Natsuya 3.real intention


夏休み中、合宿が終わってからもほとんど毎日、オレンジの練習はあった。


だからほとんど毎日、菜々子さんに会える、はずだった。


だけどなぜか菜々子さんは、合宿後、オレンジを休みがちになった。


最初、四日に一回くらいで休んでいたのが、三日に一回になり、今では二回に一回は休んでいる。


高宮さんも何も注意しない。


ペアも組んでいて、親友の千夏先輩も何にも言わない。

ほかの二年がブーブー文句を垂れているだけだ。


秋には大きな大会があって、オレンジにとって菜々子さんは大事な戦力だ。


高宮さんと千夏先輩は、どうして菜々子さんが出てこないのか、理由を聞かされているはずだ。


「菜々子さん」


7月も終わりのある日、たまらなくなった俺は菜々子さんに直接聞いてみることにした。


あの『抱いて』事件以来、きまずさはあるものの、俺も菜々子さんもお互いあの日のことはなかったことにしようという暗黙の了解のようなものができていた。


でも、菜々子さんはさりげなくだけどあきらかに俺をさけている。


水道の蛇口をひねって手を洗う菜々子さんはめずらしくひとりだった。


「なに?」


蛇口をとめて、ならんだ水道の上に置いてあったタオルをとって手を拭きながら、菜々子さんは俺のほうを振り返った。



「なんで最近、休みがちなの?」


「……うん。あの、英語の宿題がね、すごくあるのよ。レポートの量が半端じゃなくて」


「そんなの変じゃん。なんで千夏さんや百合さんは、毎日出てきてんのに。一番勉強できる菜々子さんだけ」


「わたし、翻訳がやりたいから。高橋教授にちょっと面倒見てもらってるの。個人的な宿題なのよ」


高橋? ふうん。


「それホントなの?」

「ホントだよ」


まんざら嘘じゃないみたいだけどまだなんかあるな。


「俺に隠し事するとろくなことになんねーよ?」


ちょっと威嚇してみる。


菜々子さんは唇を引き結び、視線を左右に泳がせ、言葉につまる。


ほらな、なんかある。


俺は菜々子さんを見つめたまま一歩、彼女のほうに足をふみだした。


追い詰められた小動物みたいに握ったタオルがかかる彼女の肩がビクッとゆれる。



「ナツ!」



俺の背後で菜々子お助けマンの強い声が響く。


「はいはい」


振り返ると、案の定、千夏先輩が腕組みをして仁王立ちしている。

けっこうかわいい顔立ちがこのポーズでだいなしだ。


「菜々子いじめて、面白がるのはやめなさい」


面白がってねーよ。そんな余裕ないって。


「あっ!! わたし、次コート入るんだ。じゃーね」


菜々子さんはしらじらしく退散する。俺はその背を見送った後、千夏先輩の方に向き直る。


「千夏先輩。菜々子さんが高橋教授って人に個人的に勉強見てもらってるってホント?」


「ホントよ」


「そんなことアリなの? みんなおんなじ授業料払ってんのに」


「菜々子は英文科の中で一、二を争うくらい優秀なのよ。教授がやる気のある生徒には力入れて指導するのは当然っちゃ当然なんじゃないの?」


「ふうん」


「菜々子はね、本気で翻訳家になりたいと思ってるのよ」


そうだったのか。

また俺の知らない彼女の一面だ。


「ちょっと座りなよ!」


そう言って千夏先輩は勝手に水道のふちの縁石に腰掛けた。


「はい」


俺も素直に隣に座る。


「あんたさぁ、いつまで指くわえて菜々子のこと見てるつもりなの? 今のうちにどうにかしとかないと、ホントに遠くに行っちゃうよ?」


「俺だってどうにかしたいよ。だけど、菜々子さんは今でもしょっちゅう泣くほど高志先輩のことが好きなんすよ。それを、どうしろってんですか?」


「泣く? 菜々子が高志先輩のために? それ、いつの話よ」


「俺と二人の時はわりとしょっちゅう、そういう展開になるんすよ。足、くじいて俺が送ったときも。夏合宿の時なんて二度も」


「二度?」


「俺がついた朝、みんなが起きる前に菜々子さんとテニスしたんすよ。そん時だって、空みながら自分でも気づかないうちにすーって涙が。酔って、俺が部屋運んだ時なんて、そりゃもうぎゃあぎゃあ泣いてましたよ」


「……ねえ、それ、なんで高志先輩を思っての涙だってわかるの? 菜々子がそう言った?」


「そんなこと言うわけないじゃないっすか。でも高志先輩じゃなかったらいったい誰のための涙? 菜々子さんは高志先輩が好きなんでしょ?」


「昔はね」


昔? 

じゃあ今は違うとでも言うのか?


「ねえナツ、酔って、あんたが菜々子のこと運んでいった時、なんかあったんでしょ? 恋愛関係、ちくいち報告してくる菜々子が、あの日のことは、かたくなに黙ってるんだよ。ぽつんと、もうナツにあきれられたよ、とは言ってたけど」


「………」


「やっぱ言えないようなことがあったんだね。でもね、ナツ。何があったのかは無理に聞かないけど、あの時の言動こそが、菜々子の本心だよ」


「………本心…」


「菜々子はお酒飲むと、とたんに正直になるの。あんたも相当酔ってたから、わけがわからないのかもしれないけど、あの日、菜々子が言ってたこと、よく思い出してごらんよ」


「………」


そこで集合の合図がかかり、今日の練習は終了した。




テニスコートからひきあげて、オレンジの連中みんなでファミレスでメシを食ってから解散した。




マンションにもどり、ジムに行く用意をしていて、スマホの充電が切れそうなことに気がついた。


充電器を持って行ってジムで充電しようと充電器も入れる。


バイクでジムにむかう。筋トレしたりマシーンをやったりしてから、思い出して、『おう、充電充電』と充電器をコンセントに差し込む。


スマホをつなごうとしたところで俺の名前が呼ばれた。


「ナツー、リングあがれー」


先輩の声に持っていたスマホを鞄に投げ入れ、急いでリングにあがった。


ジャブ、ジャブ、ストレート。

パンチをくりだしながらも俺の意識は、他にあった。


昼間オレンジで千夏先輩に言われたことが頭のなかを周期的に行ったり来たりしている。

おかげでだいぶパンチをくらった。


「一之瀬、お前、疲れてるんじゃないのか? 今日は早めに上がったらどうだ?」


見るにみかねたオーナーがそう注意してきた。




千夏先輩の言葉がひっかかっているだけじゃなく、最近身体が妙に重い。ホントに疲れがたまっているのかもしれない。


「すいません。今日は早くあがります」


朦朧としてきた頭を振りながら、そう断り、ジムを出る。


俺は愛車にまたがって、マンションをめざした。


マンションにつく頃にはどうにも身体が重くて、十キロの米でもしょっているような気がする。


部屋に入ると倒れこむようにソファに寝転んだ。

なんだかもう動く気がしない。



千夏先輩の指し示すことは、つまりはどういうことだろう。


俺はずっとあの日依頼、菜々子さんが口にしたセリフを一生懸命思い出そうとしていた。


これはかなり希望的観測ではあるけど、まず寝言で俺の名前を呼んだ。


菜々子さんは俺が彼女を好きだと言っているのは、ただの思い込みだと信じていること。


これに関しては、かなり憤慨したけれど、俺の過去の女関係から彼女がそう結論づけたんなら、時間をかけて少しずつ、信頼してもらうしかない、と覚悟を決めていた。


それ以外、頭の隅にひっかかる言葉がないかと言えば、それは違う。


『抱けば俺の気持ちが収まる。違う誰かと恋をする。早くそうして、わたしをナツから開放して』


そんなようなことを菜々子さんは確か口走っていた。


――早くナツから開放して――


それ、どういう意味だ? 

俺が菜々子さんを捕らえているっていう意味か? 

菜々子さんの何を? 


別に身柄を拘束しているわけじゃない。

だとしたら、心? まさか、心? 


まさかな、まさかな、まさかそんなことってありえねえよな。


それが真相なら、俺は嬉しすぎてどうしたらいいかわからない。


待てよ。

絶対にぬか喜びだけはするな。


別れを宣告された日のぬか喜びはちょっとしたトラウマになっていて、俺はそれに関してめちゃくちゃに慎重になっている、と自分でも自覚がある。




あーあーあーあー。



ふだん使わない頭を使ったからか、なんだかこめかみのあたりがズキズキしてきた。


体重がいきなり100キロを増えたかのように重く感じ、シャワーするのも着替えるのも超めんどくさい。

寝よう。もう今日は寝よう。


俺はリビングからベッドルームに這うようにしてはいっていき、服だけ脱ぎ捨てると薄いタオルケットの下に身体を潜り込ませた。


次に俺が目がさめたのは朝、早い時間だった。

頭ががんがんに痛くて、体の内部が火をふいているようだ。


熱がでたな。熱なんて何年ぶりだろう。


母ちゃんが無理やり置いていった体温計が、確か、ベッドのサイドテーブルのひきだしにあった。俺はひきだしを開けて、体温計をとりだし、腋に挟む。


ピピピッ、と電子音が鳴るのを確認してそれを腋から取り出す。


「げー嘘……」


39度。

こんな高い熱がでたのは子どもの頃にかかったインフルエンザ以来かもしれない。


母ちゃんに連絡とらなきゃ。

昨日、晩飯も食っていない。


こんなに頭が痛くて、熱がでているのに、腹だけはちゃんとすく。


母ちゃんに電話をすれば、すっとんでくる。

でも俺は、菜々子さんに会いたかった。



菜々子さん、電話したら来てくれっかな。

絶対に来る。


俺は熱にうかされて頭がどうにかなっているせいか、おめでたい確信ができた。


のろのろと起き上がって鞄に入れっぱなしだったスマホを取り出して、菜々子さんのラインアカウントを開く。


まだ寝ているかな。いいか。


三コール目くらいで菜々子さんが電話をとった。


「ふぁい」


声が寝ている。


「俺、夏哉」

「うん」

「熱でた」


「え?」

「39度」

「ええっ?」


「来て? 昨日からなんにも食ってない」

「え? ナツ……あの……」


そこで電源が落ちた。俺のスマホの充電切れだ。

充電器はリビングだ。


じゃない!!!!!!


ジムだ。ジムのコンセントに刺しっぱなしだ。

がーん。死んだな。電話が使えねえじゃん。


俺の家は家電話がないんだよ。

菜々子さんは来てくれるかな。

あんな電話で……。


てか!!!!!!


彼女、俺の家がどこだか知らねえじゃん。

……死んだな、再び。


唯一幸いなことは、ここのマンションの一階に内科が入っている。


開く時間になったら、診察をしてもらって薬をもらおう。

その時に事情を説明して実家に電話させてもらうしかない。


あー菜々子さん………。


絶望の中で俺はもう一度、眠ったらしい。


次に起きたのは、下のオートロックから呼び出し音が鳴った時だ。


「うー……誰だよ」


激しい頭痛に頭を抑えながら、どうにか起き上がり、インターフォンのとこまで行って受話器をとる。


モニターに映ったのはなんと、菜々子さんだった。


「な、菜々子さん?」

「ナツ、大丈夫?」


来てくれたの? え? なんで?


「あ、今、あける」


俺はエントランス開錠のボタンを押す。



菜々子さんが大きい旅行鞄みたいなものを持って、俺のマンションに入ってくる映像がまだ映し出されている。


夢? 

でも夢じゃないとしたらえらいこっちゃな。


俺を見下ろせば、パンツ一丁という艶かしいイデタチだ。


やばい、とにかくなんか着るもの。

いや病人なんだから普通パジャマだろ。


俺はあたふたとベッドの下に落ちているパジャマを身に着けて、昨日脱ぎ散らかしたTシャツやジーンズを洗濯かごに入れた。


そこで、俺の家の玄関のチャイムがなった。








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