Natsuya 2.John Tenniel
今日、学校が終わったら、菜々子さんに会いに行こう。
俺たち、まだ別れていないんだよな。
もうあの人から連絡を待っているだけなんて耐えられない。
どうしてもどうしても会って話す。
待ち伏せしてでも会って話す。
俺は大学に行く健司と別れて、バイクで表参道にむかった。
途中のATMで今月の生活費を全部下ろす。
現金が手元にあるとすぐ使っちまうだろうとか言って、母ちゃんは俺がしょっちゅう実家に顔を出すにもかかわらず、こうして生活費を銀行経由にしている。
二度目のデートの時に菜々子さんにつき合ってもらった、あのアクセサリーの店に入っていく。
あんまり自分の話をしない菜々子さんが、俺に好きだと言った、アリスモチーフのここのジュエリー。
初版の挿絵はジョン・テニエルでいまでも相当の人気。
重症だ。
世界史で外人の名前を覚えるのが苦手な俺が、なんで菜々子さんの口から一度名前が出ただけのイギリス男の名前なんかを覚えているんだ。
店員に鍵のかかったショーケースを開けてもらうと、俺は迷わず、細いチェーンの先にハートがついたネックレスを指差した。
いびつなハートがさらによじれたような、見たこともない不思議な形をしていた。
今の俺の気持ち、まんまを表しているような気がした。
これを買ったら当分飲み会には行かれないな。外食も控えるしかない。
実家でメシだな。それでもいい。
ちょうど試合もあることだし、ウエイトを落とすのにもちょうどいい。
こんなもので俺の気持ちが通じるんだろうか。
でも、今菜々子さんとの関係を修復させるのに、思いつくことならなんでもしようと思った。
あとは俺の気持ちを真摯に伝えるだけだ。
大丈夫だよな。
雨降って地固める、いや地固まるだったっけ?
ガチガチに固めてやるよ絶対にな。
夜まで待った。
菜々子さんは平日、かなり家庭教師のバイトを入れている。
確実に家にいるのは、やっぱり十時だ。
いつもあの人が電話をくれていた十時ぴったりにこっちから電話する。
俺に、もう会ってくれないかもしれない。
だったら会わないなんてことが、できなくしてやる。
一晩中だって家の前にいてやる。
一晩中俺に張られたら、あの人の性格だからでてこないなんてことはできないだろう。
俺はバイクで菜々子さんの家の前の道路に乗りつけた。
車よりバイクがいいだろうと思った。
バイクなら俺の姿が見える。
そのほうがあの人が、ずっと自分を待つ俺の姿に熱意を感じて、出てきてくれそうな気がするからだ。
俺はわざと菜々子さんの部屋から見える、道路を隔てた位置にバイクを止めた。
長丁場覚悟だった。
十時ジャストに俺は菜々子さんに電話をした。
すげえドキドキする。
初めて好きな女の子に電話をする、まさに中坊だ。
何コールかのあとに、菜々子さんの声がした。
「はい」
「俺……だけど」
「ナツ?」
「うん」
「………」
「話がしたい。どうしても話したいことがある。今、菜々子さんちの前の道路なんだ。出てきてくんない? 俺――……」
「いいよ。ちょうどよかった。わたしも渡したいもの、あったんだ。今行くね」
朝まででも待っているからって、言おうとしたのに、出鼻をくじかれたような菜々子さんの反応だ。
なにも怒っていないような、今までと変わらない普通の感じ……。
俺ら、またもとに戻れるんだ。
いや、『もとに』じゃない。
好きなんだと自覚した今、これからホントの恋人同士になれるんだ。
顔がニヤける。
歩いている時、もう絶対にあの人の手を離さない。
電話だって好きな時に俺からかける。
キスだって抱きしめるのだって会うたびにできるし、その先もきっといつか……。
嬉しすぎて、菜々子さんに渡そうとしているネックレスの箱をぎゅううっと握り締めて、せりあがってくる激情をとめる。
あせるなよ。
やみくもに抱きついたりすんな。
まず、いままでのこと、菜々子さんがあの飲み会で受けた嫌な仕打ちに対して謝るんだ。
それからきちんと自分の気持ちを伝える。
菜々子さんが外階段を軽快な足取りで下りてくる。
左右を見、車がこないのを確認してから、道路を渡ってくる。
紺のTシャツにベージュのスエット素材のロングスカート。
こういう部屋着姿の菜々子さんのとなりで、テレビを見る日がくるのかと思うと、幸せすぎてどうにかなりそうだった。
ああ、好きな女ってだけで、普通の女とはまったく違う進化をとげた別の生命体に見える。
苦しいほどに愛おしい。
「わあ! バイク? ナツ、バイクも持ってたの?」
「うん」
「すごいね、カッコいい!! ピカピカだ」
バイクは一人で乗るのが好きだった。
でも菜々子さんが好きなら、彼女を乗せて、今度海にでも行こう。
「悪かったな。遅くに」
こんなに近くで喋ったのは何日ぶりだ?
俺は緊張で、まともに彼女を見ることもできなかった。
「ううん。十時ジャストにかけてきてくれたでしょ? すぐナツだってわかったし」
え?
なんだこの違和感は。
ジャストじゃなくたってディスプレイを見れば、俺だってわかっただろう?
得体のしれないモヤモヤの中、俺は謝罪の言葉を口にした。
「ごめん。あの時の飲み会。ヤス、あ、友達だけど、あいつらになんかすげえ不愉快なこと言われたんだろ? 俺謝りたくて。本当に悪かった」
俺は、ひらいた両膝に両手をついて、頭を下げた。
「いいよ。もう気にしてない。男の子同士、飲むとああいう話になっちゃうんだね。でもナツも、本当に好きな子のことだったら、きっと友達にあんなふうに言ったりしないと思う。ナツは優しいもん」
何を……言ってるんだ菜々子さん。
本当に好きな子だったらって、どういう意味だ?
俺が硬直して次の言葉を捜していると、菜々子さんはスカートのポケットから、何かの券を二枚取り出した。
「これ、手に入ったの」
意味もわからず受け取ると、それはだいぶ先のボクシングの試合の券だった。
俺がどうしても見たい、って言っていた試合、プレミアチケットになるだろうし、絶対に無理だと思っていた試合だ。
「ホントは二人で行こうって誘うつもりだったんだけどね」
そこで菜々子さんはちょっと下を向いた。
「行こうよ二人で」
「もう無理。いままでありがとうね。楽しかったよ。喧嘩別れは嫌だから、こうしてちゃんとナツが謝りに来てくれたこと、すごく嬉しいよ」
話がぜんぜん別の方向に進んでいることに、俺はパニックした。
俺は謝りに来たんじゃない。
いや、謝りに来たけど、それとは別に、これから先のことを、これから二人でずっと一緒にいることを決めに来たんだよ。
「俺ら、別れるってこと?」
「うん」
「……イヤだ」
みっともないほどせっぱつまった俺の呟きに対して、菜々子さんは余裕すら感じさせるため息を小さくついた。
彼女はガードレールに軽くもたれかかった。
「あの飲み会に行ってね。いろんなことに気がついちゃったんだよ。誇張はされてたんだろうけど、ナツ、過去に十五人以上の子とつき合ってたんでしょ? それって十八の男の子にして、真面目なつき合いで出てくる数かなあ」
「それは!! いままでのことは」
「別にいいのよ過去のことは」
菜々子さんは俺の言葉をさえぎった。
「でもね、わたしがつき合ってって言った時、すぐOKしたのだって、真面目につき合おうと思ってのことじゃないでしょ? 目的があったんだよね」
菜々子さんが俺の目を射すくめる。
違うって言え。
嘘つくのなんか簡単だったじゃんか。
でもこの嘘がばれたらそれこそおしまいだと思うと、俺は恐くて彼女の目が見られなかった。
「わたしを部屋に誘ったのは、最初っから……つまり、そういうことだけが目的だったんだよね?」
言葉がつなげない。
「ごめんね」
「え?」
「ナツの思うようなつき合い方、わたしできない。ナツと本当にちゃんと恋愛っていうか、向き合いたかった。でも、ダメだった。わたしにもうちょっと魅力があれば、ナツだってきちんと恋愛対象に見てくれたはずだも――……」
「見てるよ!!」
菜々子さんが冷めた目でこっちを見る。
「見てるよ。今は菜々子さんだけを見てる。好きだ。今日はそれを言いに来た。好きだ、好きだ、好きだ。別れるのはイヤだ!!」
「嘘つき」
「嘘じゃない」
「本当に好きだったら友達に自分の彼女を
「違う!! 貶めてなんかない。悪かった。確かに最初の頃は俺――……」
「もういいよナツ。あの飲み会でね、わたしはっきり聞いたんだよ。わたしと寝たとか言ったの、あの日から一昨日前のことなんだってね。そんな最近になっても、わたしとのことあることないこと喋ってたんでしょ?」
そうやってしか俺のものだって、仲間に主張することができなかった。
ガキすぎた。
「きっとナツもいつか本当の恋愛をするよ。わたしにそれだけの力がなかったの、すごく残念に思う。さよなら」
菜々子さんは俺のほうに、右手を斜め下に向かって差し出した。
まっすぐ俺を見つめる菜々子さんの瞳は、あの居酒屋の前でさよならと言われた日に見せたような、軽蔑の色が薄れているような気がした。
そのかわり、憐憫が加わり、そして依然そこにあるのは、有無を言わせないような強い拒絶の色だ。
胸が鋭利な刃物でえぐられているようなすごい痛みで、息をするのも苦しい。
頭が朦朧とする。
今、何が起こっているのかを考えようとするのを、脳内物質が拒否している。
俺は動かなかった。
だってこの手を握ったら、それですべてが終わるから。
「ナツ元気でね。あ、サークルのほうは、わたしから部長に退会したって伝えるから」
「……いいよ。自分で……」
「そう?」
菜々子さんは俺がいつまでも手を握らないから、その手をそっとひっこめた。
固まったように動かない俺にもう一度、静かな声が投げかけられる。
―さよなら―
遠ざかる愛しい背中。
何でだ?
数分前までは、またこれから二人でつくる新しい時間を思って、一人有頂天になっていた。
まさに天国から地獄に叩き落された気分だった。
俺はずるずると、ガードレールを背にしゃがみこんだ。
「菜々子」
声にだして初めてあの人の名前を呼び捨てで呼んでみる。
意外なほどしっくりくるその響きに、俺はまたショックを覚えた。
簡単だったんじゃん。
恐がらないでちゃんと名前を呼んで、毎日俺から電話をして、困っていることはないのか、辛いことはないのか、口の重いあの人が話せるまで、辛抱強く待てばよかった。
そうしてちゃんとあなたが好きなんだって、あなただけを見ているんだって、分かってもらえばよかった。
今ならそうするのに。
そうしたいのに。
抱けなくたっていいよ。
そんなのもうどうだっていい。
ただ近くにいたい。
それだけでいいよ……。
菜々子さんの部屋の電気がついて、ぴっちり閉められたカーテンが黄色く浮かぶ。
窓枠の輪郭が大きく揺らめく。
両膝の間で組んだ俺の腕の上に、雫が落ちる。
ああ、俺泣いてんのか。
どのくらいたったんだろうか。
その後、カーテンの近くに人影が映ることなく、菜々子さんの部屋の明かりがスっと消える。
俺はその日、どうやって家に帰ったのか覚えていない。
ポケットの違和感に何気なく中を探ると、渡せなかったジョン・テニエルが箱までいびつになってあらわれた。
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