Natsuya 1.check
「さよなら」
菜々子さんがそう言って、足早に俺から離れていく。
今まで見たこともないほど冷えた表情に、俺の足はフリーズしたみたいに地面から離れない。
フリーズしているのは足だけじゃない。
頭もだ。
さよなら?
さよならってなんだ?
たぶんさっき、俺がトイレに行っている間に小泉たちに超不愉快なこと言われて、ムカついてんだろ。
だから今日は帰るって意味だよな?
今日はさよなら、のさよならだよな?
あいつら……彼女に何を伝えた?
俺の過去の女のこと暴露されたのはわかった。
あとは……菜々子さん、何を言ってたっけ。
いつも、酔った時のあいつらのシモネタは半端じゃない。
それは相手が男だろうが女だろうがおかまいなし。
フォルガのなかで、何組のカップルがそれで揉めたことか。
マジにつき合っている奴は最近、彼女を連れてくるのをしぶるほどだ。
俺も、正直菜々子さんみたいなタイプの女を、こんな男ばっかりの飲み会に連れてくるのは超気が進まなかった。
俺はきびすをかえして居酒屋にもどった。
小泉たちのブースに直行する。
「おい、小泉、おまえらあの人になに言った?」
俺は乱暴に小泉の胸ぐらをつかみあげた。
「は? なんだよナツ。なに熱くなってんだよ」
小泉はでかい手で俺の手首をつかみ、はずそうとする。
「べつにちょっとからかっただけだよ。どんなプレイしてんの、とか」
「もっとすげーこといっぱい言ってたじゃんよ」
ぎゃははーととなりのヤスが笑う。
「すげーこと?」
「淫乱なんだろ? とか相当好きなんじゃね? とか。まあ逆ナンするような女だし? ナツもあとくされない女としかつきあわねーじゃん。十七人目の彼女としてカラダはってがんばれって、いろいろ指導しといてやったよ。次からもっと奉仕してくれっかもよ」
「な…んだと」
自分のものじゃないみたいな低い声がこぼれた。
「しっかし、いい女だよなー。まぁムネはそんなないし俺の好みのかわいい系とはちょっと違うけど、すげー綺麗な顔してる。俺も一度お願いー…」
気がついたらヤスの顔面をおもいっきりなぐりつけていた。
「あの人はそういうんじゃねぇ!!」
「じゃ、どういうんだよ?」
一発でのびたヤスをかばうように、小泉が両脇から奴を支えながら反論する。
「お前、ヤったって言ってたよな? てかいままでの女だってソッコー、ヤってたじゃん。いまさら何、紳士づらしてんだよ?」
言った。
たしかに嘘ついてこいつらにはヤったって言ってた。
男の見栄みたいなもん?
つまんねぇプライドか。
「てめぇ……」
拳を小泉にむかってふりあげようとした時、その手が後ろからつかまれた。
「やめろよナツ。お前の拳は凶器だろ」
「健司」
「ナツ、今日はもう帰れ!!」
「うるせぇよ」
「彼女から連絡あるかもしんねぇだろ?」
そう言われて、俺はとっさに腕時計を見る。
九時。
そうだ菜々子さんから、電話がかかってくる。
俺は自分の鞄を取り上げた。
「健司、金払っといて」
俺は足早にこの場をあとにした。
「なんなんだよナツ」
小泉の声が追ってくる。
俺のかわりに健司が答えている。
「マジなんだよ」
マジ?
俺がマジで女を好き?
これがマジってことなのか?
マジってこんなに苦しいのか?
すんげぇ勢いで駅に向かいながら俺はそんなことばかり考えていた。
早く菜々子さんの声が聞きたい。
だけどなんて弁解したらいいんだ。
十五人だか十六人だか十七人だかわからないけど、過去にそのくらい彼女がいたのは事実だ。
全国にいけるようなスポーツのチームになら、多かれ少なかれファンの女がつく。
フォルガに群がる女。
別に俺じゃなくてもいい女たち。
誘ってくるし、誘えば簡単に寝る女たち。
でもあの人は違った。
ラグビーのファンでもなければ、フォルガを知っているわけでもなかった。
誘ったけど……俺と寝たりしなかった。
てかたぶん、誘ったことにすら気づいていない。
自分の家に帰った俺は、風呂場の棚にスマホを置いてシャワーをあびる。
菜々子さんを追いかける時、あせりすぎて、ビールのジョッキーを何本ももった店員にぶつかって、下半身、ビールまみれになった。
速攻出て、スマホをにぎりしめて時計を見る。
九時五十五分。
あと五分。
あと五分であの人の声が聞ける。
なんて言おう。
またあの時みたいに、あの、最初にキスした時みたいに、この話題に触れようとしないだろうか?
だけど、彼女のなかじゃ、絶対しこりになっているはずだ。
女が過去に十五人とか、俺と菜々子さんが寝たことになっているとか……。
不信感をもたれて当然だ。
そんなの嫌だ。
そうだ、電話がきたら会いに行こう。
顔見てしゃべらないと誤解が解けない、って誤解じゃないんだけど。
とにかく会って、正直に話をしよう。
飲んでいて車もバイクもダメだけど、電車と歩きだっていい。
二分前。
やべぇ。
心臓がバクバクいっている。
試合前よりバクバクいっている。
落ち着け、落ち着けよ。
一分前。
……会ったら話なんかの前に、速攻、抱きしめてしまいそうだ。
声が聞きたい。
会いたい。
触れたい。
俺の脳内で、彼女を求めてアドレナリンが踊り狂う。
俺は、手のひらの色が変わるくらいスマホを握りしめた。
十時ジャスト。
「な、鳴んねぇ……?」
なんで?
いままでこんなこと、つき合ってから、一度も、あんな時だって……。
パニックする頭に浮かんでくるのはさっき別れた時の菜々子さんの表情だ。
俺にむける冷えた目。
軽蔑。
憎悪。
……拒絶。
彼女の口から放たれた『さよなら』の意味。
「嘘だろ?」
さっきまで最高潮だった心拍数が急激に落ち、バクバクはズキンズキンに変わっていった。
「マジ、痛ぇ」
これ、なんなの?
心臓がマジで……。
俺はTシャツの上から心臓のあたりの肉をぎゅうぅっと鷲つかみにした。
あんまり頭にきて寝ちゃったのかも。
酔ってて寝ちゃったのかも。
たまたま親から電話がはいったのかも。
俺は電話のこない言い訳をいろいろ考えながらスマホをにぎりしめ続けた。
三十分経過……。
ダメだ。
電話はこない。
俺は菜々子さんにこっちからかけようと、画面の上に指を持っていく。
そのとき、脳裏をかすめるのは、『さよなら』と言ったときの菜々子さんの軽蔑にみちた目。
拒絶の目。
俺は……どうしても通話マークに触れることができなかった。
電話をかけて、一体あの人にどんな言い訳ができる?
彼女じゃない女とは寝たことがありません、とか?
それは間違いじゃないけど、純粋な当たりともちょっとちがうよな。
すぐヤレそうで、しかも後腐れのない女しか彼女にしなかったんだから。
俺も男だからセックスは嫌いじゃない。
いやどっちかっていったら大好き。
でもべつにしたくてしたくて気が狂いそうだとも思わない。
女といるより、体を動かしたり、野郎どうしで群れているほうがよっぽど楽しかった。
俺はたぶん、本当の恋愛を知らない。
俺たちは本当にこれで終わりなのか?
そもそも始まっていたのかどうかもわからない関係だ。
どうしてあの人は、いきなり俺につき合ってくれ、と、言い出したのか?
もちろん俺がその場でOKしたのは完全にヤリモクだった。
綺麗な女の子だったし、こんなことを言ってくるのはOKした俺と同じ目的なんだろうと勝手に解釈していた。
でも、何度か会って話しているうちに、この人は男と寝ることが目的で俺とつきあっているわけじゃないってことがわかってきた。
簡単にヤれそうにないことや、ヤったら簡単に別れられそうにないこともわかってきて、面倒くせぇと思ったこともある。
でもなぜか離れられなかった。
俺の知っている女と違う。
俺のいままでのつき合いは、お互い相手のことなんてほとんど興味はなくて、二人でいてもしゃべるのは各々自分のことばっかりだった。
ラグビーをやっている俺を好きだと言うわりには、ラグビーの知識にうとかったり、逆にラグビーをやっている男ってだけに興味があって、俺自身になんら興味がなかったり、だ。
俺は俺で、自分の好きなことや興味のあることは喋りまくるタイプだけど、思えば相手が何に興味があるのかとか、ほとんどどうでもよかった。
菜々子さんは喋りまくる俺の話を、まるで綿みたいに吸収していく。
たまに返される返答が心地いい。
この人と話すとなんでこんなに楽しいんだろう、癒されるんだろう。
なんでもっと自分を知ってほしいなんて気持ちになるんだろう。
気がつくと、俺ばかりが話していて、菜々子さんはほとんど話していない事実に焦る。
菜々子さんは俺といて楽しいだろうか、癒されているんだろうか、こんなに好き勝手に喋りまくる俺を、どう感じているんだろうか。
そう思うとものすごく不安になった。
菜々子さんに話してほしい。
菜々子さんのことが知りたい。
あの人は俺を、伸びやかに育った明るくて優しい太陽だとか言ったことがあった。
かいかぶりもいいとこだ。
本来の俺はそんなキレイなもんじゃない。
菜々子さんとは比べる絡もない。
あの人は目さえそらさなければ、嘘はついていないものだと簡単に信じる。
ぎゅっと菜々子さんを見据えて、嘘をつくことなんて簡単だった。
あの人を失わないためなら、俺は、たぶんいくらだって嘘をついただろう。
逆に俺は、菜々子さんの嘘を簡単に見抜ける。
知りたくて知りたくて、菜々子さんが言いたくないことでも知りたくて、不機嫌を装って無理に聞き出そうとすると彼女は嘘をつく。
生い立ちのことになると目が泳ぐ。
前に中庭であった男のことを聞こうとすると言葉がたどたどしくなる。
無垢だと思う。
少女の無垢そのままみたいな心は、大人のふりでつくった硬い殻で包まれている。
前に一度だけ食べた菜々子さんの手作り弁当は、どこぞの料亭の弁当かと思うような本格的な味だった。
十九かそこらの女の子がそんな弁当を、普通はつくれないだろう?
カフェで待ち合わせをしていて、菜々子さんが先についていると、窓際の席で、たいてい電子辞書を片手に彼女は英文の原書で書かれた小説を読んでいる。
俺のドイツ語を訳しているのは彼女だけど、第二外国語をあそこまですらすらとあやつれるものか?
あの人の前では、俺はいくつも年上の大人の男でいたり、逆になんにも考えてないただのガキに落とされたりする。
まるで雲みたいに掴めなくてよくわからない人だった。
近くにいてもどこか遠くて、もっと近づこうとすると拒非されそうで、どう扱っていいのか思い悩む。
あの人を、菜々子、とも、菜々子ちゃんとさえ呼べなくて、そんな自分に驚いていた。
そんなことを、ボーっと考えていたら、いつの間にか、窓の外が白み始めていた。
部屋の壁の色が刻々と変わるのを眺めながら、俺は眠りに落ちた。
床に崩れる寸前、俺の手は、ごちゃごちゃとモノの乗ったローテーブルの上から、起用にスマホだけをピックアップした。
寝たのはたぶん、数時間だ。
浅い眠りのなかで、菜々子さんと行った店、カフェや雑貨屋がいろいろでてくる脈絡のない夢を見ていた。
夢の中の菜々子さんは楽しそうに笑っている。
夢?
そうかさよなら、とかいわれたのは夢だったのか。
ふと開いた目の先に、握り締めたスマホがうつる。
着信を確認する。
「……夢のわけがねーか……」
一限は間に合わないけど二限にならどうにか間に合う。
大学に行けば、あの人に会える。
◇
「お前は小学生かよ」
片肘をつきながら、階段教室でやっている面白くもない講義のノートを取っていた俺の後頭部を、健司がはたく。
「は?」
「なんだよ、これ?」
俺のノートを指先でトントン叩く。
「はぁ―なんとなく?」
そこに踊る文字は黒板の写しじゃなくて。
菜々子 菜々子 菜々子 菜々子 菜々子。
「ちょっと抜けようぜ?」
俺は健司に肘をひかれるまま、教授が黒板に向かっている間に中腰でこそこそと教室を抜け出した。
自販機でコーヒーを買って、健司と二人、第二学食の前の段差に腰を下ろす。
ここからは、中庭のはじを横切って、研究棟下のガラス張りのカフェがよく見える。
オレンジのたまり場。
菜々子さん。
さっきあそこの前を通った時はいなかった。
でも、今はいる……。
彼女の姿を遠巻きに確認しただけなのに、筋肉が絞り上げられるような強烈な痛みが胸に走る。
なんなんだこれは。
彼女を見たいのに、痛くて見ることができず、俺は研究棟から目をそらした。
「話したのか? あれから」
健司が言うのはもちろん菜々子さんのことだ。
「電話、かかってこねーよ」
「んじゃ、電話しろよ! 何やってんだよ、てめーは」
俺は黙るしかない。女にこっちから電話って、小学校の連絡網くらいしか記憶にない。
健司は頼りになるやつだ。
高校時代、右ウイングだった俺の多少それた楕円のボールも、フルバックの健司はまるで読んでいたみたいにキャッチする。
敵方、全部に突進されるような場面でも動じない。
グラウンドを縦横に走り回るヘッドキャップからこぼれる金髪。
絶妙のコンビネーションと言われた俺と健司の攻撃も、裏をかえせば、こいつの細かいフォローなくしてはありえなかった。
グラウンドを降りた今でも、俺にとってはすべてを受け止める最強のフルバックだった。
「びびってんじゃねえよ、ナツ」
敵なしのお前にわかるかよ。
俺はあの人をこんな遠くからでさえ、見つめることができない状態にあるってのに。
◇
ボクシングジムを出ると、飲みに行こうという友達の電話を断って、まっすぐ家に帰った。
とてもそんな気分じゃない。
俺は家についてコンビニで買ってきた弁当を食いながら、また時計とにらめっこを始める。
十時。
今日の十時にはきっと彼女から電話がある。
なかば祈るような気持ちで俺はその時間がくるのを待った。
うまく話ができるとはかぎらない。
でもとにかく電話さえあれば、この先も菜々子さんは俺とつき合っていく気があるということだ。
つき合ってからいままで、かならず十時にあった電話。
その電話がかかってくることが今は大事なのだ。
でも結局、俺のスマホは十時になっても、十時をすぎても、うんともすんとも言わなかった。
体の半分くらいの血液が抜けたんじゃないかと思うような虚脱感におそわれる。
頭の中に浮かぶのはなんで?
なんで? なんで? なんで? という疑問ばかりだ。
なんか俺、菜々子さんに悪いことしたのか。
別れなくちゃいけないようなことしたのか?
してないよな。
だけど、俺が過去に女と真面目なつき合いをしてこなかったと知られたくなかったのは、こうなることをどこかで予測していたからで……。
だったら今の俺は悪くなくても過去の俺は悪くて、それで結局、今の俺と過去の俺は同じ人間だから、こうなっても仕方がないのかも――……。
ああーもうよくわかんねえ。
俺、菜々子さんみたいに頭がよくないからわかんねえよ。
俺は、ヤケクソでスマホをつかみ上げ、通話機能を作動させた。
「俺」
「ああ」
「電話、今日もねえ。俺、どうすりゃいいよ健司」
「今から来いよ」
俺は下だけジーンズに履きかえるとバイクのキーを握って、玄関を出た。
健司の家について、おばさんに「ちわー」と挨拶をすると、俺は二階のやつの部屋に直行した。
途中のコンビニで買ったビールをドカっとローテーブルの上に置く。
机の前に座って何かやっていた健司にかまわず、勝手にビールのプルトップをひいて、中身を乾いた咽に流し込む。
「だいぶ荒れてんじゃん」
健司が椅子から降りて、俺の前に座る。
「べつに」
「ヤスが悪かったってよ! お前にラインしても返信ないとか言ってたぞ」
「あーなんかそんなラインきてたかも。あいつ、大丈夫だったの?」
「まあ、一週間は腫れがひかないかもな、そんな程度だよ。まだまだお前のパンチは」
「そっか」
「お前、あの人、菜々子さんとヤったとか言ってたけど、それ嘘だろ」
仲間うちの誰かに聞かれてそう言ったのはつい最近のことだ。
「うん。わかるんだ?」
「まあ、勘? でもあの人そう軽いタイプじゃないって、お前、前、言ってたじゃんか」
「まあな」
「なんでそんな嘘ついたの?」
「わかんねえ。見栄みたいなもんだろ?」
「違うよ」
「は?」
健司は面白そうに片肘をついて、俺を眺めていた。
「お前、牽制したんだよ。俺の女だぞ。手ぇだすなよってな」
「牽制?」
「マジんなったお前見てんの、結構面白かったぞ。お前、自分でぜんぜん今までと違うとか、わかってねえんだもん」
「そんな、はたから見てわかるほど、俺、違ったのかな」
「飲み会ん時でもなんでも、チラチラチラチラ時間気にしてさ、十時まぎわにはどんなに話盛り上がってても、席はずすもんな」
「………」
「わかんねえ奴にはわかんなかったかもしんねえけど、フォルガの一部や今の友達でわりとお前に近い奴はみんな気がついてたぞ」
「なにを?」
「お前が今の女にマジだってこと。十時なんか律儀に待たなくたって電話したけりゃすりゃいいじゃんよ。『この時間に電話するねー』って言われて、それ行儀よく待ってる中学生見てるみたいでよー。マジ笑けたよ」
「うるせえよ」
俺はビールと一緒に買ってきた枝豆を健司に投げた。
「前にお前んちでした飲み会んときもよー、菜々子さんと昼間、デートだったんだろ? 食べなかったっていう弁当、お前、ナベが見つけて勝手に食ってたらものすごい剣幕で怒るんだもん」
「そうだっけ……」
「あんなお前、一度も見たことないじゃんか。中学ん時から一緒なのによー」
「………」
一気に喋ると健司はコンビニの袋からビールをガサガサとだして、プルトップを引いた。
だんだん胸がまた痛くなってきた。
そうだあの時、せっかく作ってきてくれた弁当なのに、一緒に食べてやれなかったんだ。
あんなにすごい弁当をつくるのに、菜々子さんはいったい何時から起きていたんだっての。
「なあナツ、ホントはどこまでいってたの?」
「キス」
「二ヶ月かけて、キスねえ。今時高校生だってもっとハイスピードなんじゃねえの? んで? どこでやったんだよ初ちゅー。いとしの菜々子さんとのキスなんだから、うーんとムードもりあげて海とか夜景バックにとかそういうんだ?」
「歓楽街の路地裏」
「マジ?」
いったん身を乗り出した健司はなにがそんなに面白いのか腹を抱えて笑い出した。
「おっまえ…ひー…ほんっと…余裕全然ないのな。なんか激情にかられてとりあえず、人のこない一番近いとこまで引っ張ってったんだろ」
あまりにあたっているだけに、俺は気味が悪くなるくらいだった。
笑っている健司を見ても腹はたたないけど、一緒に笑う心境にもなれない。
「手ぇつないだのも最近なんでしょうか? 夏哉クン」
「悪いかよっ!!」
どうとでもいじりやがれ。
ヤケ気味にビールを煽った。
いつの頃からか、菜々子さんの控えめな腕組みがもどかしくなった。
地下街を歩いていても、菜々子さんは気になるアクセサリーの店や趣味にあった雑貨店なんかがあると、いとも簡単に俺の腕を離してそっちに小走りで近づく。
『ちょっとだけ待ってて』とかいって、店をぐるっと見回してすぐに帰ってくる。
だけどその後は、もう忘れたみたいに俺の腕に腕を回さない。
触れていたい。
そう思い始めると俺はいつ菜々子さんが腕をまわしてくれるのかが気になって、会話に集中することもできなくなる。
頼むから早く俺に触ってくれ。
そうだ。
健司のいうとおり、触りたければ俺からアクションをおこせばよかっただけの話だ。
なのに、なにを俺はあんなにやきもきと、菜々子さんが触れてくれるのを待っていたんだろう。
いままでの彼女に対して、外で腕を組まれたいだとか手をつなぎたいだとか思わなかった。
いつも触れていたいなんていう女みたいな感情に、俺自身、嫌悪感があって素直になれなかったのかもしれない。
でも一度手をきっちり繋ぐことを知ってしまうと、これってめちゃめちゃ安心する、と思った。
いつ離れていくのか、いつ戻ってきてくれるのか、そんなことに気をまわさなくてすむ。
菜々子さん。
俺、わからないことが多すぎた。
知らなかった感情にとまどいすぎた。
「重い病気だなあ」
健司が枝豆を食いながら言う。
「やっぱ、俺、おかしいのかな。これって病気なのか?」
自分で言ったくせに健司は目をぱちくりさせてる。
だって、これ……この胸の痛み、普通じゃないだろ。
よく漫画なんかで『胸が痛くなる』とかいうけどそんな直喩じゃなくて、ホントに痛くなるんだよ。
最初の頃は笑ったときに印象の変わる顔にドキっとした。
それがいつの間にか、ドキンになり、ズキンになり、あの、最初のキスの直前の涙には、心臓がどうにかなったのかと思うくらいのズキィーーーーンのでかい波がきた。
ホントに弁解するつもりもないけど、俺は路地裏でキスをして菜々子さんに突き飛ばされるまで、自分でなにをやっているのか全くわからなかった。
ただ胸がめちゃくちゃに苦しくて、痛くて、咽が渇いた。
菜々子さんのどこをどうすればこの痛みが収まるのかわからないまま、ただただやみくもにあの人の肌を渇望していた。
「あのな? ナツ、病気ってのはいわゆる恋患いでな? ホントの病気だとはお前だって思ってないだろ?」
「わっかんねえよ。だってホントに心臓とまりそうなくらい痛えんだぞ? 女に惚れたくらいでそんなんなるのか?」
「なる」
健司はもう二年くらい同じ女の子とつき合っている。
飛鳥という、学祭で知り合った、他校の女子高生だ。
「飛鳥ん時でお前はもうわかってんのか」
「飛鳥ん時ってか……普通もっと前だろ? 小学校の五年くらいん時? 同じクラスにかわいい子がいてよ。俺、ドキドキしまくって、移動教室のフォークダンスで手ぇつないだら、心臓破裂しそうだったもん」
「あのタルいだけのフォークダンスでそんなドラマがあんのか……」
「ま、その子は受験しないで公立の中学校に上がったから、んー今はどうしてっかな」
小学校?
小学校でみんなこんなに胸が痛くなったりするの?
「お前どう考えても初恋遅すぎだろ? 大人んなってからのハシカが重いのと同じで、お前は一通りのこと体験しちゃった後に、初恋がきてんだよ」
「……そうなのかな」
「だから気持ちと行動が噛み合ってなくて、わけわかんねえ状態におちいってんだろ? 自分の気持ちにだって気づいてんだかどうなんだか」
あの飲み会で二ヶ月で、つき合いが長いと言われた時、冗談じゃねえ、と思った。
長くない。
俺たちは、もっとずっとずっと一緒にいるんだと、そう思った。
そんなことを感じる自分に、すごく驚いた。
今までと違うってことくらい……ようやく気づきはじめていたかもしれない。
「ナツ、どうせちゃんと好きだって言ってないんだろ」
「そんなこといちいち言うもんでもねーだろ?」
「てかさー、お前らの場合、つき合いはじめがなんか変だもんな、フツーは好きだからつき合ってくれって言うだろ?」
「そうか」
「そうかじゃねえよ。過去に彼女が二桁もいた奴の発言と思えないだろ」
過去に二桁はもう今となっちゃ反省以外のなにものでもない。
中には真剣に俺のことを好きでいてくれた子だって、もしかしたらいたかもしれないのに。
「ちゃんと自分の気持ち、伝えて来いよ。いままでのこと全部話して、好きだからもう一度、向き合ってくれってはっきり言えよ」
「怖えぇ……」
「ビビってんのかよ」
「すげえ軽蔑に満ちた目してた」
「へえ」
「拒否ってた」
「んじゃ、このまま自然消滅だな」
まただ。
ズキンズキンズキンと変に胸が痛む。
このまま菜々子さんに会えなくなる?
俺の前で笑ったり泣いたり怒ったり、そういう顔をもう見られなくなる?
やっとキスして手をつないで、あの舞い上がるほどの幸せな気持ちを、もう感じることができなくなるのか?
「やだ」
「厳密にはまだ別れてねえんだろ? お前、別れるのに了承してないんだろ? だったらまだケンカだよ、ただの」
―自信もてよ―
朝まで健司は俺の小学生なみらしい恋バナにつきあってくれた模様。
気がついたら二人、ローテーブルのあっちとこっちで転がって寝ていた。
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