Nanako 1.resolution
「来て。昨日からなんにも食ってない」
意味不明なナツからの電話で起こされたのは六時だ。
高い熱を出しているらしい。
たぶん充電がきれちゃったんだろう。
そこでナツの電話は突然途絶えた。
何度、ナツの電話にかけなおしても、『電源が入っていないか、電波の届かない……』
と、無機質なアナウンスが流れるだけだった。
ナツは39度の熱だと言っていた。
充電するのも辛い状態なんだろうか。
でも、なんでわたし?
家族が都内にいるんだから、普通はそっちに応援を頼むはずだ。
何か理由があって、家族には連絡とれない状態なんだろうか。
とにかく行かなきゃ。
ナツがわたしを頼っている。わたしを待っている。
39度といったら、一日で簡単に下がるような熱じゃないかもしれない。
ナツはオレンジに入ってから、テニスとボクシングの両方をやっていて、かなり無理がきていたはずだ。
わたしは二、三日ぶんの衣類を鞄につめた。
熱が高いなら氷枕や冷却シートが必要だ。氷枕はないけれど、冷却シートはあったはずだ。
それから薬。
売薬なら少しはあるけど、そんなに高い熱なら、病院行かなきゃダメでしょう。
とりあえず持っていくか。
すっぴんみられたくない。化粧品もなきゃだめだ。
あとは勉強道具だ。
高橋教授のレポートは毎日一枚提出。
電子辞書や筆記用具。
参考資料だけでもかなりの重さになってしまった。
それからスマホと充電器も持っていかないといけない。お金も多めに用意しよう。
思いつくものを片っ端から鞄につめこんで、最後に本棚の片隅に挟まっていたメモを引き抜き、わたしはナツのもとに走った。
急いで準備したはずだけど、泊まることになるかもしれない、と思うと、女は相当荷物が多くなる。
わたわたしていたら、すでに通勤ラッシュがはじまる時刻になってしまった。
上りの電車に乗り込むと手の中のメモをそっと開く。
以前健司くんに、学校の近くのあやしい中華料理屋で手渡されたナツのマンションの住所と地図だ。
『破ってもいいよ』と言われていたのに、わたしは結局破ることができずにいた。
こんなかたちで役にたつなんて……。
ナツ。
大丈夫なんだろうか。
あー、どうしてこの電車はこんなに進むのが遅いんだろう。
わたしのアパートとナツのマンションの最寄り駅は三つしか離れていない。
方向音痴だと言っていたのに、健司くんの書いた地図は相当にわかりやすい。
曲がり角にはちゃんと目印になるお店やコンビニの名前が書いてある。今はこのメモだけが頼りで、拝み倒したいくらいありがたい。
「あれだ」
十五階だてくらいの綺麗なまだ新しいマンションで、たぶん新築の分譲だ。
一階には、クリニックモールってほどではないにしろ、内科と小児科の病院、それに調剤薬局が入っている。
玄関はオートロックで、そのむこうに広くとったロビーの空間は、グレーを基調に落ち着いた大理石でまとめてある。
わたしは見とれながらも、早くナツの顔が見たくて、オートロックに彼の部屋番号を入力した。
しばらくしてかすれたような、寝起きのようなナツの声が聞こえた。
「な、菜々子さん」
「ナツ、大丈夫?」
「あ、今、あける」
エレベーターが上がって行くのももどかしく、急いでナツの部屋に走った。
玄関を開けてくれたナツは真っ赤な顔をしていて、グレーのパジャマ姿だった。
「ホントに来てくれると思わなかった。嬉しいよ。助かった」
そう言ってナツは玄関ドアを大きくあけてわたしに入るようにうながす。
「ご家族は?」
「えっと……海外旅行」
そうか、だからわたしが呼ばれたんだ。
「ナツ、熱、今、どのくらいあるの? 病院は?」
「今、うーん。どのくらいだろ? 病院は行ってない」
声がかすれているというか、うわずっているというか、息をするのも苦しそうだ。
「ベッドにもどって? そこで計ろう」
ナツはとなりの部屋によたよたと歩いて行き、ベッドにおとなしく入った。
十畳以上はありそうな広いベッドルームだった。
リビングに、はしごみたいな階段があったから、ロフトで寝ているのかと思ったら、ちゃんとした寝室があるんだ。
ベッドの横のサイドテーブルの上に体温計が置いてある。
ナツはそれを取り上げると、腋に挟んだ。
「ナツ、ご飯食べてないって言ってたよね? お米あるの?」
「あるよ。台所のシンクの下」
そこでピピピツと体温計がなった。
ナツは見もしないで、それをわたしに渡す。
「……嘘。どうしよう」
「何度?」
「39度3分」
「あがってんじゃん」
ナツは自分の額の上に腕を乗せて、身をよじった。
途中の自販機で買ってきたポカリスエットをナツに渡し、時間を確かめる。
八時四十分だった。
「ねえ、下の内科開くの何時? 診察券と保険証は持ってる? わたし順番とってくるから」
「わかんねえなー。俺行ったことないから。保険証はそこの机の引き出し」
わたしが保険証を取ろうと机のほうに向きを変えたところで、ナツに腕をつかまれた。
「俺がとる」
「え?」
荒い息遣いのまま、ナツはどうにか身体を起こすと、自分で机のほうに歩いていって、引き出しを開け、保険証を出してきた。
わたしに保険証を渡すとベッドに倒れこむように横たわる。
「頭いてー。割れそう」
冷やさなくちゃ。
わたしは鞄から冷却シートを出すと、ナツに向かって言った。
「これ、貼るよ?」
「ありがと」
おでこにかぶさっている髪をどけて、冷却シートを貼る。
「気持ちいー」
「おでこに貼るのは気持ちいいけど、あんまり意味はないんだよ。ふとい動脈が通ってる腋の下に貼らないと。そこからの冷えた血液が身体に回るの。ちょっと起きて」
わたしはナツの背中に手を入れて、その身体を持ち上げようとした。
「腋? やだよ。昨日風呂入ってないし。はずかしいじゃん」
「なに言ってんのよ病人のくせに。じゃ、なんでわたしのこと呼んだのよ? はずかしいなら健司君とかワタナベ君とかにすればよかったじゃない」
「もっとやだよ。気持ちわりぃ」
「じゃ、言うこと聞きなさい!!」
「わかったよ。でもそれは自分でやるよ」
ナツはもぞもぞと起き上がって、パジャマの前ボタンに指を掛けた。
わたしはとたんにはずかしくなる。
「じゃ、下いって順番とってくるね。ナツ、鍵ある? オートロックいちいちナツが開けるの面倒でしょ?」
「んっと、玄関の棚においてあるビンの中」
下の内科は開くのが九時だったらしく、ちょうど、受付のお姉さんがガラス張りのドアに診療中の札をかけているところだった。
順番は一番で、すぐ連れてきてください、と言われた。
わたしは上に行き、ナツに洋服を着るように促す。
ナツはどんどん具合が悪くなるようで、足元もおぼつかない。
それでもどうにか、自分で歩いて内科に入っていった。
◇
「新型インフルエンザかなー。検査してみますね。それにしてもだいぶ衰弱してるみたいだから、点滴が必要だな。点滴の用意!」
ひととおり診察を終えたお医者さんは看護師さんにそう指示した。
「新型は検査で出ないことも多くてね。でもわりとすぐ熱がさがる人が多いから、心配しなくていいよ。あなたも移らないようマスクして、手洗いうがいね」
ナツは点滴を受けるために処置室に入っていった。
「先生」
「はい?」
「あの人、ほとんど毎日、テニスとボクシング、両方やってるんです。一人暮らしでまともなもの食べてるのかあやしいし。疲労がたまって熱が出ることってあります?」
「あるよ。そういうのだとちょっとやっかいかもね。ウイルスより。若い人は若さを過信して無理するからねー」
ナツはインフルエンザ反応が陰性だった。
それでもインフルエンザだったら今日、明日中には熱がさがるらしい。
ナツが点滴を受けている間にとなりの薬局へ行って薬をもらってくる。
それから点滴を終えたナツを部屋につれて帰った。
何か食べさせなきゃ。
「ナツ、おかゆ作るね。待ってて」
「うん。ありがと」
キッチンへ入って行って、ちょっとびっくりする。
ここで料理をしたことがありそうなキッチンだった。
シンプルなステンレスのお鍋や、大小二つ、フライパンがそろっている。
お米。お米はどこだ。
シンクの下の戸棚を開けると、ちょうどいい大きさのミルクパンが入っていた。
緑のチェックのホーローだ。
こんなの、ナツのお母さん選ぶかな。
これだけどう見ても若い女の子の趣味だと思う。
新品同様のミルクパンを見ながら、これを買った女の子は今頃、どうしてるんだろうと思う。
ナツのために買ったミルクパンで他の女の子がおかゆをつくる。
そういうことが彼のまわりでは日常なんだ。
そうわかってはいても、もうわたしの気持ちは、すでに引き返せないところまできていた。
おかゆを持っていくと、ナツはベッドの上に身体をおこしていた。
点滴のなかに解熱剤が入っていたのか、今は少し楽そうだ。
「はい、熱いよ」
ナツがくすっと笑う。
「普通、食べさせてくれない? 病人なんだから」
わたしはナツのベッドサイドに膝をついて、おかゆをスプーンですくって持ち上げる。
ナツが心底驚いた顔になるから、わたしが笑いそうになる。
自分で食べさせてって言ったくせに。
ナツの口のなかにそっとおかゆを落とす。
「うまい……」
「よかった」
ナツはわたしのつくったおかゆをあっという間に全部たべてしまった。
それから病院でもらってきた薬を飲ませる。
「菜々子さん、なんでもできるんだね。熱の下げ方なんて、よく知ってたなって思う。さっきの医者でも腋を冷やせって言われた」
「施設育ちだからね。わたしは中学の一年までいたから、小さい子の面倒もみてきたもん。よく熱だすのよ小さい子は」
「知識が多くなるね。兄弟も多いんだろうな」
「そうだね。ナツは物事のいい面ばかりを見るね。なんかナツに会って、考え方、すごく影響うけたよわたし」
「俺も」
「え?」
「ひたむきで一生懸命で誠実で……もうそういうのが俺にはいちいち眩しいんだよ」
「えー? なにそれ」
「菜々子さん見てるとさ、あー、俺って真っ黒じゃん、とか思う」
熱のせいで瞳の光が柔らかい。
これも熱のせいなんだけど、変に色っぽい表情でナツがわたしをまっすぐに、射抜くように見つめる。
恥ずかしくなってナツから視線をそらす。
「ばかっ。くどき魔め。もう本性知ってるんだからその手にはのらないよ」
ナツの肩をちょっと押した。
ナツは寂しそうな目でわたしを見返すだけで、何も言い返してこなかった。
「横になったら? 熱、また上がってきたんじゃない?」
ナツの額に、手をあてるとまた39度くらいに上がったような感じがする。
ナツは布団に入った。
「ナツ、わたし氷枕とか買ってくるね? なんか食べたいもんある?」
ナツはわたしの手をぎゅっと掴んだ。
熱い熱い手だ。
「いい。ここにいて」
「ナツ! ナツの家、氷枕ないんでしょ? 買ってこなくちゃ」
「氷枕なんかより菜々子さんのほうが病気にきく」
「もう!!」
「俺、ズに乗ってるよな。わかってる。だけどこんな機会もうないかもしれないじゃん」
ナツはわたしの手を離さない。
「じゃ、寝るまでね?」
「じゃあ寝ない。寝たら出て行くんだろ? 帰るんだろ?」
「こんな状態のナツを放って帰らないから」
「ホントだな? 氷枕なんかいいから、ここにいろよ」
ナツはしばらくわたしの手をぎゅっと握りしめてがんばっていたけど、熱と薬が効いてきたせいかうつらうつらしてきた。
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