Natsuya 1.regret


俺は医務室まで菜々子さんを追いかけていった。


すぐにでも追いかけたかったのに、試合が途中になってしまったから、そのときのスコアで、一年ペアの勝ちということになり、握手をしたりなんだりで時間を食った。


あのやろう。勝手に菜々子さんを抱きかかえやがって。


あいつ、前に中庭で菜々子さんと喋っていた男だ。


元緒高志、って名前だった。このサークルだったのか。


菜々子さんが横倒しになったとき、迷いもなく審判席から飛び降りて彼女の体を抱き起こした。


もう慣れているような迅速な行動に、俺のイライラがつのっていく。


誰だよあいつ。

菜々子さんとどういう関係だよ。


医務室につくと半開きになった扉から、菜々子さんの後姿と、あいつの横顔が見える。


何か喋っているけど、話の内容までは聞こえない。


でも時折、名前が聞こえる。

菜々子、と呼ぶあいつの低い声。


高志、と呼ぶ菜々子さんの静かな声。


あいつが菜々子って呼ぶのはまだわかる。


ここのサークル、女の子はみんな呼び捨てにする慣習みたいだから。


他の先輩も菜々子さんをそう呼んでいるから。


でも、高志って? 


なんで菜々子さんが三年のあいつを呼び捨てにするんだ? 


そうだ。

前に、あいつは誰だって聞いた時、幼なじみって答えたよな。


だから、なのか?



そうこう思いをめぐらしているうちに、あいつが、菜々子さんの肩に手を触れ、愛おしそうにさすり始めた。


菜々子さんはやんわりとした笑顔を浮かべてあいつに視線を流す。


血液が逆流するような衝撃だった。


なんで? どうして? 




「気になるのかよ?」


ふいに後ろで声がした。


「風間先輩……でしたよね?」

「あたり」


「あの二人どういう関係っすか?」

「つき合ってたんだよ。一年前までな」


ミックスダブルスの試合が続く中、俺はコートのはずれの縁石に腰掛けてぐちゃぐちゃになった頭を整理していた。


『お前、この間まで菜々子とつき合ってたんだろ』


そう前置きをして、風間先輩は俺に全てを話してくれた。





俺には、衝撃的な内容だった。



菜々子さんにも、高志先輩にも生みの親がいない。

二人は同じ施設で中学までをすごした。


そしてそれぞれ、施設のあった長野県内の子供に恵まれなかった夫婦のもとに、養子として引き取られていった。


兄と妹のように過ごしてきた二人は、示し合わせたように同じ高校、同じ大学へ進学した。


もっとも示し合わせていたのではなく、一年年下の菜々子さんが、高志先輩を追いかけ続けただけのことではあるらしかった。


それだけ菜々子さんは高志先輩という人が好きだった。


ようやく長年の菜々子さんの想いが叶い、彼女の高校最後の冬に、二人はつき合い始める。


でもその交際はたった半年かそこらで終わってしまったそうだ。


高志先輩を追いかけて上京し、高志先輩の大学に入学し、高志先輩のサークルに入会した。


でも高志先輩は、菜々子さんと同じ一年で、同じ英文科の女の子を好きになってしまう。


それが菜々子さんの友達の百合先輩だ。


高志先輩は菜々子さんと別れて、百合先輩とつき合いはじめたそうだ。


まだ入学からいくらもたっていない頃で、百合先輩も、菜々子さんと高志先輩のことは知らない。


サークルのほとんどの人間がこの事実を知らない。


高志先輩は菜々子さんに気をつかい、サークルではほとんど百合先輩と一緒にいないそうだ。


いつまでも自分に気をつかい続ける高志先輩を思い、菜々子さんは、恋人を作ろうとしたんだろうと、風間先輩は、言っていた。



「なんでそんなくわしいこと知ってるんすか?」


「俺が菜々子をずっと見てたからだよ」


風間先輩はそう答えた。


施設の話は菜々子さんが落ち込んで、ひどく酔っ払ったときに、洩らしたそうだ。


一年の頃から風間先輩は何度も菜々子さんに告白しているらしい。


でも、彼女のなかで、白羽の矢がたったのが、どういうわけか俺だった。 


俺はあて馬。

菜々子さんが俺をなんとも思っていないことは、別れた今はっきりとわかる。


彼女は同じコートでテニスをしていても、たぶん全くいつもとかわらない。


俺に対する態度も、他の一年と全く変わらない。


枝川君と呼ぶように、俺のことはなんの迷いもなく一之瀬君と呼ぶ。


ダブルスを組んだあの時間だけ、菜々子さんはなぜか俺を、ナツ、と呼んだけれど。



俺はどうすればいい。こんな事実を知ったあとでも、彼女に対する想いは微動だにしない。

どうしようもなく好きだ。


ラケットを握る菜々子さん。


明るい光の中でも彼女の横顔は恐いくらいひきしまっていて、まるで限界まで絞り上げたヴァイオリンの弦を思わせる緊張感を持っている。


壮絶なまでに輝いている。

触れたら切れそうで、近づくこともできない。



俺の知らない彼女の一年。

好きな男が仲のいい友達とつき合う。


それが彼女にとってどんなに辛く、救いのないことか、今なら俺にはわかる。


ああやってテニスに熱中して、強くなることだけを考えようとした結果、彼女はあんな、胸が痛くなるほどに張り詰めた横顔を持ってしまったのか。


まだあいつのことが好きなのか? 


それでもあいつの前で、なんでもないフリをして笑うのかよ?


菜々子さんはきっと、溺れる者が藁をつかむような気持ちで俺にすがったんだろう。


俺を選んだわけはわからない。

でも、とにかく菜々子さんは俺にすがった。


俺に助けを求めた。

なんで彼女の闇に気づいてやれなかったんだろう。

激流の中にいた彼女。


藁なんかじゃなくて、どうして俺は頑丈な船になってやれなかったんだ。


いや、最終的に、俺は藁にさえなれなかったのだ。


「ナツー。コート整備」


いつのまにかミックスダブルスの試合は終わっていて、一年のやつらがコートを整備するブラシを持って俺を呼んでいる。


俺は立ち上がってそっちに走って行った。


ブラシをかけながらも頭の中は菜々子さんで埋め尽くされている。


俺と何度も街をぶらついていた時、彼女は楽しそうだった。


あんなに張り詰めた顔をしていなかった。

あの笑顔を俺は奪った。


苦しんで苦しんで苦しみぬいた末、俺に伸ばされた手を、俺はしっかりにぎってやることができなかったのだ。


それどころかひどく傷つけた。

俺は見切りをつけられてもしかたがないほど彼女を傷つけた。


好きだったくせに。


ものすごく好きだったくせに、そのことに気づきさえしなかった……。


頭をかきむしりたい気分だった。


「一之瀬君」


ブラシを用具箱にしまっている時、後ろから呼ばれた。

どんなに小さい呟きだって聞き分けられる愛おしい声だ。


俺はゆっくりふりむいた。


「ごめんね。さっきの試合」


片足を引きずりながら、菜々子さんが近づいてくる。


「捻挫。わたしくせになってるんだ。むちゃして転んで、巻き返してきてた試合、負けちゃったね」


なんでこの人は謝るんだろう。

もともとあの試合、組んだ相手が俺じゃなかったら、菜々子さんは楽勝だったはずだ。


別れた日もそうだった。

自分が飲み会で酷いことを言われて、傷ついたはずなのに。

俺の過去の素行を責めまくればいいのに。


『ごめんね』と言った。

わたしに魅力がないからだ、と視線を伏せた。


恵まれた容姿。透明な心。


女なんか受け付けなかった俺を、ここまで夢中にさせるほど魅力的なのに、自分をいつも責めるあなたが悲しい。


優しい言い方をしたいのに、あまりに彼女が痛々しいから、逆にイラついて声が棘を持ってしまう。


「菜々子さんのせいじゃないの、わかるだろ? 男の俺が荷物になってたんだ。そんで謝られるって逆にムッとくるんだけど」



「一之瀬君」

「その呼び方、二度とすんな!」

「でも……」



「俺をナツって呼んでたろ? その事実は消えない。つき合ってた過去も消せない。どんなにあなたが望もうともな!」


夕日に照らされて彼女のまっすぐな髪が透けて金茶色に光っている。


潤んだみたいな淡い瞳が戸惑うように揺れて俺を見つめる。


どんなに望んでも手に入らない俺にとっては、それは残酷なほどに美しい。綺麗だった。


「今日は送る。その足、俺のせいだから」


「だめだよ」

「話もあるんだ」


菜々子さんを一時そのままにして、近くにいた高宮さんのほうに歩いていった。


「菜々子先輩、今日、俺に送らせてください」


そう高宮さんに告げた。

俺が責任を感じているんだと判断したんだろう。

高宮さんは『じゃ、頼むな』と二つ返事でOKした。


その会話は当然菜々子さんにも聞こえる。聞こえる音量で話し、断れないように……縛ってしまう。


ライバル風間は車じゃなく、菜々子さんを送ることができない。


あいつは結局俺に、お前もただの当て馬だ、と言いたくてあんな話をしたんだろうか。


俺に彼女をあきらめろ、と。


俺だってどうしたらいいのかわからない。


届くことのない想いをかかえて、それでも彼女の力になりたい。


当て馬だってなんだっていい、と、いままで無縁だった感情に振り回される自分に、これは誰ですか? と問いたくなる。


ちょっと足をひきずりながらゆっくり遠ざかる細い背中を見ながら、俺はなんてことをしたんだ、とあらためて思う。


俺の人生でどこか一時間消していいと言われたら、間違いなくあの居酒屋、蔵、での一時間を消すよ。


菜々子さんが嫌なことを言われ、侮辱され、青ざめて打ちひしがれたあの時間だ。


そして……俺が振られたあの時間。


あの一時間、いや、三十分がなかったら、俺はまだあなたの隣にいられたのかな。


こんな事実を知ったって、俺にはきっと菜々子さんを離す、なんて選択肢はなかったと思う。



自分の彼女に片想いをしていたと思う。


当て馬の位置を誰にも譲るかよ、いつか本命だと言わせてやる、と闘志を燃やしてただろうな。


あの三十分で軽蔑されまくった俺に、もう二度とそのチャンスは巡ってこないんだろうか。




俺はランドクルーザーに菜々子さんと、その他、何人かをのせてテニスコートのある公園を出た。


近くの駅で、菜々子さん以外を降ろす。


車内に二人きりになった俺たちの間に会話はなかった。

俺は東京湾の見える穴場的な海べりの柵の前に車をとめた。


向こう岸に静かな夜景が見える。

俺は黙って車を降りた。


菜々子さんがあとからおずおずと降りてくる。


「つき合ってたんだって? 元緒先輩と」

「聞いたの?」


「全部な」


「ごめんなさい。ナツにつき合った動機が不純だって責めて別れたけど、わたしだって純粋じゃなかった」


「ああ」


「でも、ナツのおかげで、わたしはいろんなことがわかった気がする」


「どんなこと?」


「小さい頃から高志しか見てなかった。でもナツを見ていて、どうして高志が百合に惹かれたのかよくわかるの。わたしも高志も愛されることに飢えていた。施設でも、引き取られた家でも愛されるために勉強して、スポーツして、手伝いもして、いつもいつもいい子でいなきゃならなかったから」


「……へぇ」


「無条件で愛されている人は温かいの。きっと百合はわたしにはない明るさやぬくもりを持ってたんだと思う。ナツみたいに」



「あなたは俺にないものを山ほど持ってるよ」


「そんなことない。ごめんなさい。純粋じゃなかったのはわたしだって同じなのに、ナツを責めた」


菜々子さんの瞳から涙があふれそうになり、彼女はそれを隠そうとしたのか、俺に背を向け、海のほうを向いた。


銀色の柵を両手でつかみ、そこに顔を埋めている。


いつもこうやって泣いていたのか、この人は。


小さい頃から悲しいことがあると、母親の胸だったり父親の腕だったりじゃなく、柵に身を埋めて声を殺して泣いていたのか。


いやたぶん、たった一人、母親がわりであり父親がわりだったのが、歳的には兄に一番近い高志先輩だったんだ。


その人は結局違う人を選んだ。


辛さを乗り越え俺に手をのばした。


俺に愛されようと作った弁当。

無理してとったボクシングのチケット。


嬉しかったけど、それがなくたって、俺は必ずこの人に惹かれた。


俺は菜々子さんの小さな背中の後ろに立ち、彼女の体を囲むように柵を両腕でつかんだ。


「抱きしめるぞ」

「え?」


「あなたの抱えてきたもの、全部、俺が引き受ける」

「何言って……」


俺は後ろからそうっと菜々子さんを抱きしめた。


胸がつぶれそうに悲しくて、苦しくて、そうしなくちゃいられなかった。


俺と菜々子さん、触れている場所から彼女の痛みが全部俺に移ればいいのに、と願った。


菜々子さんがかすかに動くたび、呪文みたいに今だけ、今だけだからといい続け、抱きしめる腕に力をこめた。


本当はそうすることで、少しでも胸の痛みを減らそうとしていたのは俺のほうだったのかもしれない。



俺という男は、どこまでも自分勝手な奴だった。


俺の腕は菜々子さんの涙でびしょびしょになり、彼女はまた、ごめんなさい、と小さく謝った。


「謝るなよ。俺が勝手にやってることだろ」

「………」


「自分を責めるのはもうやめろよ。あなたは一度だって謝らなきゃいけないことなんかしてないだろ。もう絶対、謝るな」


「だって、自分のこと棚にあげて、ナツのこと責めたのはわたしなのに」


「でも、あなたは少なくとも、あの時は真剣に俺と向き合おうとしてた。遊びの相手に俺を選んだわけじゃないだろ?」

「うん」


「だったらもう謝るな。悪くもないのに謝るな」








































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