないなら、わたしの昨日の苦労はなんなの? 今すぐ帰るから!!」
「すみませんでした。もうしません」
わたしはぷっと吹き出した。両手を拝むように前にあわせ、神妙なふりをするナツがかわいい。
「なに笑ってんの?」
「ナツ、いたずらがみつかった小さい子みたいでかわいいから!! ほら、子供は寝て寝て」
ナツがあからさまに不機嫌な顔をする。
「十八の男がそんな子供あつかいされて、かわいいなんていわれて喜ぶと思う?」
「別に喜ばせようとしてない。真実よ!!」
むくれたままのナツを追い立てて、ベッドへ行かせた。
シャワーなんてあびたらまた熱あがっちゃう。
おちおち寝てもいられない。
わたしがきのこ類がたくさん入った雑炊を持っていくと、まだナツは充電器につないだままのスマホをいじっていた。
「ナツ。できたよ。なにそんなに連絡するとこあるの?」
「そりゃ、あるよ。ボクシングジムとか、高宮さんとか、むだんでジムもテニスも休んだし」
「そっか」
わたしはサイドテーブルに雑炊を置いた。
「菜々子さんのは?」
「あっちにあるよ」
「じゃ、これもあっちもって行くから一緒に食べよう」
「うん」
ナツはだいぶ元気になってきたみたいだ。
今日はレポートし上げてコンビニから送らなければならない。
二人でフーフーと息を吹きかけながら雑炊を食べた。
「うまい。菜々子さん、ホント料理うまいね」
「ありがと」
男の子にアピールできるわたしの取り得はこれくらいかな。
「ナツ?」
「ん?」
「だいぶ元気になったね。ご飯つくり置きしていくから、今日は帰っても平気だよね?」
「まだ俺、熱あるよ?」
「うん。だけどほら、新型インフルエンザなら一度下がったら、もうあがらないって先生言ってたじゃない?」
「反応、陰性だったじゃん」
そうだけど。
疲れからくるもののほうがやっかいだ、とは先生が言っていた。
「俺、ガキの頃から午後になると熱あがるタイプなんだよな」
「………」
「頭痛くなってきた」
「………」
「腹、痛いかも」
「………」
「一人でいるとき、熱、40度でたらどうしよう」
昨日の、ナツがどうなってしまうんだろう、という恐怖がよみがえってくる。
「わかったよ。でもこういうのって………」
つき合ってもいない男女が一緒の部屋で寝るのってどうなの?
「俺、どんなに押し倒したくなっても我慢する自信あるよ。合宿んときで証明ずみじゃん。」
「もー! 覚えてないとか言ってたくせにしっかり覚えてるんじゃん!!」
あの合宿の夜の醜態がよみがえって、顔から火を吹きそうだった。
ナツにクッションを思いっきり投げつける。
腹痛いとか言っているわりにはきれいに平らげたナツの雑炊のお茶碗にわたしのものをかさねて立ち上がり、キッチンに逃げ込む。
ナツの直球が恐いよ。
気を使ってくれているのかと思うと、いざって時に切り札みたいに容赦なく痛いところをついてくる。
ナツもあの時のことを思い出してしまったのか、黙ってしまった。
「寝てくる」
「待って。薬」
「うん」
受け取るだけ受け取ると、ナツは口に含みもせず、握ったままベッドルームにむかう。
「お水は?」
「部屋にペットボトルがあるよ」
しばらくしてからベッドルームを覗くと、ナツはおとなしく寝ていた。
ナツが予告したとおり、夕方、熱は38度になった。
でも昨日ほど苦しそうではなく、頭痛もそれほどでもないらしい。
解熱剤を使うほどじゃない。
わたしが柔らかく煮た、野菜のたくさん入ったうどんをおいしそうに食べて、こっちがはずかしくなるほど、うまい、うまい、を連発した。
「インフルエンザじゃない気がする。前にかかった時と感じが違う。関節、痛くなったりしないんだ」
「そうなんだ」
「うつんないと思うから、俺のベッドで寝ろよ。俺はソファに行くから」
「何言ってんのよ。わたし、看病するためにいるんだよ? 病人がソファで寝てどうすんの。それにわたし、レポートやらなくちゃいけないから、ローテーブル借りるよ。終わったらソファで寝るから。苦しくなったら呼んでね」
ナツをベッドルームに追いやり、ローテーブルに勉強道具を広げる。
◇
「ん……」
まぶしい。
やっぱりここの部屋、朝まぶしいよ。
え? 朝?
「菜々子さん、もう8時だよ。今日、オレンジどうする?」
朝だ。
わたしは、いつの間にか、ローテーブルからナツのベッドに移されていた。
ベッドサイドに立つナツの笑顔を見上げる。
やだな、こんな寝起きの顔を見られるの。
いまさら遅いけど、髪をなでつけてみたりした。
「ナツ、熱は?」
「下がったよ」
「ごめん。ベッド……」
「明け方だよ移したの。菜々子さんテーブルに突っ伏して寝てたから」
「そっか。ありがと。やっと終わった三日分のレポート」
「大変だなー。ほんと悪かったな、この三日間」
「わたし、今日は大学行ってくるよ。レポート出して個人講義に行かなきゃ。ナツは? もう平気なの? 今、熱、何度?」
「36度8分」
「まだ本調子じゃないよ。今日は一日映画でも見てたら?」
ナツはしばらく黙っていた。
「菜々子さん大学行ったら、ここにもどってこいよ。こんな大荷物、持って大学いけないだろ? 帰ってきたら車で送るから」
お泊り覚悟で来たから、たしかに荷物がすごく多い。
こんなんで大学にはいけない。
「わかった。お昼から行って、夕方にはもどるから、じゃ、お願いするね」
ナツとわたしはそれから一緒に朝ごはんをつくり、一緒に食べて、一緒に食器を洗った。
幸せな時間だった。
なんだか昔、ナツと知り合って、突然つき合って、街をぶらぶら歩きながら笑いあっていたあの時間がもどってきたみたいだった。
幸せで、幸せすぎて、……せりあがってくる涙を止めるのが難しい。
ナツといる一秒一秒は、その粒がマシュマロみたいにやわらかい。
◇
高橋教授の研究室に行って、レポートのダメだしをしてもらう。
高橋教授が仕事をする横で、赤いチェックの入ったところを辞書で確かめながら書き直し、ようやく終わったのが、六時過ぎだった。
階段を下りて外に出ようとして呟きが漏れる。
「嘘」
雨がざんざん降っていた。
今日は傘を持ってきていない。
どうしよう……って駅まで走るしかないか。
大学から最寄の駅までは十五分くらいあって、走ってもだいぶ濡れてしまった。
そこから、ナツの家がある駅まで電車で十分も乗らない。
駅のロータリーを降りて、目を見張った。
ナツの黒いランドクルーザーが止まっていた。
迎えにきてくれたの?
「菜々子さんっ!」
ナツが運転席から大きく手を振る。
わたしは急いでナツの車に駆け寄った。
「わざわざ迎えに来てくれたの? 何時から待ってたの?」
「三十分くらい前? 雨降り出してから車出したから。もー、ラインしたのに気づいてくんないんだもん」
ナツは助手席に乗り込んだわたしに、持ってきていたバスタオルを渡してくれる。
「え? ライン?」
わたしはそこで自分の鞄からスマホをとり出して確認する。
ラインが四件入っていた。一件は千夏だけどあとの三件はナツだった。
「ごめんごめん。教授のとこだったからさ、マナーモードにしてた」
「だとは思ったけどさ。なんか個人授業とかってエロくねえ? 心配だなー。次から俺、一緒に行こっかなー」
あー、どうしてナツの思考はすぐそういう方向へ行くんだ。
「ぜんぜんエロくありませんからご心配なく! もうエッチ動画の見過ぎなんじゃないの?」
「そういうわけじゃないけど……。だってこんなにそっち生活充実してないの、童貞卒業してからないかも」
「なにばかなこと言ってんのよっ!! もう降りる!!」
ドアを開けようとしたところで、ナツに腕を捕まえられる。
「充実してないの、誰のせいだと思ってんの」
こんな会話の中でもナツの笑顔にときめいてしまう。
「だいぶ濡れちゃったな。大学まで行こうと思ったのにラインに気づいてくんないから、駅までしかこれなかったよ」
わたしの濡れた髪を眺めて少し表情を曇らせてから、ナツは車を出した。
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