Nanako 2.consciousness1
◇
わたしが東京に帰ったのはテニス合宿の前の日だった。
明日から合宿、というギリギリのタイミングだけれど、足の痛みはほとんどひいた。
ぐるぐるにテーピングをすれば、どうにかいけるに違いない。
荷物のパッキングも終わって、ローテーブルの前でコーヒーを飲んでいる時、わたしのスマホがメールの着信を告げた。
ディスプレイを見ると、高橋教授だった。
外国語学部の副学部長だ。
◇
大学の校門の前に集合して、車で菅平まで行くことになっている。
わたしの乗る車はくじ引きで、同じ二年の安藤君の車にきまった。
ずらりと縦列駐車してある菅平行きのサークルメンバーの車の中に、ナツの黒いランドクルーザーがない。
遅れてくることになっているからあたりまえだけど、もしかして、日程調整できたかも、とか……思っていた、らしい。
「菜々子、つまんないんでしょ?」
ナツのことを考えていたことを見透かされたようななタイミングで、千夏に声をかけられる。
「何が? とっても楽しいわよ」
千夏の顔みないで答える。
「不自然だって。今の答え方。菜々子すごい無理してるよ」
「なんのことよ?」
「好きになるもんか好きになるもんかって、すごい肩に力が入ってる」
「別に!! ホントに好きじゃないもん!! つき合ってるときも今も」
千夏はそこで少しだまった。
「誰のことか、言わなくてもこうやって話、通じちゃうもんね」
「え……?」
そこではじめて千夏の顔をまともに見た。
「信じていいんじゃない? あいつ見てるともう菜々子しか目に入りませんって感じで、他の一年もアプローチする前から完全にひいてるもん」
「そんなことないよ。女の子がつき合って、って言って、簡単にOKするようなやつなんだよ」
「今はOKしないよ。一人を除いてはね」
「そんなこと」
「あいつ、菜々子が田舎に帰ってる間、ずっと練習でてきてて、めきめき上手くなってるよ。弟のプライベートな練習にもついてってるみたいだし。夜はボクシングのジムだし」
「………」
「身体壊さなきゃいいけどな、って高宮さんが……。菜々子には手ぇ出すな、みたいな見当はずれな威嚇、だれかれかまわずしてるし。これってあんたのこと、遊びかな」
「それとこれとは違うよ絶対!! ナツは負けず嫌いなんだよすごく。この間負けた試合、くやしかったんじゃない?」
「素直になりなよ菜々子」
そう言って、千夏は自分に割られた車のほうに歩いていった。
スナオニナッテ、マタキズツクノガ、コワイ
菅平はテニスコートも多いけど、ラグビーの合宿のメッカでもある。
あちこちで縞のジャージのラガーマンたちが、もつれ合って楕円のボールを奪い合ってる光景を見る。
ナツもあんな感じだったのかな。
ナツのポジションはウイングだって聞いた。
ウイングってどれ?
走ってる人?
体当たりにつぐ体当たり。
あんなに激しいスポーツなんだね。
怪我しなかったのかなあ、高校時代。
遠くにラグビーのグランドが見えるテニスコートで、サーブの練習をする。
なんだかナツのいないオレンジが、いままでとは別のサークルみたいに感じる。
どうしてだろう。
ナツとわたしが一緒にサークルに出たのは、わたしが怪我をした、たった一日だけだったのに。
なんていうんだろう。
モナリザのいないモナリザの絵画を見ているような奇異な感覚を持ってしまう。
延々と暗い背景の続く、精緻だけれどなんの面白みもない絵だ。
ナツ、いつくるんだろう。
三泊四日のこの合宿に、どのくらい遅れてくるの?
一日? 二日? 最終日だけ?
ナツ……ナツ……ナツ……。
「菜々子!! お前、ちょっと頭ひやしてこい! さっきから全然身が入ってない。もうお前はリターンに回る番だ。テニスコート四面、十周!!」
「……すいません」
高宮さんの一喝にわれに返る。
ホントだ。
さっき、一緒にサーブをしていた子たちは、すでにみんなリターン側にまわっている。
わたしはいったい何をやっているんだ。
ラケットを金網に立てかけて、走り出そうとするわたしに、また高宮さんが口をひらいた。
「一之瀬が来るのは、明日からだ」
「かっ! 関係ありません!!」
明日は来るのか。何時頃だろう。
それからはわたしはとにかく練習に没頭した。
……正確には没頭するように努力した。
苦手なドロップショットのラケットワークのことだけを考えるように。
◇
二日目になった。ナツは朝からくるんだろうか……。
朝ごはんを食べている時も、わたしは気になって、大広間の入り口ばかりを注視していた。
こんなに早くはつかないか。
部屋で用意をして宿を出、テニスコートへ向かう。
たんぼのあぜを歩くような感じで近道をしても、あんまり近いとは言えない。
オレンジはお金持ちサークルじゃないから、取っている宿もホテルのような豪華な場所ではない。そしておのずとテニスコートまで遠くなってしまう。
基本的に昨日と同じメニュー。
それから実力別に分かれて、四年の先輩にどこが悪いか、弱いか、徹底的に指導してもらう。
時には、フォームから改善されることもある。
……ナツがこない。もう昼だよ。
午後から試合形式の練習に入った。
四年の先輩が分析して、わざとその子の苦手なショットや場所に打ち込む。
……ナツ、どうしたんだろう。
ボクシングの試合で負けて、動けないほどの痛手を負ったとか?
……まさか車の事故?
ボレーボレーのネット戦に弱いわたし。
そこを何度も、先輩に指摘されて――……。
「佐倉菜々子、お前やる気があるのか? さっきからボンミスばっかりしてるじゃないか。コート四面二十周してこい」
「はい。すみませんでした」
四年の先輩がわたしを睨んでいた。
もうすぐ今日の練習も終わる。
宿についてるんだろうか。
どうして高宮さんは、ナツの心配をしないのだろう。
高宮さんには、ナツからきちんと連絡が入っているんだろうか。それ以外は考えられない事態だと思う。
頭の中でごちゃごちゃとテニスには関係のない事象について考えながら、わたしはコート四面のまわりを二十週して、へとへとになった。
みんなのところにもどった時には調整も終わったらしく、もう全員整列していて、今日の練習の終わりを高宮さんが告げていた。
ナツ………。
わたしは用具の片付けやコートのブラシがけもそこそこに、宿に帰って、裏手の駐車場にむかった。
なんで……。どうして……。
ナツのランドクルーザーがない。
ナツどうしたの?
やっぱり事故? 疲れているのに無理をして運転したはずだ。
頭がパニックしてもう何も考えられない。
高宮さんに聞こう。
こんな、わけもわからず心配しているより、意地なんかはらずに聞いたほうがよっぽど楽だ。
「菜々子」
振り返ると、そこに立っていたのは高宮さんだった。
「ナツが来るのは、明日の午後だった。ごめんなまちがって」
それだけ言うと、高宮さんはきびすを返してスタスタ歩き出した。
「ばっ……ばかやろー……」
拳を固めて下を向いているわたしの目から、涙があとからあとから溢れては、アスファルトの駐車場の色をみるみるかえていく。
泣いてるわけじゃない。
これは……。
もう……自分に言い訳をするのにも疲れ果てた。
その夜、わたしは夕食を早々に終えると、千夏や百合やその他の子たちと群れて話すこともなく、ふとんに入った。
起きているとろくなことを考えない。
まわりはまだうるさかったけど、わたしは昼間、無駄にテニスコートの周りをぐるぐる走らされたおかげで、ぐったりと疲れていた。
ナツの心配ばっかりしていて、肩が凝っていたけどその心配も解けた。
わたしは早い時間からすぐに眠りに落ちた。
「ん……」
あまりに早く眠りすぎたせいか、わたしは夜中、目をさました。
マクラもとのスマホで時間を確認するとまだ二時だ。
明日もきつい練習だ。
さすがに起きている人はいない。
トイレに行ってまた寝よう。
寝ている人をふんずけないように慎重に移動して、わたしは大部屋のふすまを静かにあけた。
眠い目をこすりながら、無意識に窓から裏庭の駐車場のほうを見て……一気に目がさめた。
ある。
ナツの黒いランドクルーザーが、ある。
いつ来たの?
無事についたんだ!!
わたしは階段を早足で降りて、ロビーにむかった。
「嘘……」
ロビーに置かれた長いすの上で、ナツが、長い身体を腰と膝で折って、いつも背中にしょっている鞄を横抱きに抱えて眠っていた。
足元にはナイロンの旅行用の鞄が置いてある。
夜中についたんだ。
部屋がわからないけれど、疲れて眠っているみんなを起こしちゃいけないと思って、こんなところで寝ているんだろうか。
わたしは一度部屋に帰って、自分のタオルケットを手にナツのところにもどった。
ていねいにナツにタオルケットをかける。
ナツはピクリとも動かない。
ジムのあと、ずっと運転をしていて、相当に疲れているに違いない。
わたしはナツの横に座り込んで、彼の身体を包み込んでいるタオルケットのはじっこに、自分の身体をもぐりこませた。
別れてからずっとまともにナツの顔をみないようにしてきた。
ナツはものすごい引力の磁石みたいに、わたしの視線をひきつけようとする。
抗うのはわたしにとって、厳しい戦いだった。
でもいいよね。
ナツがこうして寝ている今なら、どんなに見つめていても、だれに何を言い訳する必要もない。
初めて見る寝顔。
笑った顔から想像するに、もっと幼い顔をして眠るのかと思っていた。
黒目が勝った、見ようによっては子犬みたいに愛嬌のある瞳が閉じられてるせいか、寝ているナツはいくつか年上に見える。
ちょっとだけ寄せられた眉毛が、スーッと通った鼻梁を雄雄しく見せている。
ローマ彫刻みたいに整った額も頬もニキビひとつなくてつるりとしている。
なのに、焼けた肌のせいか、広い肩幅と厚い胸板に覆われたワイルドな身体つきのせいか、美少年というよりは、やっぱり男、そう、男だった。
ナツはいつのまにか、わたしにとってたった一人の、『男』になっていた。
ナツがオレンジにあらわれたことで、やっとわたしがここにいる、ということに現実感が出てきた。
ただの風景画にモナリザが帰ってきた。
どんなに言い訳したって、こんな気持ちを恋という言葉以外に説明することは不可能なのだ。
「ナツ………」
また、わたしはやっちゃったよ。
手をのばしても届かない相手。かなわない想い。
ナツのわたしに対する興味は、つまるところ関係を待つことだ。
本人に言えば全力で否定するに決まっているけど、不完全燃焼のままわたしに別れをきりだされたことが、きっとナツの中ではひっかかっているんだろう。
それを恋だと勘違いしているナツ。
本当の恋を知らないナツ。
ナツのあごの下あたりにできてるソファの隙間に、腕を組んで乗せ、そこに頭を預けた。
ちょっとだけ、こうしていてもいいよね……。
大好きな……ナツ。
素直になって、また傷ついても、今度はナツの恋を見届けることだけはしなくてすみそうだね。
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