Nanako 1.envy
「悪くもないのに謝るな」
そう言ってナツはまたわたしを抱きしめる腕に力を入れた。
鍛え上げられた腕の力こぶが目の前にある。
骨がぎしぎしいって、骨格がずれそうな感じがして、呼吸困難になりそうだ。
ナツはあんなに何人もつき合った子がいながら、女の子を抱きしめるときの力の加減もわかんないんだろうか。
「く…くるし…」
けほっと小さく咳をしてから、呟いた。
「悪いっ」
ナツが腕の力を急にゆるめると、胸に空気が一気にもどってきた。
それからナツは横を向いて、頭をかきながらつぶやいた。
「めし……」
「え?」
「めし食いに行こう。俺んちに」
ナツの家?
つき合ってる時だって結局一度も行ったことない。
最初の頃何度か誘われたけど、途中からはもう誘ってこなくなった。
なのにどうしていまさら?
「あ、俺んちって、俺のマンションじゃなくて、実家のほうな」
「え? どうして………」
「親父、医者なんだよ。専門も外科。今日は夜勤でいないけど、捻挫の薬や湿布は山ほどある。母親も、俺の怪我が日常茶飯事だったから、対処の仕方は間違いないから。もう病院やってないだろ?」
ナツがわたしの手をひいてぐいっとひっぱった。
「ぎゃっ」
足首に激痛が走って、また転びそうになる。
怪我している女の子の扱いじゃないでしょ。
「あ、悪い。痛かったよな今の」
「あたりまえでしょ!! もう誰のせいでこうなってんのよ!!」
ナツが平手でぱかんとわたしの頭を横から叩いた。
叩き方はぱかん、なのに撫でているように痛くない。
「そうだよ! 俺のせい。そうやって悪いやつのことは責めりゃいんだよ」
自分だけ車のほうにスタスタ行きかけ、足を引きずりながらゆっくりついてくるわたしを振り返った。
「めんどくせーな」
もどってきて、ひょいっとわたしを抱き上げた。
「かっるいの。菜々子さん。もっと食えよ」
そのまま助手席側にまわると、開けて、と要請する。
ナツに抱きかかえられたまま助手席のドアを開けると、彼はわたしをそおっと下ろした。
運転席側にまわると、スマホを取り出して電話をかけ始める。
「あー俺。あのさ、これから家帰るから。え? あーうん、今日は女の子連れて帰るから――……。は? 違うつき合ってるとかじゃねぇよ。俺のせいで今日怪我させちゃった先輩でさ、一緒にめし食って送ってく。あと一時間くらいかなー」
そう言ってナツは電話を切った。
カーオーディオからナツの好きな外国のアーティストの曲が流れている。
ナツは今日のテニスの感想を一方的に喋り捲っている。
なんで女はみんな、テニスしてる時、パンツが見えても平気なんだ、とか、みんな落ちてるボール拾うのにラケットでパンパンたたきながらはずませてとるけど、俺にはあれができねえ、とか。
パンツじゃなくて、インナースパッツだよ。
見えてもいいようにスコートにくっついてるの、とか、ラケットつかってボール拾うのはコツさえつかめればすぐできるようになるよ、とか、わたしは律儀に答えていた。
「菜々子さんの打ち方、ものすげー攻撃的で、体全部使って打つじゃん。シャラポアみたいでかっこいいけど一番パンツ見えるよ。短パンにしたら?」
「だからパンツじゃないってば!! そんなこと気にしててテニスなんてできないでしょ!」
「やだなー、俺。菜々子さんのパンツ他の男が見るの」
「パンツじゃないっ!!」
いくら説明してもナツにはインナースパッツがパンツにしか見えないみたいだった。
男ばっかりのスポーツしかしてこなかったから、無駄なことに気がまわっちゃうのか。
根っからエロいのか。
でもナツはたった一日の練習ですっかりオレンジのテニスになじんでいた。
一年生はもちろん最近では上級生でもほとんどの人が、ナツのことをナツって呼ぶ。
ナツのこういうとこ、本当にうらやましい。眩しいっていってもいいくらい。
ダメだ。
別れた奴なんかにときめいたりしちゃ、ダメだ。
もう辛い思いをするのはたくさん。
高志と別れた時はもちろんだけど、ナツとの関係が終わった時だってわたしは相当のダメージをくらった。
もう、こんな辛い思いは当分懲り懲りだ、と感じている。
そのうち車は閑静な高級住宅街に入り、その中でもひときわ瀟洒なつくりの鉄の門の前にナツは車を横付けした。
窓をあけ、門についてるインターホンを鳴らした。
「俺だけど」
門の片側が自動で開いた。
大きい両開きの鉄の門は車のためのもので、人が通る門はその横に小さいのがある。
「すごい家」
「俺が稼いだ金じゃない」
謙虚な答えが返ってくる。
わたしをささえながらナツが玄関を開けると、そこにはナツのお母さんとおぼしき人と、お父さんとおぼしき人と、弟さん?
なぜか家族が勢ぞろいしていた。
「何か夏哉が大変なご迷惑をおかけしたそうで、申し訳ありません。さ。どうぞどうぞ入ってください」
お母さんがスリッパを並べる。
「なんで、親父までいんの? 土曜日、夜勤だろ?」
「いやなに。お前がよそ様のお嬢さんに怪我を負わせたそうじゃないか。病院のほうは克己にまかせてきたから、大丈夫だ」
「母ちゃん、親父に連絡したなー」
「だって光ならともかく夏哉が女の子連れてくるなんて初めてで……。しかも怪我なんてお母さんどうしたらいいか……。さ、おなかすいたでしょ? 残りものしかありませんけどどうぞ」
「捻挫の手当なんて俺とヒカリでしょっちゅうだったじゃんか。薬だって心得てるだろ」
「あんたたちと女の子はまったく別よ」
通されたリビングダイニングは五十平米くらいあって、八人掛けの大きなダイニングテーブルの中央には、飾りのついたキャンドルスタンドにラベンダー色のキャンドルがセットされたものが二つ乗せられている。
それを囲んでステーキやら魚介のいっぱい入ったサラダやらスープやらがところせましと乗せられている。
「なに考えてんだよ母ちゃん」
ナツがあきれたように額に手を当てうつむく。
「どこが残りもんだよ。絶対全部作ったな」
隣でナツの弟のヒカリ君が笑っている。
「肉のふくまつ、もう終わってんのに、俺、裏口からステーキ肉、買いに行かされた。俺たちの夕食、今日は干物と納豆と味噌汁だった」
「ちょっとヒカリ! よけいなこと言わなくていいの! せっかく夏哉が女の子お連れになったのに」
「お怪我なさったそうで?」
わたしに今度はナツのお父さんが近づいてきた。
「あの、夏哉君のせいじゃないんです。自分で勝手に転んで足首ひねったんです」
「さっきは俺のせいだって言ったじゃん」
「僕は渋谷に病院を持ってまして、専門は外科なんですよ。ちょっと見せてごらんなさい」
「はい」
わたしは椅子に座らされて、包帯を解かれ、湿布も取られた。
「腫れとるねー。二、三日は冷やして、その後は、温めてね。血行が悪くなると治りが遅い」
「はい」
ナツのお父さんは新しい湿布と新しい包帯を手際よく巻いてくれ、何日かぶんの湿布と包帯、鎮痛薬をくれた。
しばらく運動は無理のようだ。痛みが強いようなら改めて医者に行くように勧められた。
それからわたしとナツは、みんななぜか着席して見守るなか、真ん中で豪華な食事をして、その後のコーヒーは彼の家族も一緒にみんなで飲んだ。
息子が女の子を連れてくるのに、力いっぱいもてなそうとする母親。
緊急性のある患者はいなかったんだろうけど、たいした怪我じゃないとわかっているのに、病院を弟だという人に任せて帰ってきちゃう父親。
ひっきりなしにナツをからかったり、母親のあわてぶりを暴露している弟。
温かい。
空気が柔らかい。
ナツはこういう家族の中で育ったんだね。
家が豪華とかお金持ちとか、そんなことじゃない。
この雰囲気がわたしにはうらやましかった。
わたしがほしかったのはこういう家庭なんだ。
「夏哉君は長男なのに、医学部に行かなくていいんですか?」
ちょっとぶしつけだとは思ったけど、そう聞いてみた。
「うーん、医者になるならそれもいいかと思って、医学部のある付属中学は受験させたんですがねー、夏哉もヒカリも、勉強よりスポーツが好きでねえ。歳の離れた弟がいずれ病院を継ぐと思いますがね、そのあとは弟の子供かな。いや、そこの子がまたうちの二人と違って優秀でしてねー」
そこで、わっはっは、と笑い始めた。
おおらかだ。
「二人とももう子供じゃない。将来は自分で決めるでしょう。そのための手助けならいくらでもしますがね」
なんて愛にあふれた家族なんだろう。
わたしは涙が出そうになった。
わたしにはないもの。
なんでナツはわたしが持っていないもの、ほしくても手に入らないものを見せるの?
「あの、お邪魔しました。遅くなってしまいましたので、わたし失礼しますね」
もうこの幸せオーラに耐えられそうになかった。
「おー、そうだね。若いお嬢さんをいつまでもお引止めしてはいかんな」
「どうもごちそうさまでした。とってもおいしかったです」
「夏哉、送ってさしあげなさい」
「ん」
ナツも腰をあげた。
「近くの駅まででいいよ。せっかく実家に帰ったんだから」
「バカいうんじゃないの!」
またナツに頭を平手でぱかんと叩かれた。
「菜々子さん? 夏哉とおつき合いしてくださってるんでしょ? 夏哉をどうかよろしくね」
お母さんが満面の笑みでわたしの顔をのぞきこむ。
「いえ、あの……」
「だからつき合ってないって。菜々子さんにとっては俺はただの後輩」
ナツが助け船を出してくれた。
でもそのあと……爆弾。
「俺にとっては特別な先輩」
特別って、そんな家族の前でー……。
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