Natsuya 1.turning point


隣をみると菜々子さんが、放心したように、空を見上げていた。


何考えているんだ。


今は。

せめてこうして二人っきりでいる今は、俺のことを考えてほしい。


俺は菜々子さんのことばかりを考えている。


今やってきたテニスも、俺の知らなかった彼女の一面だ。


空に高く放り投げたボールを、腕とラケットを一体化して作り上げた一本のムチで、しなやかに叩く。


両足の間隔をとり、腰の回転をフルに使って繰り出されるバックストロークは恐ろしいスピードで、なおかつ、必ずサイドラインぎりぎりにはねる。


テニスをしている菜々子さんは、まるで獲物を狙う猫科の大型獣のように無駄のない動きをする。


前に千夏先輩に言われたことを思い出す。


『菜々子はテニスする時とお酒、飲んだときだけ自分に正直になるんだよねー』


そうだな。


はじめて俺に会って、つき合わない? と言ってきたときも酔っていた。


本当は遊びに行こうとか、その類のことを言うつもりだったらしい。


つまりはつき合ってほしいというのが本音だったんだろうけど。


風間先輩に酔って施設のこと喋っちゃったのも、誰かに聞いてもらいたくて聞いてもらいたくて、仕方がないことだったんだろう。


酔っていてもなし崩し的に、自分を好きな男とのつき合いを決めるようなことをしないのが、いかにも菜々子さんらしい。


そう、彼女はなんでも自分で決める。

つき合いも。そして別れも。


菜々子さん……その横顔を見ていて息を呑んだ。

彼女の目尻から、すーっと透明な液体が流れ落ちる。


涙が零れ落ちたことの他に、菜々子さんの表情に何の変化もない。

泣いてることに自分で気づいていないんじゃないかと思う。


俺は上半身をおこし、彼女の側に腕をついて身体をささえる。


「なんで泣いてんの?」


案の定返ってきた答えはこれだ。


「え? 泣いてなんか……」


あいつのこと考えてるのか、元緒高志。

いまでもそうやって、無意識に泣くほどあいつを好きなのか。


胸に怒りにも似た嫉妬がこみあげてくる。

最初は、菜々子さんの近くにいられればそれでいいと思っていた。

泣いてるときに側にいてやりたかった。


だけど俺はどんどんどんどん貪欲になる。


木や柵のかわりに抱きつかれるんじゃなくて、ちゃんと俺だって認識して抱きついてほしい。

誰かのためじゃなく、俺のために泣いてほしい。


ごめん菜々子さん。

俺、あなたと違ってわがままに育った。

甘やかされて育った。


どうしたって聖人にはなれない。


やっぱり、やっぱりあなたが……あなたの心がほしいよ。


あなたが決めてつき合い始め、あなたが決めて別れた。

今度は俺が決める。


俺は、人差し指を曲げて上品に涙をぬぐう菜々子さんにタオルをぶっかけて、言った。



「お嬢ぶっていまさらそんな上品に泣いたってダメだよ。ありゃ、お嬢テニスじゃねえな」


タオルでガシガシと菜々子さんの顔を拭きながら、こんな涙は最後にしろ、と祈った。


「やめてよナツ。そんなにゴシゴシ拭いたら、メイク取れちゃう……あ? え?」


「は?」

「わたし、もしかして……すっぴん?」


「そうなの?」

「ぎゃー!!」


別にたいしてかわんねえのに。



「ナツ! 前に出すぎだってば!!」


俺は同じ一年の相原とペアを組むことになった。

今日は最終日ってことで、サークル内の試合。


俺はシングルスは、一回戦で二年の先輩にあたり、あえなく敗退した。

でもダブルスは勝ち残っている、と言っても、一回勝っただけだけど。


「こっちのが得意なんだよ!! うりゃっ!」


バコッとすごい音をさせて、斜めに入ってきたボールをネットぎわで叩く。


これでゲームセットだ。


「な? 勝ったろ?」

「後ろ、がらあきじゃん。俺が前にいるときに出てきたら」



「攻撃は最大の防御なんだよ! 俺はラグビーとボクシングで学んだね。俺のストローク、すげえノーコンじゃん。前に出たほうが確率高いって」


「今はストローカーが主流なんだけど……。まあ、これで勝ってるからな。お前、めっちゃ足がはえーよな。ロブが上がってもまわりこんで間に合うもんな」


「超攻撃作戦も二人だからできるんだぜ? 俺、シングルスの一回戦、手が出なかった。ネットにでても守備範囲広すぎて抜かれる抜かれる」


「お前はすげーよナツ。テニス始めてニヶ月って、ありえねー」


「まったくの初心者じゃないけどな」


てなことを相原と喋っていて三回戦もがんばろーぜ

、と二人で士気もかなりあがっていたのに、次はあっさりと負けた。


まあ、そううまくはいかないか。


菜々子さんはシングルスが三位。

千夏先輩と組んでいるダブルスが四位だった。


元緒高志先輩はシングルスが二位。

ダブルスはシングルス一位の高宮さんと組んでいて一位だった。


あの二人がこのサークルの最強ペアってことか。

恋敵に完璧負けていて超悔しい。


テニスサークルで、ラグビーかボクシングで勝負しろよ! とは間違っても言えないところが哀しい。


もう一人の恋敵、風間先輩は中堅どころ、という感じだ。


でもシングルスであっけなく一回戦敗退の俺よりは、確実に強い。


というか俺は、このサークルでどう考えても一番弱い。


なさけねー!!


昨日からあんまり寝ていない俺は、部屋にもどると爆睡だった。

食事の時間に、枝川に裸足のつま先で蹴飛ばされてやっと起きた。


それからみんなで食堂に集まり、メシを食って風呂に入った。


今日は最終日ってことで、一年生は飲み会の準備があるらしい。


雑魚寝用の部屋に布団を敷いたり、宴会用の大部屋にビールや焼酎やポテトチップスや枝豆なんかを並べていく。


どうやら、俺が寝ている間に一年男子で、近くの酒屋に買出しに行ってくれたらしい。

悪いことをした。


でも眠かったー。マジで。


オレンジ総出のこの合宿、五十人はいる。


大広間に二列ならんだ長―いテーブルの上には、すっかり準備が整ったお酒たちが俺らの胃袋におさまるのを待っている。


部長の高宮さんの音頭で乾杯し、最後の夜の宴会が始まった。

スポーツをして風呂に入ったあとのビールはうまい。

みんなもそうなのか、一時間もたった頃には早くも脱落者が出始めていた。


三時間たった頃には人が半分以下になっていた。


菜々子さんをチラチラ見ながら酒を飲む。

二年の男女、何人かで車座になって話し込んでいる。


そのなかにはライバル風間もいる。

俺のほとんど真後ろのテーブルだ。


どうにかあっちのグループに入りたいけど、同じ二年生の先輩ばかりで、なんだか真剣な恋愛議論みたいな感じになっていて入りにくい。


俺は俺で、一年と三年の先輩が混じったグループにいて、抜けにくい。


もうちょっと脱落者が出て、人数が減ったら、菜々子さんの近くにいけるだろうか。


でも俺も、疲れがたまっているせいか、いつもより酒のまわりが早い気がする。


俺が脱落者にならないとも限らない。

それに菜々子さん。


顔には全く出ていないけど、さっきから身体がぐらんぐらんと揺れている。


ずっと見ている限り、そんなに飲んではいないはずだけど酔っているのは確かだ。

きっと彼女は酒に強くない。


そこで俺の耳にとんでもない菜々子さんの言葉が飛び込んできた。


「十八にして過去に十五人、彼女がいる男ってどう思う?」


は? それはもしかして。


「きっと華やかで綺麗な女ばっかなんだよー。その十五人。ブランドのバッグ持って、エステとか行っちゃってさー。わたし、エステなんて行ったことない」


「なんだよ菜々子、突然、それ誰の話だよ?」


反町先輩が聞く。


「だからぁ、わたしはその十五人は知らないよ。でもだいたい想像つくじゃない。わたしよりずっと綺麗で、エステに行ってて……」


「わかったわかったその十五人はもういい。お前が十五人にこだわってるのはよーくわかった。十五人のほうじゃなくて、男のほうは誰なのかってきいてんだよ」


「……わたしのモトカレ」


「は? 菜々子、つき合ってたんだ。うおー、風間っち、知ってた?」


安藤先輩に振られたライバル風間は曖昧な顔で笑っていた。


「菜々子、弱いくせに飲みすぎだってば。またあんたしゃべりすぎるよ?」


千夏先輩が菜々子さんの背中に手をかけてさすり、いさめている。


「うるさいなあ、千夏。わたしだって聞いてほしい話はあるのよ」


菜々子さんは千夏先輩の手をあぶなっかしい手つきで振り払った。


「菜々子、話ならいつでもシラフの時に聞いてるじゃん」


「シラフじゃ言えないこともあるの!」


大声で菜々子さんが怒るようにわめき、両手を拳にして自分の両膝を叩いた。


「そうだよ千夏、菜々子はためこむタイプなんだから、こういうときに吐き出しといたほうがいいんだって」


また安藤先輩が無責任かつ好奇心にみちた目で菜々子さんの話をうながす。


「どんな男だよそいつ。そんなにかっこいいのか?」


「超かっこいい」


え? 菜々子さん俺のこと、そんなふうに思ってくれてたの?


喜んだのもつかの間、菜々子さんの次の言葉にたたきのめされる。


「でもさあ、十八にもなって、片思いも失恋もしたことないんだよ? それって人間として一種の欠陥じゃないかと思うんだけどどう思う?」


「そいつ、振られたことねーってことは、お前が振られたのかよ?」


二年の、反町先輩が菜々子さんの肩に手を置いて、聞いている。触んなよ!!


「まあ振られたようなもん」


ぜんぜんちげえだろ!!


「だなー!! 十八で失恋や片思いの辛さがわかんねえんじゃ、まあ、人の痛みもわかんねえな。ま、やめてよかったんじゃん。そんなやつ」


ちらっと俺を見て、勝ち誇ったみたいにそんなことを言う男がいた。


風間ぁぁぁ。


「優しい人なんだけどー、人の痛みかあ……」


そう呟くと菜々子さんは自分の横のテーブルに突っ伏してしまった。



「ちょっとっ」


俺はたまらずに二年の先輩たちのほうに身体をむけて、立ち上がってしまった。


「ん? なんだよ? ナツ」


反町先輩が俺を、不思議そうに焦点の合わない目で見ている。


「俺は今思いっきり片思いしてるし、立派に失恋もした。だったらもう欠陥人間じゃねーだろ?」


寝ている菜々子さんに向かって吐いた言葉だけど、反応したのは、二年の別の先輩だ。誰だっけ?


「は? お前……。菜々子のことむっちゃ好きで追い掛け回してオレンジ入ってきたと思ったら、もしかして、モトカレってお前?」


やばい。

夏合宿までは恋愛関係タブー。


千夏先輩が目で何か俺に合図おくっている。


ごまかせってことか。


「いや、一般論っす」


「お前、言ってることめちゃくちゃだぞ? 酔ってんのか?」


反町先輩が聞く。


「いや……」


「菜々子つぶれたな。俺ちょっと部屋連れてって、寝かしてくるわ」


ライバル風間が菜々子さんの肩に手をかけ、身体を引き起こそうとしている。


じょ、冗談じゃねー!!


俺はライバル風間の腕をぐっと握りしめた。


「こういうのは後輩の仕事ですから、俺、行きます」


「俺が行くっつってんだろ! 先輩命令だ!」


「色恋沙汰に先輩も後輩もないっすよ。菜々子さんは俺が連れて行きます!!」


俺は菜々子さんが誰かに触られないように、背中にかばうような形をとった。


「なんだと! このヘっぽこテニスプレーヤー」

「一年後には抜きますって!!」


俺につかみかかってきそうな勢いだけど、体格が違う。


俺、ボクシングやってるし。喧嘩、めちゃくちゃ強いし。


それ以前にライバル風間も相当飲んでいるらしく、あしもとがふらついている。


「おいおいなんだよ。たかだか女一人で」


俺とさっきまで一緒に飲んでいた高宮さんが、ゆらーりと立ち上がって、仲裁に入る。


「酒で決めろ。酒で」

「はい?」


俺とライバル風間は同時に返事をする。


「一杯ずつ、同時に焼酎飲んで、先にギブアップしたほうが負け。勝ったほうが菜々子を運ぶ。これで文句はねえだろ?」


げー!! 


今から焼酎はキツいだろ。俺と同じことを考えているのか、ライバル風間は焼酎って聞いただけで吐きそうになっている。


「やるのかやんねえのかお前ら?」


すでに高宮さんが酔ってる。


「やります」


また二人、同時の返事。いやなことに、俺らはもしかしたら気があうのか?


俺とライバル風間はなみなみと注がれた、味のついていないただの焼酎をうんざりしてつかみとる。


でも絶対に、この勝負は負けるわけにはいかない。


「ドクターストップありだぞ? 急性アルコール中毒だすわけにいかねえからな」


こういうところだけ、酔っていても部長だ、高宮さんは。


俺は、一気に焼酎を全部飲み干して、グラスをドンっとテーブルの上においた、ら、勢いが強かったのかグラスが割れた。


だめだ力の制御ができない。


高宮さんに睨まれ、いそいで、慎重にタオルおしぼりでグラスの破片をかきあつめる。


「いや、自分、れんれん酔ってらいっす!!」


頭の中の言葉を、もしかして俺はうまく変換できていない?


ライバル風間は半分くらい残した焼酎と格闘している。

ギブアップしろ!!


念を送ったのに、やつは気合で全部飲み干しやがった。


二杯目の焼酎が注がれる。


こんなの、一気に飲まなきゃ、絶対に飲めない。俺は、また一気に煽った。

そして今度は、慎重にテーブルの上においた。


天井がまわる。

壁がぐにゃぐにゃ。


やべえ。


「いや、ほんとり、酔ってらいっすってら」


「わかった。ナツの勝ちだ」


は?


うつろに見ると、ライバル風間が畳の上にころがっていた。


やったぜ菜々子さんゲット!!


俺は菜々子さんを背負うと、一歩一歩、慎重に宴会場の出口に向かった。ここで倒れて他の男にさらわれるわけにいかない。


ダリの絵画みたいにぐにゃぐにゃの廊下……。

さっき俺たちが布団敷いた部屋、何階だっけ? 


菜々子さんたち、二年女子の部屋はどこだっけ? 


ああ、高宮さんが酔ったやつは男女別に、どこでもいいから雑魚寝部屋につっこんどけば、いいって言ってたよな。


雑魚寝部屋、雑魚寝部屋。


宴会場から、廊下に出て階段にたどりつく。

手すりにつかまりながら一足ごとに力をいれ、よじ登るようにしてどうにか階段をあがった。


そこで、ふらつき、壁にぶつかりそうになる。


背負っている菜々子さんをぶつけないように、自分から、壁に肩をつっこんで、身体をとめる。


もうこれ以上は一歩たりともも歩けそうにない。

どうにか俺は、階段から一番近くにあった部屋のふすまをあけた。


下の宴会場と同じようなつくりの畳張りの大部屋だった。


なんだよ布団、敷いてねえじゃんか。

まあ、もうここでいいか。


この旅館、俺らのサークルの他に泊まっている客はいないって言っていたはずだ。


俺は膝をついて菜々子さんをゆっくり背中から畳の上におろす。

このままじゃ体、痛くなるよな。


布団布団、どっかに布団ねえかな。


「お……」


押入れを発見した俺は、そこから敷布団と枕を持ってきた。


菜々子さんの横に布団を敷き、そこに彼女を慎重に乗せ、枕をあてがう。


起きる気配なし。


もう動く気力のない俺は、菜々子さんのとなりに倒れこむように横になる。





















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